03. 実際あいつは俺のことどう思ってるんだ? 煙草を手に取った瞬間に、大地はしまったと思った。いつもの癖が出てしまった。慌ててジーンズのポケットの中にしまおうとするが、すぐそばにいた岩泉にはその動きをばっちりと見られていた。 「大地って煙草吸うのか? 俺吸ってるとこ見たことないぞ」 「まあ、家でしか吸わないからな。本数も一日二本くらいだから」 「意外だな。お前は真面目だからそういうのはやらないもんだと思ってた」 「惰性で吸ってる感じだよ。やめようと思ったらいつでもやめられると思う」 「ふ〜ん。あ、別にここで吸ってもいいぞ?」 「やめとく。結構煙いからな。それに灰皿ないだろ? 俺も持ってきてないし」 「空き缶貸すからそれを灰皿にすりゃいいだろ。臭いはこの際気にしねえよ。お前が吸ってるとこ見てみたいんだ」 そう言って岩泉はキッチンから本当に空き缶を持ってきた。 「ほら、使え」 「え〜と……サンキュー?」 せっかくの好意を無下にするわけにもいかず、大地は差し出された空き缶を受け取って、もう一度煙草とライターを取り出す。火を点けると、独特の臭いが部屋の中に漂い始めた。 「慣れた手つきだな。でもやっぱお前には似合わねえよ」 「そうか?」 「そうだよ。それに身体に悪いんだろ? やめれるんだったらやめとけ」 「う〜ん……それもそうだな〜」 さっき言ったように、煙草は惰性で吸っているようなものだ。ただあの人が吸っていたからそれを真似て自分も吸い始めただけで、味を楽しんでいるわけではない。それに何度吸ってもやっぱり、いなくなってしまった人の気持ちなどわからなかった。 似合わないと言いながらも、岩泉はすぐそばで大地が煙草を吸い終わるのを黙って眺めていた。落ち着かないなと思いながらも、もしかしたらこれが最後の一本になるかもしれないと思ってゆっくりと消費していく。 「なあ、大地」 声をかけられたのは、煙草の火を空き缶に押しつけて消したときのことだった。 「俺と付き合わねえか?」 放たれた言葉に、大地の胸がドキリと高鳴る。 「俺、前からお前のこと結構好きだったんだ。お前が男イケるって知った瞬間もすげえ舞い上がってさ、今日ヤれてマジで嬉しかった」 大地だって、岩泉がこちらの人間だと知って嬉しかった。身体を重ねることができて幸せだった。恋愛感情だってある。それはきっと岩泉が大地のことを好きになってくれるよりもずっと早くに生まれたものだ。 だが―― この恋が成就することなど、絶対にあってはならない。そこに幸せがあるのだとわかっていても、手を伸ばしてはいけない。だって幸せの先にあるのは――。 あの日の記憶がふと蘇る。担任の先生に連れられて来た病院で霊安室に案内され、そこで見せられた傷だらけの彼。触れるとぞっとするほど冷たくて、辛い現実を思い知らされた。彼だけじゃない。その前に両親も事故で他界している。 大地の大事に想う人たちは皆、死んでしまうのだ。 「ごめん、一。それはできない」 付き合いたいという本音を飲み込んで、大地は岩泉の告白を断った。 「俺のことタイプじゃなかったか?」 「そうじゃない。一は男前だと思うし、俺にはもったいないくらいだよ」 「じゃあセックスが悪かったとか?」 「いや、そっちもすごく気持ちよかったよ。ただ、俺は誰かと付き合う気とかないんだ。そういうのって少し面倒って言うか……」 「……ひょっとしてお前、誠治と付き合ってんのか?」 思わぬ台詞に大地は目をぱちくりさせた。 「一緒に住んでるし、すげえ仲いいよな」 「誠治はそういうのじゃないよ。俺がゲイだってことは知ってるけど、よき理解者であって別に付き合ってるとかじゃない」 「なんだ、そうなのか。俺はもしかしたらって前々から疑ってたんだけどな。でもじゃあなんで付き合うのが面倒とか言うんだよ? 普通は相手が欲しいもんだろ?」 「……俺にはそういうの、向いてないんだ。それにまだ遊んでいたいし」 本当は岩泉だけのものになりたい。他の男なんてどうでもいいから、岩泉だけに愛されて、岩泉だけにこの身体を捧げたい。だけどそれは駄目だ。自分が大事に想った人がどうなるかはよく知っている。……大地は岩泉に死んでほしくなかった。 「じゃあ、セフレとしてだったら付き合ってくれんのか?」 「まあ、それなら……」 「それでいつかはセフレから彼氏に格上げしてくれんのか?」 「わからない。でも一のことは本当に男前だと思ってるし、優しいやつだと思う。だから前向きには考えたい」 「……わかったよ。なら俺はいつまでもお前が彼氏にしてくれるのを待ってる。その間他の男とは一切寝ない。