06. でも、これから一人だな……


 セッターのトスは大地の得意な位置にぴったりと上がった。それを向こうのコートにスパイクで叩き込もうと踏み込んだ瞬間、スポッとシューズが脱げた。

「うわっ!?」

 バランスを崩しかけながら、思わず声を上げる。

「大丈夫か?」

 後ろに並んでいた奥岳が心配そうに大地の足元を覗き込んでくる。

「怪我してない?」
「ああ、大丈夫。でもシューズの紐が切れちゃってるよ」
「きつく締めすぎてたんじゃないのか?」
「そんなことないと思うんだけどな〜……。まだ先生来てないし、ちょっと教室から体育館シューズ取って来るよ」

 大地はキャプテンの三年生に断りを入れて、体育館シューズを取りに自分の教室に向かう。
 それにしても不吉だ。バレーシューズの紐が切れるなんて聞いたことがない。何か悪いことの前触れでなければいいが、と心配になりながら体育館を出る。

「――澤村くん!」

 慌てたような声が大地を呼んだのは、そのときだった。
 声のしたほうを向くと、校舎のほうからバレー部の顧問の武田が走ってくるところだった。まだ若いその顔には、声と同様に慌てたような表情が浮かんでいた。いったい何事だろうかと、大地は内心で身構える。

「大変です! 烏養くんが交通事故に遭ったとさっき連絡があって……」
「えっ……」

 ぞわりと冷たいものが背筋を這うような感覚がした。軽い眩暈に襲われて、大地は思わずそばにあった柱に手を突いた。

「け、繋兄は無事なんですか?」
「わかりません。病院に運ばれたとだけ連絡があって、詳しいことはまだ何も……。とにかく、一緒に病院に行きましょう」

 大地は走って体育館に戻り、自分の荷物を持ってまたすぐに外に出た。武田と一緒に走って駐車場に向かい、車に乗り込む。

(神様……頼むから、繋兄が無事でいますように……)

 車に揺られながら、大地はただただ繋心の無事を祈っていた。必死になるのも無理はない。大地は似たような状況を一度体験しているのだから。
 両親が事故に遭った日、大地は家を訪ねてきた警官に連れられて病院に向かった。そして着いた先で病室ではなく霊安室に通され、両親の遺体を確認させられた。
 いま隣で運転しているのは警察官ではなく、武田だ。だけど状況が似ているということに変わりはなく、既視感を覚えざるを得なかった。
 両親のことはとても大事だった。だけど繋心を大事に想う気持ちはそれ以上のものだ。いまや大地の人生に必要不可欠な存在であり、彼のいない世界など何の価値もない。そう思うほどに繋心を愛していた。
 恐い。病院に着くのが恐い。きっと無事だと思う半面で、冷たい現実が待っているような気がして恐かった。もしも本当に繋心が死んでしまっていたら……そんな不安が拭えないまま、ついに武田の車はとある病院に辿り着いてしまった。
 車を降りると、足が震えた。このままどこかに走って逃げてしまおうか。そう思うだけで本当に逃げることなどできるわけもなく、武田のあとをゆっくりとついていく。
 受付で武田が繋心の名前を言うと、間もなくして一人の警察官が現れた。それを目にした途端に大地の不安が大きくなる。この人はただ事故の調査をしているだけで、繋心はきっと無事だ。そう自分に言い聞かせながら、ついてきてくださいという警官の言葉に従ってその背中を追った。
 警官は病院のずいぶんと奥まった場所に大地たちを案内した。そして一つの部屋の前で立ち止まり、一つ息をついたあとに扉を押し開けた。
 中に入った瞬間に大地はすべてを悟った。そこがありふれた病室でも、集中治療室と呼ばれる場所でもなく、霊安室だったからだ。

(嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だっ)

 ひんやりと重い空気が大地の身体にまとわりつく。更に奥へと進んでいく警官についていくと、そこには一つの簡素なベッドがあり、その上に顔に白布を被せられた人の身体が乗せられていた。

(嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……)

