終. 来世でもまたお前と出会いてえな


 骨壺が重いことは知っていたし、実際に抱えてみてやはり重いなと感じた。けれど大地は家に帰ってからそれをずっと膝に抱えたまま、縁側で少し雑草の生えた庭をぼうっと眺めていた。
 葬儀の間は我慢したけれど、火葬場で骨になった繋心を目にしたときは堪え切れずに泣き崩れた。大地がこの世で最も愛した人は、いまやこの小さな箱の中だ。彼の肉体や魂はもうこの世界のどこにもない。けれど生きた証はしっかりと残っている。玄関の靴、洗面所の歯ブラシ、キッチンの箸、乱れた布団、その上に投げられたTシャツ……彼がいなくなったこと以外、この家はまだ何も変わっていない。だからこそ幸せだったときの景色が容易に蘇ってきて、また泣きたくなってしまう。
 目頭がじんと熱くなってきたところで、隣に誰かが腰かけた。奥岳だ。泣き腫らした顔で大地と同じように庭をじっと見つめる。

「なんかまだ実感湧かないよ。こうしているとどこかからひょこっと出てくるんじゃないかって思ってしまう」

 奥岳は寂しそうに瞳を細める。

「俺もだよ。散らかった服とか雑誌見てるとさ、まだこの家にいるんじゃないかって思って……でももう、いないんだよな。いるとしたらこの中だ」

 膝に抱えた箱を見下ろし、その側面を大地は優しく撫でた。

「それ、お墓に入れるのか?」
「う〜ん……繋兄、生きてるときに言ったんだ。死んだら骨は海に撒いてくれって。そうしたら世界中どこにも行けるからって。だからその通りにしようと思ってる。でもするとしても、いまはまだ嫌だな。まだもう少しだけそばに置いておきたい。……って、やっぱ気持ち悪いかな?」
「いや、それでいいと思うよ。俺が大地の立場だったとしたら、同じようにしてたと思うから」

 それからしばらく何も喋らなかった。二人でぼうっと座ったまま、各々が物思いに耽っていた。
蜩の泣く声がどこかから聞こえる。わずかに吹きつける風は少しひんやりとしていて、本格的な秋の訪れを予感させた。

「……なあ誠治。俺のお願い聞いてくれないか?」

 どうすればこの深い悲しみを忘れることができるのか、大地はずっと考えていた。いや、忘れられなくてもいいから、少しでも軽くしたい。でなければ苦しくてどうにかなってしまいそうだった。

「何?」
「その……俺を抱いてくれないか? 何もかも忘れるくらい、滅茶苦茶に」

 そうして辿り着いた答えがそれだった。他の誰かが与えてくれる快楽に夢中になりたい。そうすれば少しの間だけでも繋心のことを忘れられそうで、大地はその願いを無二の親友である奥岳に告げた。
 奥岳は一瞬驚いたように目を瞠ったが、それはすぐに悲しそうな表情に変わっていく。もしかしたらそれは同情の眼差しだったのかもしれないが、そんなことはもうどうでもよかった。

「それは駄目だ」

 奥岳の声は優しかったが、大地の願いを拒む言葉ははっきりとしていた。

「そういうのは、好きな者同士ですることだろ? 俺は大地のこと好きだけど、そういうのとは違う。大地だってそうだろ?」
「そうだけど……」

 確かに大地の奥岳に対する感情は、繋心を好きだった気持ちとは違う。あくまでそれは友情であり、大地もそれをちゃんとわかっていたが、いまは何でもいいから縋りたかった。

「辛いのはわかるけど、投げやりになるなよ。もっと自分のこと大事にしろ」
「大事にしたって、もうなんの意味もないじゃないかっ」

 自分を大事にしたところで、もう自分にはなんの価値もない。何をしたって誰が心配してくれるわけでもない。そのことを思うと悲しくなって、また涙が零れてくる。

「俺はもう、自分がなんのために生きてるのかわからない。生きていて何が楽しいのかもわからない。もう……生きたくない」
「そんなこと言うなよ」

 ふいに温かなものに包まれた。繋心のように逞しくも大きくもない、むしろ大地よりも頼りない身体が、大きな優しさを伴ってこの悲しみの湖に沈みかけた身体を抱きしめてくれていた。

「俺は大地が死んだら悲しいよ。だから生きたくないなんて言うな。辛いときは俺がそばにいる。そばにいて、こうやって大地のことを抱きしめてやる。だから……だからもう、泣かないで」
「誠治っ……ごめん」

 涙は枯れることがなかった。身体中の水分がすべてなくなってしまうのではないかと思うほどに泣き続け、気づけば奥岳の腕の中で眠っていた。
 夢の中で繋心に会った。彼はニヤリと悪戯な笑みを浮かべると、大地とは反対の方向に走っていく。大地は彼の背中を必死で追ったが、どれだけ速く走っても彼に追いつくことはできなかった。どんどん距離が開いて行って、最後には大好きだったその背中は見えなくなってしまった。