ああ、これは俺の勝手だから、お前は別に他の男と遊んでもいいんだぜ? そりゃできることなら俺だけにしてほしいけど、そこまで言う権限は俺にはねえからな」 岩泉は拗ねたようにそっぽを向いた。 「色恋沙汰ってなんでこう上手くいかねえんだろうな」 「ごめん……」 「いや、別に大地が謝ることじゃねえけど……。わりい、いまのは態度悪かったわ。まだまだ俺もガキだな。自分の思いどおりにならねえとムカついちまう。こんなんじゃお前に見向きもされねえか」 大地は何も言葉を返さなかった。当の昔に岩泉に惚れていると言えるはずもなかった。けれど大地の心を置き去りにして、二人の関係は動き始めた。友達とも恋人とも言えない、とても半端で曖昧な方向に向かって。 ◆◆◆ 岩泉は彼を呼び出すのにあえて大学から離れた喫茶店を選んだ。知っている人間に話の内容を聞かれたくなかったし、何より彼と二人きりでいるところを澤村に見られるのは拙い気がしたからだ。 外の景色をぼんやりと眺めていると、呼び出した彼が歩いてくるのが見えた。中の岩泉に気づいて手を振ってくる。岩泉も振り返した。 「ひょっとして待たせた?」 彼――大学の友人である奥岳誠治は、バツが悪そうな顔で訊ねてくる。 「いや、五分くらい前に着いたところだ。こんな遠いところに呼び出して悪いな」 「そんな遠いってほどでもないけど……。それにしても、大地に内緒で待ち合わせってどうしたんだよ? あいつに聞かれたくない話でもあるのか?」 「まあ、そういうこった」 澤村と初めて身体の関係を持ってから二週間が経った。その間に二人きりで会ったのは三回、もちろん三回ともセックスをした。すればするほどに岩泉はいままで以上に澤村に魅了された。けれど同じ気持ちが澤村からは返って来ない。岩泉の告白を前向きに考えてくれるとは言っていたが、一向に色よい返事が返ってくるような気配は感じられなかった。 (まあ、俺がせっかちなだけなんだろうけど……) 答えを出せるのがいつになるかはわからないと、澤村ははっきりと言った。だから大人しく待っていようと思っていたけど、気の長くない岩泉はすでに疲労し始めていた。そろそろ不安でどうにかなってしまいそうだと頭を抱えていたところで、奥岳に相談することを思いついたのだ。 そもそもこんなことを奥岳に相談していいのかはわからないし、彼には自分がゲイであることを告げていない。あまりにも唐突で奥岳を困らせてしまう可能性もあったが、逆に彼が澤村から自分のことを何か聞いている可能性もある。何か知っているなら教えてほしいし、岩泉としてはこの悩みを吐き出すことですっきりしたかった。 とりあえず最初は世間話をして、奥岳の注文したコーヒーが来たところで本題を切り出す決意をする。 「最初に確認しときたいんだけどさ、お前と大地って付き合ってんのか?」 岩泉がそう訊ねた瞬間、奥岳は飲みかけのコーヒーを思いっきり噴き出した。 「おい、かかったぞ」 「一ちゃんがいきなり変なこと言うからだろ!」 奥岳は普段どちらかというとまったりと落ち着いている。そんな彼のひどく慌てたような様子は見ていて少しおかしかった。 「俺と大地ってそういうふうに見えるのかな……」 「まあ、特定の人間にはそうなんだろうよ。お前、大地が具合悪くなったりしたら甲斐甲斐しく面倒見たりするだろ? そういうの見てるとそうなのかもって思うよ」 「う〜ん……でも具合が悪くなったら普通放っておけないと思うんだけど」 「そうだけど、お前らの場合は普段から二人で一緒にいることが多いだろ? 何より一緒に住んでるし、怪しいところ満載だよ。で、実際どうなんだ? 二人は付き合ってんのか?」 「付き合ってないよ! 健全な幼馴染だよ! と言うか、そんなこと聞くためにわざわざここに呼び出したのか?」 「いや、確認って言っただろ。本題はこれから。その……お前は大地がそっちだって知ってるんだろ?」 「そっち?」 「だから、ほら……あいつがゲイだってこと」 「誰からそんなこと聞いたんだよ?」 放たれた声は、普段温厚な奥岳からは想像もできないくらいに凍てついていた。おそるおそる表情を窺うと、いつもの柔和な笑みが消え、わずかに怒気の滲んだ顔がそこにはあった。 「ほ、本人からだよ。この間二人きりで会ったときに」 「え、そうなの!? 大地はそんな話全然しなかったけどな〜……。まあ、そういうことだよ。一ちゃんのこと信頼して話したんだろうし、いままでどおりの友達でいてあげて」 「別に偏見とかはねえよ。むしろ俺もゲイだしな」 「そうなんだ。……ってええ!?」 