目の前に、明日へと続く扉があった。それは少し手を伸ばせば簡単に届く距離にあったが、大地は手を伸ばすことをしなかった。むしろ扉に背を向け、自分の歩んで来た道を――もう取り戻すことのできない幸せな思い出を、まるで映画を観ているような感覚でずっと眺めていた。
 懐かしくなると同時に、切ない気持ちに駆られる。どうしようもないことだとわかっていても、あのときこうすればよかったという後悔の念が未だに募る。“彼”が亡くなってからもうすぐ四年。いくつ歳を重ねても、傷の痛みはなかなかなくならない。その痛みに足の自由を奪われて、大地は前に進めないままだった。




 昨日にさようならを言うのはとても難しい――後編






01. 泣かないで


 涙が眉間を滴る感触で大地は目を覚ました。
 久しぶりに繋心の夢を見た気がする。幸せだった頃の自分たちを遠くから眺める夢。あのときからずっと塞がらないでいた胸の穴がしくしくと痛んで、大地はそれをやり過ごすために枕を強く抱きしめた。
 隣に人の気配を感じたのはそのときだ。背中に人肌の温もりと柔らかさを感じ取って、大地は思わずぎょっとする。同じベッドで夜を過ごすような、親密な間柄の人間はいないはずだ。そもそも大地にはそういう気がこれっぽっちもない。ではいま背中にいるのはいったい誰なのか――恐る恐る振り返って、相手の顔を確認してみる。
 はあ、と大地は安堵の息をついた。背中で眠っていたのは奥岳だった。この部屋でともに暮らす同居人であり、大地の無二の親友でもある彼が、下着一枚というあられもない格好で寝息を立てていた。そういえば昨日のサークルの飲み会で、酔いつぶれた奥岳を運んで帰ったのだった。大地も眠気がひどくて、彼をベッドに下ろすと隣でそのまま眠ってしまった覚えがある。
奥岳に自分の掛布団を被せ、音を立てないようにそっとベッドを下りた。
 うがいと洗顔をしてベランダに出ると、眩しい陽射しが目覚めたばかりの目を刺激する。持って来た煙草を一本咥え、すっかり慣れた手つきで火を点けた。煙草は日に二本しか吸わない。味を楽しんでいるのではなく、こうしているとあの人の気持ちがわかる気がして吸っていた。もちろんそんなことで死んでしまった人の気持ちなどわかるわけもなかったが、彼との思い出に浸るときはよく吸いたくなったし、完全に彼の真似だった。
 吸いながら、今日の大学の講義が二限からだったことをふと思い出す。奥岳も同じようなスケジュールになっているはずだ。そろそろ起こしにかからないと遅刻してしまうかもしれない。
 灰皿に押しつけて煙草の火を消し、再び奥岳の部屋に戻る。彼はさっきと同じ、うつ伏せでベッドの上に横たわっている。その肩に触れ、優しく揺すってみた。

「誠治、起きろよ。大学間に合わなくなるぞ」

 う〜ん、と唸るような声が上がる。まだまだ寝足りなさそうな瞳が一瞬だけ開いたが、またすぐに閉じられた。

「あと三時間……」
「どんだけ寝るつもりだよ! 二度寝ってレベルじゃないぞ!」

 今度は乱暴に揺すったが、奥岳は唸るばかりで一向に起きようとしない。大地も段々と面倒になってきたが、放っておくわけにもいかなかったので、最終手段として彼の背中に乗っかってみることにした。