 絶望的な気分でベッドの上の身体を眺めていると、ついに警官が布をはぎ取った。
 焼けたような跡に、ひどい傷。至る所が腫れ上がり、思わず目を背けたくなるほどに事故の生々しさを表していた。状態はひどいが、それでも大地にはその顔が知っている人のそれだと――自分がこの世で最も愛する人のものだとわかってしまった。

「烏養繋心さんで間違いありませんか?」

 警官の機械的で冷たい声が大地の鼓膜を震わせた。認めたくない。繋心が死んでしまったなんて、そんなの認めたくない。だけどわかっている。これは現実に起きてしまったことだ。目の前に横たわるのは、大地を毎日のように好きだと言って抱きしめてくれた、温かな彼――
「……はい。繋兄……烏養繋心で間違いないです」



 そのあとのことはよく覚えていない。警官にいくつか質問をされて答えたような気はするが、何を訊かれたかはもう思い出せないし、自分がなんと答えたかも覚えていない。ふと気づけば待合室の隅に一人でぽつんと座っていて、自分の足元をぼうっと眺めていた。
 極まった悲しみが胸にじんじんと染み入る。その胸さえも自分の身体から引き抜かれ、まるで空っぽになったような感覚がしていた。いまにも涙が溢れ出しそうだったけれど、大地はそれを必死に堪えた。泣いたって死んだ人は帰って来ない。それは両親との死別で嫌と言うほど思い知らされたし、きっと死んでしまった繋心だって大地に泣いてほしいとは思わないはずだ。

「澤村くん……」

 呼ばれて顔を上げると、顧問の武田が悲しそうな表情をして目の前に立っていた。

「烏養くんをお家に連れて帰れるのは、もう少し後になりそうです。警察による調査もまだ途中のようで……。ひょっとしたら明日になるかもしれません。確か烏養くんのご両親は亡くなっているんでしたよね?」
「はい……」
「じゃあ、彼のご親戚の方をどなたかご存知ですか?」
「全然……。繋兄の両親は確か駆け落ちして家を出たって言ってました。だから親戚や従弟には会ったことがないって、昔聞いたことがあります」
「そうでしたか……」

 武田は困ったように俯いた。

「わかりました。ショックを受けているところにこういう話をするのは酷かもしれませんが、大事なことなのでちゃんと話をしておきましょう。葬儀やその他の手続に関しては僕ができる限り協力します。ただ烏養くんの交友関係についてはまったく知らないので、落ち着いたら澤村くんが知ってる限りでいいのでその人たちの連絡先等を教えてください。僕が連絡しておきます」
「連絡くらい俺がします。俺が知ってる限りって言うと、そんなに人数は多くないので」
「そうですか……では、そちらはよろしくお願いします。辛い心境でしょうが、放っておいていいことではないので、すみません……」
「なんで謝るんですか? 俺は、先生がいてくれてよかったです。一人じゃ何をどうすべきなのかわからなくて困ってたと思うので……」

 両親のときは繋心が諸々の手配をすべてやってくれた。大地はただぼうっと夢を見ているような感覚に陥ってばかりだったから、何をどうしたのかまったく覚えていない。

「でも、これから一人だな……」

 ぽつんと呟いた言葉に、武田は何も言わない。大地の隣に腰を下ろすと、ただ背中を優しく撫でてくれた。



 武田の車で家に帰り着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。力の入らない足取りでトボトボと歩いて、門を潜ったところで大地はギョッとした。玄関に誰かいる。その人影は大地に気づいて、ゆっくりと立ち上がった。

「大地……」

 聞き慣れた声が大地を呼ぶ。そこにいたのは奥岳だった。外灯に照らされた彼の顔はずいぶんと深刻そうで、それでどこかから繋心のことを聞いたのだと悟った。

「繋兄、事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫なのか? 一人で帰って来たってことはもしかして入院?」

