04. 俺が一ちゃんと付き合うよ


 玄関のドアを開けた途端に、食欲をそそるスパイスの香りが大地の鼻孔を刺激した。どうやら今日の夕食はカレーのようだ。奥岳の得意料理の一つである。

「ただいま」

 リビングに入ると、奥にある対面式のキッチンに奥岳の姿を見つける。エプロンに身を包んだ彼は「お帰り」と言って笑った。

「もう少し時間がかかるから、先に風呂に入ってきなよ」
「わかった」

 奥岳に勧められたとおりに先に風呂で汗を流して、再びリビングに戻るとテーブルには予想どおり、カレーライスとサラダが並んでいた。奥岳お手製のカレーの美味しさを知っているだけに、思わず涎が出そうになる。

「食べようか」
「ああ。いただきます」
「召し上がれ〜」

 やはり味は文句の付けどころがないし、空腹も限界が近かったせいで、あっという間に皿の上はまっさらになってしまう。もちろん大地は物足りなくて、二杯目を大盛りでおかわりした。さすがに三杯目をよそいに行こうとしたときは奥岳から「太るよ」と突っ込みが入ったが、悪いのはおかわりしたくなるようなものを作る奥岳だ。そう自分に言い聞かせて結局三杯目に手を付ける。

「俺の分まで食べるなよ……」
「大丈夫。まだちょっと残ってるから」
「もう……」

 食べ終わった食器は奥岳の分も大地が洗った。暇になるとソファーに座った奥岳の横に腰を下ろして、一緒にテレビを鑑賞する。

「そういえば、今日一ちゃんと二人でお茶したんだよね」

 バラエティー番組がCMに差し掛かったところで、奥岳がそう切り出してきた。

「そうだったのか? 用事ってそれのこと?」
「うん。そのときに一ちゃんにゲイだってカミングアウトされたよ。それと二人の間であったことも教えてもらった」
「えっ……」

 大地は驚きのあまり息を詰まらせる。岩泉が自身の性指向をカミングアウトした。それだけでも驚きだというのに、まさか自分たちの間にあった事情まで打ち明けるなんて思いもしなかった。大地としては、いずれは奥岳にもきちんと話をするつもりではいたが、なかなか言い出せずにいた結果がこれである。

「別に隠してたわけじゃないぞ」
「わかってる。別に俺に言わなきゃいけない義務があるわけじゃないし、隠してたとしても文句は言えないけどな。まあそんなことはいいんだよ。それより、どうして一ちゃんの告白を断ったんだよ?」

 奥岳は大地が岩泉に想いを寄せていることを知っている。そんな彼からすれば疑問に思うのは当然だろう。

「断ってはないぞ。保留にしただけだ」
「どうして保留なんだ? 大地は一ちゃんのこと好きなはずだろ? せっかく告白してもらえたんだし、両想いなら付き合えばいいじゃないか」
「好きでも駄目だろ。俺はそういう相手をつくっちゃ駄目だ。誠治だってわかってるだろ?」
「……まだ繋兄のこと気にしてるのか?」

 大地が愛したあの人の愛称が、寂しそうな声で呟かれる。

「繋兄だけじゃない。母さんと父さんだって……俺の大事な人はみんな死んでしまう」
「あんなのただの偶然だろ。大地が悪いわけじゃない」
「でもおかしいじゃないか。立て続けに、しかもみんな事故だった。俺が何か変なもん持ってるとしか思えないだろ。だからたぶん一も、俺と付き合ったら死んでしまう」

 もしも岩泉まで自分のせいで死なせてしまったら、今度こそ大地は駄目になる。今度こそ悲しみと自責の念に耐えられず、壊れてしまうだろう。

「死なないよ。大地の考えすぎだろ」
「でも繋兄は死んじゃったじゃないかっ。俺を残して、死んじゃったじゃないかっ。俺は幸せになんかなれないんだ……」

 繋心と恋人同士でいられたのはたったの三ヵ月だけだった。短かったけれど、彼と一緒に過ごした日々は大地の人生の中で一番幸せだった。きっと今度も、幸せを掴めたと思ったらすぐに手の中から零れ落ちていくのだろう。大地からとても大切なものを奪って、静かに消えていくのだ。そして大地の中には、深い悲しみと癒えない傷だけが残る。