「ぐええ……」
「ほら、起きろ。起きないといつまでも苦しいぞ」
「重い……太った?」
「太ってないわ!」

 奥岳はようやく顔だけ起こして、背中の大地を振り返った。

「あれ、大地ひょっとして泣いてた?」

 図星を指され、大地は一瞬返事が遅れてしまう。

「……泣いてない」
「本当に? 目が腫れてるよ?」
「……久々に繋心の夢見ちゃっただけだよ」

 奥岳は一瞬だけ寂しそうな顔をした。だがそれはすぐにいつもの優しい笑顔になって、ベッドに突いていた大地の手を柔らかく握った。

「大地、隣に来て」
「どうして?」
「いいから」

 言われたとおりに奥岳の背中から彼の隣へと身体を滑らせる。向かい合うような形になった途端、大地よりも少しだけ小さな身体に強く抱きしめられた。

「泣かないで」
「もう泣いてないよ」
「でもすごく寂しそうな顔してた」

 確かに夢の尾を引いて寂しい気持ちに駆られていた。“彼”のことを思い出すたび、いつもそんな気持ちにさせられる。そしてそういうときはいつも奥岳が大地を抱きしめてくれていた。彼の与えてくれる優しさと温もりに寂しさが溶かされて、心がどん底まで落ちて行かずに済んでいた。

「よし、このままあと三時間寝ようか」
「ふざけたこと言ってないでさっさと起きろよ。俺はもう大丈夫だから」



 繋心が亡くなってから高校を卒業するまでの約二年半は、奥岳の家に厄介になった。天涯孤独の身となってしまった大地を見兼ねて、奥岳の両親から提言されたことだった。大地としてもあの家に一人でいるのは寂しかったし、学校に通いながら家事をこなすのも大変だったため、その提言を素直に受け入れた。
 人ひとり増えれば生活費だって増える。大地にもそれがわかっていたからバイトして少しでも生活費を収めるつもりだったが、奥岳の両親はそれを断った。

『大ちゃんはもううちの子よ。だからそんなの気にしなくていいの。うちは子どもは誠治一人だけだし、兄弟が増えたと思えば逆に嬉しいわ』

 そう言った奥岳母の言葉に心を打たれ、泣きそうになったのを大地はいまでも覚えている。あんな優しい人に育てられたら、どうりで奥岳も聖人君子のようになるわけである。
 早く自立するためには高校を卒業してすぐに就職するべきだったのだろうが、大地は繋心の「大学には行っとけ」という遺言を無視できなかった。幸いにも両親が残してくれた遺産で学費はどうにかなりそうだったし、あとはバイトして生活費を稼げばやって行けると確信して、進学することを決めた。ただはっきりとした目標意識や夢はなかったので、とりあえず奥岳と同じ大学にしたわけである。
 相談らしい相談もなく、奥岳とのルームシェアは自然な流れで決まっていた。大地は元々そうしたいと思っていたし、奥岳も大地を一人にしておくのは心配だからと、特に悩むそぶりもなく了承してくれた。



 大学は二人が住むアパートから二駅離れたところにある。駅までの道のりも、そして電車の中でも、奥岳は少し具合が悪そうだった。どうやら二日酔いらしい。昨日のバレーサークルの飲み会では結構飲まされていたし、しかも彼にとって飲酒は初めてのことだったからそうなるのも無理はないだろう。
 それにしてもずいぶんと垢抜けたものだなと、椅子に座ってぐったりしている奥岳を見下ろしながら大地は思った。と言っても変わったのは髪型くらいだが、あの坊主のような頭をやめただけでもずいぶんと印象が違って見えた。サイドからバックを刈り上げ、短めのトップを逆立てた、爽やかな印象を受ける髪型をいまの奥岳は常としている。男らしい顔立ちの彼にはよく似合っていた。
 そういう大地も高校時代のスポーツ刈りが少し伸びたような髪はやめた。ただそれ以上長くしたいとは思わなかったので、いまはベリーショートのソフトモヒカンで落ち着いている。
 そんなふうに人は少しずつ変わっていくものなのだろう。けれど見た目の変化に中身が必ずついてくるわけではない。奥岳の優しくて人のいい性格は相変わらずだし、大地だって何が変わったということもなかった。そしてあの日負った心の傷も未だに癒えぬまま、いまも時々痛む。