 繋心の部屋を整理するのには躊躇いがあった。彼の生きていた痕跡を消してしまいそうで嫌だったからだ。けれど顧問の武田から、繋心の遺産やその他もろもろの書類が必要だと言われて、仕方なく整理することに踏み切った。
 相変わらずの散らかった部屋。いまもまだ繋心がここに暮らしているのではないかと錯覚してしまいそうなほどに、一週間前と何も変わっていない。
 書類を探す前に床に散らかったものを片づけた。服はクローゼットの中に綺麗に収め、雑誌や漫画は本棚に並べる。その本棚の下半分にはいくつか引出しがついていて、もしかしたらこの中に大事な書類があるかもしれないと、大地は上から順番に開けていく。


“大地へ”
 そう書かれた封筒が、最初に開けた引出しの中に入っていた。ドキリとしながらそれを手に取り、封がしてなかったのですぐに中身を確認した。
 綺麗に折りたたまれた紙を引っ張り出し、広げるとそれはシンプルな便箋だった。決して綺麗とは言えない繋心の字で、彼の言葉が書き綴られている。


“大地へ。

 俺にもしものことがあったときにこれを読め。もしもっつーのは、たとえば俺が寝たりきりになっただとか、ボケてお前のことわからなくなっただとか、あとは……俺が死んだときだな。もしそういうとき以外にこれを見つけたら、この先は読むんじゃねえぞ! 恥ずかしいから!
 お前と付き合い始めてそろそろ三ヵ月か。楽しいことしてたら時間経つのが早いっつーけど、マジだな。このペースじゃあっという間にじじいになっちまう。なあ、お前はじじいになっても俺のこと好きでいてくれるか? ちなみに俺は、お前がどんな姿かたちになろうと大好きだぜ? だからって自分を甘やかして太ったりするんじゃねえぞ!
 まあ、そんな話は置いといてだな。遺産の話でも一応しとくか。まあ遺産つっても俺にはこの家と土地くらいしかねえけど。俺が死んだら家と土地はお前のもんだからな。あ、これちゃんと書いとかねえと大地が相続できねえのかな? 烏養繋心はなんかあったら澤村大地に家と土地を譲ります。……これでいいか?
 あとは別の封筒に通帳と印鑑、それから口座の暗証番号を書いた紙が入ってる。口座にある金は好きに使ってくれ。大した額じゃねえけど、なんかの足しにはなるだろうよ。

 高校卒業したら、大学はちゃんと行っとけよ。大卒って肩書はあとからいろいろと役に立つからな。まあ、そう言う俺は高卒だけどな! 説得力ねえって突っ込みが入りそうだわ。
 学費はお前の親御さんが残してくれたお金でなんとかなんだろ。だから大人しく進学しとけ。できることならバレーも続けてほしい。サークルレベルでもいいからさ。お前上手いし、高校で終わるのはちょっともったいないぜ。

 へえ、ちょっと疲れたな。普段こんなに字を書くことねえから、腕が痛くなってきたぜ。ってことでそろそろ締めにしとくわ。

 俺はいますげえ幸せだよ。たかだか24年くらいの人生だけどよ、その中でもいまが一番幸せだ。幸せすぎて罰が当たるんじゃねえかって少し心配だけど、まあそんなもん恐がるよりもお前といる時間を大事にするほうが有意義だよな。
 俺はたとえお前が寝たきりになろうが、ボケようが、絶対にお前のそばを離れねえよ。もしお前が死んだら……そんときはどうすっかな。やべえ、想像したらちょっと泣きそうになってきた。おい、絶対に俺より先に死ぬんじゃねえぞ! 一秒でも一瞬でもいいから俺より長生きしてくれ!
 ちなみに、お前は俺がボケたり病気になったりしたら、投げ出したっていいんだからな。お前はまだ若いんだ。いまから重いもん背負う必要なんてねえよ。まあわがまま言わせてもらうなら、ずっとそばにいてほしいけどな。
 俺が死んじまったら……新しい相手を探せよ。いつまでも死んだやつのことなんか考えなくていいんだ。そりゃちょっとは寂しいけど、俺はお前に一人で泣いてほしくない。お前は笑ってるのが一番可愛いんだからな。だから次に進め。変な遠慮はすんな。でも……俺のことは忘れないでくれよ。

 大地、俺の相方になってくれてありがとな。
 俺のこと好きになってくれてありがとな。
 俺もお前が大好きだった。死ぬほど大好きだった。
 できることなら、来世でもまたお前と出会いてえな。

 繋心”


 手紙を持つ手が震えた。繋心の気持ちが詰まった文字の羅列に、一粒の涙が落ちる。
 自分も幸せだった。繋心のことが大好きだった。ありがとうと言わなければならないことが、自分にもたくさんある。だけどその想いを繋心に伝えることはできない。もう、できないんだ。切ない思いに胸を締め付けられて、大地は手紙を抱きしめたまましばらくの間泣いていた。



昨日にさようならを言うのはとても難しい――前編 完





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