 だけど事の顛末までは知らないらしい。あのときあそこにいたのは大地と武田だけで、二人ともまだ誰にも連絡していないからそれは当然だ。

「繋兄は……駄目だった」
「えっ……」
「病院に行ったら霊安室に通されて……もう、駄目だった」
「嘘だろ……」

 嘘だったらどんなによかっただろう。これが夢なら早く覚めてほしい。そして早く繋心に会わせてほしい。生きていて、楽しそうに笑う繋心に。
 大地も奥岳も、しばらくの間無言だった。ふと玄関先でいつまでも突っ立っているのも変だと思って、彼を家の中に招き入れる。
 リビングは今朝出かけに見たときとなんら変わりない。リビングテーブルに積まれた雑誌、ソファーの上のリモコン、部屋の隅に置かれた観葉植物。毎日目にしていた景色と変わらないはずなのに、いまの大地にはすべてが氷に包まれているように見えた。部屋の中にはひんやりとした空気が漂い、それが足に絡みついてくるような感覚がしてならない。

「晩飯食った?」

 奥岳が訊ねてくる。

「いや……」
「やっぱりそうか。実は母さんが大地の分と俺の分の弁当作ってくれたんだ。もし大地が一人になってたら、ちゃんと飯食えてないかもしれないからって。何か食べるような気分じゃないかもしれないけど、ちゃんと食べないと身体壊すよ」
「うん……」

 奥岳に促され、大地はダイニングテーブルに着く。奥岳は向かいに座った。そしてさっきから手に提げていた包みをテーブルの上に置き、中から大きめのタッパーを取り出してその蓋を開けた。中には色とりどりのおかずが詰まっている。どれも美味しそうで、ショックですっかり忘れていた食欲を大地は思い出した。

「いただきます」

 差し出された割り箸を受け取って、大地はさっそく弁当に手を付けた。最初に目についた、色艶のいい卵焼きを口に運ぶ。ふわりとした食感のそれは、大地好みの程よい甘さで美味しかった。二口であっという間に飲み込んでしまう。
 それから唐揚げやほうれん草のお浸し、たくさんのおかずを次々と胃袋の中に収めていく。ショックで何も喉を通らないと思っていたのに、大地の身体は正直だった。けれどもう少しで食べ終わろうかというところになって、ふいに涙が零れた。あれ、と自分でもそのことに驚きながらも、止めることができずにただただ溢れさせる。

「大地……」

 奥岳の心配そうな声が大地を呼んだ。けれど返事をすることも、顔を上げることすらできず、代わりに大地の口からは嗚咽が零れた。胸が締めつけられるような悲しみと寂しさ、そして虚無感が一気に押し寄せる。

「俺、どうしたら……どうやって生きて行けばいいんだよっ……」

 大地にとって繋心は人生のすべてだった。高校一年生なんてまだまだ子どもなのかもしれないが、子どもながらに己のすべてを彼に捧げてもいいと本気で思っていた。大地のそばにはずっと繋心がいて、それは二人が歳をとってからも、きっと死ぬまで変わらないものだと信じていた。けれどもう、大地のそばに繋心はいない。手も声も届かない、とても遠いところへと逝ってしまった。

「来年も、再来年も、それから先もずっと一緒に花火観ようって言ったのにっ……」

 二人でベンチに並んで座って観た花火。あのとき繋心は、大地といることがとても幸せだと言ってくれた。それは大地も同じだった。繋心と一緒ならどこにいても、何をしていても楽しくて、彼と恋人同士であることをとても幸せに感じていた。
 そんな日常はつい昨日まで続いていたはずなのに、いまはもうずいぶんと昔の出来事のように思える。あの日々はもう二度と戻らない。繋心と話すことも、抱き合うことも、身体を重ねることも二度とできないのだ。

「ごめん、大地。こういうとき、本当は俺が大地を慰めないといけないんだろうけど……いまはちょっと無理だ」

 どうして、と訊こうとして顔を上げた瞬間、くしゃくしゃに歪んだ奥岳の泣き顔が目に映った。そのときになって大地はようやく、繋心が死んで悲しいのが自分だけではないのだと気づかされた。
 二人分の嗚咽が静かな部屋の中に響き渡る。それは夜が更けるまで止むことはなかった。



続く





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