「――はよっす」

 講義室の席に着いて間もなくすると、後ろから声をかけられた。――同じバレーサークルの岩泉一だ。岩泉は眠そうに欠伸をしながら大地の隣に着席した。

「誠治大丈夫なのか?」

 大地の反対隣りでぐったりとした奥岳に目をやりながら、岩泉が訊ねてくる。

「大学出て来れる程度には大丈夫みたい。ただ講義は聞いてられないって言ってたけど」
「まあ、あんだけ飲まされりゃそうなるわな。しかも酒は初めてだったんだろ? いままでの飲み会でも頑として断ってたし」
「二十歳になるまでは絶対飲まないって言ってたからな。でもさっきウコン飲ませたからそのうち回復すると思うぞ」
「珍しく大地のほうが面倒見てんのかよ」
「いつも俺が面倒見てもらってるみたいな言い方するんじゃないよ」
「実際そうだろ。傍から見てっと誠治ってお前の母ちゃんみたいだぞ。もしくは女房」
「女房って言うな」

 奥岳が一瞬だけ起き上がったが、それだけ言うとまた机に突っ伏してしまう。

「でも実際、女房にするなら誠治みたいなやつがいいよな。優しいし、気立てもいいし、尽くしてくれそうだし」
「ああ、確かに……」
「褒められてるはずなのに、なぜだか全然嬉しくないよ……」

 奥岳の呟きを聞いて、大地と岩泉は顔を見合わせながら笑った。直後に教授が姿を現し、今日最初の講義が始まる。
 さすがに開始直後は奥岳もなんとか起きていたようだが、しばらくするとまた顔を伏せていた。幸いにも彼の座席の位置はちょうど教授からは見え辛い。放っておいても問題はないだろう。
 大地も十五分くらいすると集中力が切れてきて、教授の話を聞き流しながら自分の世界に入っていく。

『女房にするなら誠治みたいなやつがいいよな』

 さっきの岩泉の台詞がふいに蘇った。岩泉としてはきっと軽い冗談のつもりだったのだろうし、深い意味もなかったのだろう。けれどあのとき大地は自分の胸がずきりと痛むのを感じた。確かに奥岳は優しいし、そばにいるといつも安心する。けれどその台詞を岩泉の口からは聞きたくなかった。
 こっそり隣に目をやると、岩泉は真剣な顔でノートをとっていた。凛々しい横顔は男らしく硬派な雰囲気を感じさせる。実際に岩泉はその雰囲気のままの人柄だ。
 初めて出会ったのは去年の、サークルの新人歓迎会のときのことだった。岩泉は大地の正面の席に座っていて、目元が繋心に少し似ているなと見惚れていたら、あちらか話しかけてきた。それをきっかけに大地と奥岳の輪に彼が加わるようになり、いまでは何をするのにも三人で行動をすることがほとんどだ。
 大地の視線に気づいたのか、岩泉がふとこちらを向いた。少し吊り気味の目と目が合い、その瞬間に大地の心臓が激しく鼓動し始める。

「どうかしたか?」
「い、いや、なんでもない……」

 動揺を隠すように大地は視線をスクリーンに戻し、ノートをとる作業を再開する。
 動揺した理由も、そして目が合った瞬間に心臓が激しく鼓動し始めた理由も大地はわかっている。わかっていながらずっと見ないふりをしてきた。

 大地は岩泉のことが好きだった。

 人として好きというのはもちろんだが、その中に恋愛感情が含まれていることをちゃんと自覚している。
 できることなら好きになりたくはなかった。同性である以上叶わない恋で終わる可能性が高いだろうし、叶う可能性があったとしても過去の悲恋を思うと背中を向けたくなる。けれど結局自分の気持ちが深いものになっていくのを止めることはできず、いまも彼をひっそりと想い続けている状態だ。諦めるきっかけもできないまま、もう一年半が経ってしまった。
 いっそ岩泉に恋人でもできてしまえば諦められるのに、彼はこの一年半の間ずっと独り身のようだった。顔立ちは整っているし、性格だって悪くないはずなのに、不思議と女の気配がまったく感じられない。陰でこっそり、というわけでもないのだろう。
 もしかしたら同類なのかもしれない。そんな希望を抱いてしまう。だけど仮に同類だったところで、岩泉とどうにかなりたいとは思わなかった。岩泉でなくても、誰ともそういった関係にはなりたくない。だって自分が大事に想った相手は必ず――