「そう思うんだったら、なんで一ちゃんの告白をはっきりと断らなかったんだよ? 保留にしたってことは、本当は付き合いたいんじゃないのか?」
「それは……そんなことない」
「じゃあいますぐ断ればいい。昔の恋人が忘れられないから駄目だって言えばいいじゃないか」
「……その言い方はひどくないか?」

 不愉快な台詞に思わず奥岳を睨むが、彼もまたいつもの優しさを消し去って、鋭い目つきを大地に向けてくる。

「ひどいのはどっちだよ。断るって決めてるくせにいつまでも保留にするなんて、そっちのほうがひどいだろ。一ちゃんはいつまでも期待して待ってる。大地が返事をしないといつまでも次に進めないままだ」
「仕方ないだろっ! 一のこと好きなんだよ! 好きなやつと少しでも一緒にいたいって思うのは普通のことだろ!」
「じゃあ付き合えよ! そうすれば二人とも幸せじゃないか! いつまでも一ちゃんを待たせるなよ!」
「幸せになんかなれないってさっき言っただろ! 誠治なら俺があのときどれだけ辛い思いしたか知ってるはずだろ!」
「幸せになれないなんて、そんなの大地の勝手な思い込みだよ! 繋兄のことがすごく大事だったのは知ってるし、亡くなって辛かったのだって知ってる。でもだからって、いつまでも死んだ人のこと気にして、自分の気持ちを我慢するなんておかしいよ」
「俺は一を死なせたくない。あんな辛いの、もうたくさんだっ」
「だから死なないって言ってるだろ!」
「じゃあどうして繋兄は死んだんだよ! 母さんも父さんも、どうして俺を残して死んじゃったんだよっ……」

 悪いことなんて何もしていないはずなのに。バレーも苦手だった勉強も、手を抜かずに頑張った。人に意地悪なことをしたこともない。それなのにどうして自分は、大事な人を奪われなければならなかったのだろう。

「……わかったよ」

 やがて奥岳が、すべてを諦めたような口調でそう呟いた。

「大地がそこまで言うなら……俺が一ちゃんと付き合うよ」
「はあ!? な、何言ってるんだよ。お前はゲイじゃないだろ?」
「いまゲイになった。それに一ちゃんはカッコよくて優しいから、悪い気しない」
「そんな今日突然ゲイになれるわけないだろ」
「大地だって自覚したのは突然のことだったじゃないか」
「それはそうだけど……」

 突拍子もない台詞だったが、奥岳の意図はなんとなくわかった。たぶんきっと、奥岳は別に岩泉に恋愛的な意味での興味などないのだろう。なかなか前に進もうとしない大地を焦らせるために、そんなことを言っているのだ。

「もう、好きにしろよ。付き合いたければ勝手に付き合えばいいだろっ。俺はもう寝る」
「そうかよ。じゃあ勝手にさせてもらうよ。あとでやっぱり一ちゃんと付き合いたいって言っても絶対に譲らないからな」
「言ってろ!」

 大地はソファーから立ち上がると、自分の部屋に入ってドアを叩きつけるように閉めた。ベッドに倒れ込み、グツグツと煮え切った心を落ち着かせるように深く息を吐く。
 奥岳が大地のためを思って言ってくれているのはわかる。けれど岩泉を死なせたくないという大地の意志は固いし、自分が不幸を呼ぶというのも自分で信じている。誰に何を言われても、岩泉の告白を受け入れるわけにはいかなかった。
 しかし奥岳が指摘したように、彼の告白を簡単に切って捨てることもできなかった。彼を好きだと思う気持ちを自分から切り離すことは、しばらくの間はできないだろう。いつかは諦めたい。でもそのいつかが来てしまうことが、大地には少しだけ恐かった。




続く





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