奥岳はクリッとした瞳を白黒させ、素っ頓狂な声を上げた。 「あいつがこっちだって知ったのも、出会い系で知り合ったのがたまたまあいつだったからなんだ。お互いサブアド使ってたからメールじゃ誰かわかんなかったけど、会ってみたらあいつだった」 「そんなことがあったのか!? 俺の知らないところでとんでもないことになってたんだな……。で、会ってからどうなったんだよ? 付き合い始めたのか?」 「いや……告ったら断られた。あ、いや、保留にされたのか? 前向きに考えるとは言われたけど、どうもそこから前進する気配がねえんだ。あいつって付き合ってるやつでもいるのか?」 「俺の知ってる限りはいないよ。隠してるわけでもないと思う。一緒に住んでる以上、そういうのはなんとなくわかっちゃうし」 「あいつの気持ち、全然わかんねえ。脈がありそうな空気漂わせてるくせに、俺が気持ちの部分で迫ると曖昧な態度とりやがる。好きじゃねえならはっきり言やいいし、逆に好きならとっとと俺のもんになれってんだ。俺はあいつのこと相当好きだから、あいつが答え出してくれねえ限り落ち着けねえ」 岩泉としては、この恋を諦めるつもりは毛頭なかった。澤村ほど好みのタイプに合致している男はいままで出会ったことがないし、片想いをした期間もそれなりに長い。せっかく結ばれる可能性が浮上してきたのを、黙って見過ごすことなどできるはずがなかった。 「実際あいつは俺のことどう思ってるんだ? 誠治ならなんか知ってるんじゃねえのかよ?」 「なんかこれじゃ俺がリークマンっぽいな……」 「俺を助けると思って頼む」 「う〜ん……まあ、一ちゃんのこと気に入ってるとは思うよ。カッコいいって言ってたこともあったし、話してておもしろいとも言ってたから。恋愛感情があるのかどうかはよくわからないけど」 「じゃあ今度それとなく訊いてみてくれよ」 「まあ、いいけどさ……。でも一ちゃんが直接訊いたほうが絶対早いよね」 「俺が訊くとあいつは本音を言わねえ気がする。付き合うのを渋った理由にまだ遊びたいからとか言ってたけど、ありゃ大して遊んでねえんだろうよ。もっと違う理由があるに違いねえ。もしかして昔付き合った男となんかあったのか?」 「……一ちゃんって意外と鋭いね。全然そうは見えないのに」 「なんだと!」 冗談だよ、と奥岳は苦笑した。 「その辺のことは悪いけど、俺の口からは言えないなあ。大地にとっても俺にとっても、それは辛い記憶だから」 「まさか昔二人は付き合っていたとか!?」 「だからそうじゃないって! でもそうだな……いつか話さなきゃいけないときが来たら、一ちゃんにもちゃんと話す。いまはとりあえず何も訊かないで」 「……わかったよ。でもリークマンは頼んだぜ」 「リークマンって言うなよ! そのとおりだけど……」 目の前のカフェモカに口を付けると、少しだけ冷えていた。夏にはこれくらいがちょうどいいなと思いながらカップの半分まで飲み、同じようにコーヒーを飲んでいた奥岳に再び視線を戻す。 「俺は誠治のことが羨ましくて堪んねえよ。大地ってなんか困ったことがあったら俺じゃなくて絶対に誠治のほうに行くし、時々俺が入れねえような空気になってることあるしな。何より一緒に住んでるってのが羨ましすぎてムカつくわ。あいつの裸見たい放題じゃねえか」 「別に大地の裸なんか見てもこれっぽっちも嬉しくないんだけど……。でももし俺がゲイだったら、きっと大地のこと好きになってただろうなって思うことはあるよ。もしくは一ちゃんのことを好きになっていたかもしれない」 「俺?」 「うん。一ちゃんってなんだかんだでカッコいいし、優しくておもしろいから」 「ほ、褒めたってなんも出ねえぞ」 「別に見返りを求めて言ったわけじゃないよ。だからって社交辞令でもない。優しい一ちゃんだからこそ、大地のこと託してもいいかなって思える。だからリークマンだって引き受けたんだ」 奥岳の嘘のない目。優しいのはどっちだと、その瞳を見返しながら岩泉は心の中で呟いた。 「二人のこと、応援してるよ。いいように収まってくれたら俺も嬉しいな」 「お前ホントいいやつだな。でも、ありがとよ。お前に相談してよかったわ」 もやもやとしていたものが少しだけ薄らいだ気がする。それに一人でも味方がいてくれるというのはやはり心強かった。あとは澤村次第だ。彼の本音を知ることができれば、岩泉も次の行動に移れる。もし彼に岩泉に対する好意が少しもないのだとしたら……そのときばかりはさすがに諦めなければならないのだろうが、少しでも何かがあるのなら絶対に引かない。岩泉はそう固く誓った。 |