 繋心が亡くなってから、大地は二度と恋なんかするものかと心に決めた。残念ながらその決意は岩泉を前に呆気なく打ち砕かれてしまったが、絶対に恋人はつくらないと、新たな誓いを自分の中で立てていた。
 けれど心はそれでよくても、健康的な十九歳男子としては身体を持て余すのが当然である。大地にだって人並みに性欲はあった。だから時々出会い系サイトで相手を探しては、一度きりの身体の関係を楽しんだ。付き合わないかと言い寄られたこともあったし、大地好みの男と出会うこともあったが、すべて一度きりで関係を断ち切っている。
 遊ぶ頻度は決して高くない。今日こうして掲示板で出会った男と遊ぶのは、二カ月ぶりのことだった。いままでは年上の、それもそれなりに歳の離れた男としか会ったことがなかったが、今日は珍しく同い年の大学生と会う約束をしていた。いつも以上に緊張する。会ってしまえばその緊張もすぐに解れるのだが、顔を見るまでは期待と不安で胸がドキドキした。

「――あれ、大地?」

 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、大地は一瞬心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
 振り返ると、岩泉が手を振りながらこちらに近づいて来ている。まさかこんなところで彼と出会うなんて思いもしなかったし、ここに来た目的が身体の関係を持とうとする相手との待ち合わせだけに、内心でかなり動揺した。

「どうしたんだよ、こんなところで?」

 けれどそれを悟られぬよう必死にいつもの自分を絞り出し、ごく自然な感じで訊ねる。

「ちょっと知り合いと待ち合わせ。大地こそどうしたんだよ?」
「俺も同じ。違う大学行ってる友達に誘われて」
「へえ、そうなのか。あ、俺そこのコンビニ行ってくるわ。ってことで、また今度遊ぼうな」
「おう」

 岩泉は来たときと同じように手を振りながら、近くのコンビニに入って行った。彼が早々にこちらから離れてくれたことに大地はひっそりと安堵する。これから来る待ち合わせの相手と岩泉が顔を合わせずに済んでよかった。大地たちと同い年ということもあって、その相手が岩泉の知り合いだという可能性もないわけではない。それにそうでなくても変に勘ぐられそうな気がして、出会いの現場を彼に見られるのは嫌だった。
 とりあえず待ち合わせの場所を変えよう。大地は慌ててチノパンのポケットから携帯を取り出し、待ち合わせ相手にその旨をメールする。送ってから一分もしないうちに返信が来た。了解の二文字を確認すると、大地は新しい待ち合わせ場所に向かって歩き出す。

 持っていた携帯を後ろから引っ手繰られたのはそのときだった。

 驚きながら振り返り、大地は更に驚くことになってしまう。
 大地の携帯を引っ手繰ったのは、岩泉だった。一人戸惑う大地をよそに、岩泉は引っ手繰った携帯の画面をしばらく見つめ、そしてその視線が今度は大地のほうに向いてくる。

「やっぱりお前だったのかよ」

 なんの脈略もなくそう言われて、大地は更に戸惑った。

「なんだよいきなり。つーか携帯勝手に見るなよ」
「ガオの向かいのコンビニに待ち合わせ場所変更、だろ?」

 それはつい先ほど大地が待ち合わせ相手に送ったメールの内容だった。いまの一瞬の間に大地の送信メールまで確認することはできなかったはずなのに、なぜ岩泉がそのことを知っているのだろう? 疑問と不安が同時に押し寄せ、大地は自分の手が震えるのを感じた。

(まさか……そんなことってないよな?)

 辿り着いた一つの可能性に、大地はドキリとする。大地の携帯から送信メールを覗いたのではないとしたら、あのメールの内容を知る手段は一つしかない。だけど、そんな偶然があるはずがない。そんな都合のいい話はフィクションの世界の中だけであって、現実に起こりうるはずがなかった。
 だが岩泉は、次の瞬間に確かな現実を口にした。

「お前が待ち合わせてんの、俺だわ」




続く





inserted by FC2 system