07. こんな俺でも誰かに愛されて、幸せになりたい


「お帰り」

 リビングに入ると、奥岳が穏やかな笑みとともに迎えてくれる。ここ最近の大地の奥岳に対する態度は、とても褒められたようなものではなかったが、それでも彼の態度はいつもと変わらなかった。優しくて、温かくて……けれどそんな奥岳に大地はいつまでも素直になれなかった。
 きっと次の自分の言葉で、目の前の彼は傷ついてしまう。いま浮かんでいる笑顔も一瞬で消えて、その表情を曇らせてしまうのだろう。けれどもう引く気はない。せめてものわがままを言わせてもらおうと、息を吸い込んだ。

「誠治」
「何?」
「一と別れてくれないか?」

 真っ直ぐに奥岳の瞳を見つめながら、大地は言葉を放つ。想像していたとおり、奥岳の顔からはすぐに笑みが消えた。けれど怒ったような表情も、悲しげな表情もしなかった。何も言葉を返してこないまま、無表情に大地をじっと見つめる。
 ヒヤリとした沈黙が二人を取り巻いた。気を抜くと押し潰されてしまいそうなそれにじっと耐えながら、奥岳の言葉をただ待つ。

「……俺が一ちゃんと別れたら、大地が一ちゃんと付き合うのか?」

 凍てついた声が大地の耳に突き刺さる。

「いや……そういうつもりはない。ただ――」
「じゃあ別れない」

 大地の台詞を阻むように奥岳はきっぱりとそう言った。

「大地が一ちゃんと付き合うって言うなら別れてもいいよ。でもそうじゃないなら別れないし、誰にも譲らない。そもそも自分が付き合う気ないのに別れろってどういうつもりだよ? ――いや、言わなくてもわかるよ。どうせまた、付き合いだしたら一ちゃんが死んじゃうって言うつもりなんだろ?」

 図星を突かれた。大地は何か言い返そうとしたが、なぜか用意していた台詞が出てこなかった。

「いい加減素直になれよ。一ちゃんのこと好きなくせに、俺に嫉妬してるくせに、一人でウジウジして逃げるのやめろよ。一ちゃんが好きなら付き合いたいって言えばいいじゃないか」
「でも、それでもし一が死んだりしたら……」
「死なないよっ。前も言ったけど、両親のことも繋兄のことも、偶然であって大地のせいなんかじゃない。何か得体の知れない力が働いたわけじゃないんだ」
「嘘だっ。だってみんな事故で……みんな大事だったのにっ。どうして死んじゃうんだよっ」
「じゃあ俺はどうなるんだ」

 奥岳が大地との距離を詰めてくる。そして少し怒ったような顔で大地の両肩を掴むと、痛いくらいに握りしめてきた。

「大地と知り合ってから十年ちょっと経つけど、俺はこうして生きてる。それとも大地にとって俺は大事でもなんでもないのか?」
「そんなわけないだろ!」

 大地にとっての奥岳は、植物にとっての水のような存在だった。水がなければ生きていけない植物のように、大地もまた奥岳なしではここまで生きてこられなかったかもしれない。繋心が亡くなったあのときに、自分もまた後を追っていたかもしれない。
 奥岳はいつも心の支えになってくれた。彼の持つ優しさがいつも傷ついた大地を癒してくれて、いつもの自分に戻ることができた。繋心や岩泉とは違った意味で大切であり、失いたくない存在の一つだった。

「俺は生きてる。だから大地のせいで人が死ぬことなんてないんだよ。それとも俺の言葉が信じられないか?」
「俺は……」
「俺にとって大地はとても大事な存在だよ。それこそ家族と同じくらいか、それ以上だと思ってる。だから幸せになってほしいんだ。自分の気持ち、我慢しないでほしい」

 肩を掴んでいた手が、今度は背中に滑り降りてくる。優しく抱きしめられ、触れ合った部分から奥岳の優しさが沁み込んでくるようだった。凍りかけていた心がその熱に溶かされて、なぜだか泣きたくなって鼻を啜った。

「……誠治はいいのか? 一のこと、好きなんだろ?」
「俺の好きは大地のとは違うよ。付き合ってるのだってふりだったし」
「本当に? 最近やたら一が誠治の頭撫でたりしてるじゃないか」
「あれは俺の刈上げが気持ちいいからだって言ってた」
「じゃあ二人の間には何もなかったのか?」
「なかったよ。それに俺がゲイじゃないって知ってるだろ?」
「そうだけど、女を好きになったって話も聞いたことがない」
「俺が言わないだけだよ」

 大丈夫だと言い聞かせるように、奥岳は優しく微笑んだ。

「一ちゃんと付き合う?」
「本当にいいんだろうか?」
「いいんだよ。それが二人にとっての幸せなんだから」

 ずっと踏み出すことが恐かった。また繋心のときと同じ結末になってしまうことが恐くて仕方なかった。けれど変わりたいと思っていたのも本当だ。自分の気持ちを我慢せずに、目の前の恋に飛び込んでみたい。そしていつの日か幸せを感じたいと、心の片隅で願っていた。
 大地は奥岳の細い身体を強く抱きしめる。そのまま後ろのソファーに押し倒して、甘えるように彼の胸に額をすり寄せた。

「誠治……好きだよ。変な意味じゃなくて、普通に、すごく好きだ」
「俺だって大地が好きだよ。でも本当に好きなのは一ちゃんなんだろ?」
「うん。いますぐ会って、自分の気持ちを伝えたい。こんな時間に行ったら迷惑かな?」
「大地なら、一ちゃんはいつだって歓迎してくれるよ。あ、でも一応電話はして行けよ。いなかったら面倒だしな」
「わかった」

 さっそくジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、岩泉のプロフィールを呼び出した。発信ボタンを押そうとした指が震える。けれどもう何も恐れなくていいんだ。きっと今度は大丈夫だ。心の中でそう呟きながら、大地はボタンをタップした。


 ◆◆◆


『俺は……一とは友達でいたい』

 さっきの澤村の言葉が頭の中に蘇る。そう簡単に人の気持ちは変わらない。それはわかっていたつもりだが、彼がここまで岩泉の気持ちを拒絶するとは思わなかった。いや、拒絶とも少し違う。満更でもないくせに、自分だって恋愛感情を持っているくせに、恋人同士になることから逃げている。

(でも、あいつを責めてもどうしようもねえよな……)

 もしかしたら、この恋はもう諦めなければならないときなのかもしれない。二人の関係はきっとこれからも平行線を行くだけなのだろう。奥岳と付き合っているふりをしようが、自分が押し迫ろうが、何も変わらない。虚しさと苛立ちが募るばかりで、いいことなんてない気がする。
 はあ、と大仰に息を吐き、ベッドに横になる。携帯の着信音が鳴り響いたのはそのときだった。
 ディスプレイを確認すると、発信者は澤村だった。さっき会ったばかりなのにどうしたのだろうかと思いながら、不安と嬉しさをない交ぜにした気持ちで受話器ボタンをタップする。

「どうしたよ?」
『さっき会ったばっかなのにごめん。ちょっと話したいことがあって……』
「気にすんなよ。暇してたとこだしな」

 諦めかけていた想いが、また岩泉の中で燻り始める。やはりそう簡単に自分から切り離すことなんてできないんだと苦笑しながら、彼の声をもう一度聞けたことへの嬉しさに浸る。

『俺……やっぱり一のことが好きだよ』

 前触れもなく想いを打ち明けられ、岩泉の鼓動がトクンと跳ね上がった。

『一緒にいると楽しくて、ちょっと褒められただけでも嬉しくて舞い上がって……出会ってからずっとそんな感じだった。他の誰かといるところを見るとどうしようもなく嫉妬した。誠治にだってそうだ。一を自分だけのものにしたい、誰にも渡したくないっていつも思ってて……でも恐かった。もし繋兄みたいなことになったらどうしようって……』

 澤村の声は泣きそうに震えていた。きっとさっき自分と話したあとに、奥岳との間で何かあって、そして何かを心に決めて電話をしてきたのだろう。声が詰まっても岩泉は台詞の続きを求めたりはせず、黙って彼が言葉を紡ぐのを待った。

『正直いまも恐い。でも俺だっていつまでもこのままじゃ駄目だって思った。こんな俺でも誰かに愛されて、幸せになりたい。だから……俺と付き合ってほしい』

 そして彼の出した答えに、岩泉は全身の血が騒ぎ出したような錯覚に陥りそうだった。自分は何も諦めなくていいのだと――そして求めていたハッピーエンドに近づいたのだとわかって、嬉しくて涙が出そうになる。

『……今更遅いかな?』
「んなことねえよ。遅かろうが早かろうが、お前が俺を好きならなんだっていい」
『一は気持ち変わってないか? 誠治のこと好きになったりしてないか?』
「俺が好きなのはいままでもこれからも大地だけだよ。だから付き合おう。嫌っつってももう絶対離さねえ」
『いまからそっちに行ってもいい?』
「そっちからだと電車だから時間かかんだろ。俺が原付でそっちに行くよ。だからアパートの近くの公園で待っててくれ。すぐ行くから」
『わかった。じゃあ、待ってる』
「おう」

 電話が切れたのを確認して、岩泉は財布を持って部屋を出た。駐輪場の原付のエンジンを点け、フルスピードで愛しい彼の元へと向かう。
 長い片想いだった。いや、一年半程度では長いとは言えないのかもしれないが、岩泉にとっては長い一年半だった。男同士だから叶わないと諦めかけていたところで彼がゲイであることを知り、けれど彼の辛い過去が大きな壁となって恋が成就することを阻んでいた。
 いまになってやっと、その壁がなくなった。いや、乗り越えたというべきだろうか。けれど乗り越えたのは自分ではなく、澤村のほうだ。愛しい人を亡くすというのは、きっと尋常ではないほど辛いことなのだろう。澤村はそれを乗り越えた。もちろん辛かった記憶を消すことはできないだろうが、“いま”と向き合うことを――岩泉の気持ちと向き合うことを選んでくれた。
 信号が赤になる。停止線でゆっくりと止まって、早く会いたいもどかしさに苛々と貧乏揺すりした。前を横切る横断歩道の信号が赤になった。そして三秒ほどの間を置いて、進行方向の信号が再び青になる。その瞬間にアクセルを強く回した。
 もうすぐだ。もうすぐ澤村に会える。そして二人の関係はようやく前へ進むことができるのだ。あと少し、あと少し、あと少し……。

 心の中でそう呟いた瞬間――
 岩泉の身体を、これまでの人生で感じたことのないほどの強い衝撃が襲った。訳もわからず乗っていた原付とともに吹っ飛ばされ、身体が宙を舞う。
 地面に叩きつけられるまでそれほど時間はかからなかったはずだが、落下のスピードはまるでスローモーションのようにゆっくりだった。あるいはそう錯覚しただけなのかもしれない。
 岩泉が最後に見たのは、夜道を照らす二つのヘッドライトだった。




続く





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