終. だって俺はもう、独りじゃない


 知らない人には、この林がどこに繋がっているのかまったく見当がつかないだろう。けれど大地はよく知っている。人が歩くのを想定していないジグザグな道を一分ほど歩くと、少し拓けた場所に出た。広場と呼ぶには少し狭いが、真ん中には木製のベンチが寂しげにぽつんと置かれていて、大地はそこに歩み寄る。
 ここは大地にとって特別な場所だった。大切な思い出の在り処であり、誰にも入って来てほしくない、自分と彼だけの場所だ。久しぶりに訪れてみたけれど、ここは何も変わっていない。外灯もなくて暗いし、ベンチもところどころ朽ちていてそろそろ崩れてしまいそうだった。

『来年もこうやって二人で花火観ような。来年だけじゃねえ。再来年も、その次の年も、ずっとお前と一緒に観に来たい』

 そしてここに来ると必ず、あの時“彼”が言ったその言葉を思い出す。果たされることのなかった大切な約束。これからも永遠にそれが実現することはない。何度もそう実感させられて、何度も涙を流した。
 いまだって思い出すとやはり悲しくなる。そして申し訳ない気持ちで胸が苦しくなる。彼を死なせてしまったのは自分だ。これは呪いのようなもので、大地が大切だと思う人はみんな死んでしまうようにできている。それを証明するかのように、昨日岩泉が事故に遭ってしまった。大地が彼と恋人として付き合うことを決めた直後にそれは起こった。
 幸いにも岩泉の命に別状はないようだったが、大地にとってそれは警告のように思えた。お前に幸せになる資格なんてないのだと、もしそれを望もうものなら大事な人を奪うぞと言われている気がしてならなかった。
 そう、大地に幸せになる資格なんてない。幸せになんてなってはならないのだ。

(そろそろ行くか……)

 最後に辺りを一周見回して、大地は思い出の場所をあとにした。
 林を出ると今度はすぐそばの川原に下りる。この川は浅い場所と極端に深い場所がばらばらに点在しており、小・中学生の頃は教師たちに絶対入るなとうるさく言われた記憶がある。それでもここで泳ぐ悪餓鬼はいて、夏休み明けの始業式で彼らが怒られていたのも懐かしい。
 大地は川岸で流れる水をしばらく眺めたあと、浅瀬にそっと足をつけた。あっという間に靴の中まで水が沁み込み、あまりの冷たさに思わず身震いする。けれど歩みを止めることはせず、そのままゆっくりと深いほうへと進んでいく。
 大地に、呪いを抱えながら生きていく勇気はなかった。生きている以上はやはり幸せになりたいと思ってしまうし、誰かを好きになるのもやめられないからだ。繋心を亡くしたとき、もう二度と恋なんてするものかと決めたはずなのに、自分は岩泉を好きになった。そして呪いが発動した。
 呪いを断ち切るには、自分が死ぬしかない。それが大地の出した結論だった。いま元気にしている奥岳だってこの先どうなるかわからないし、このまま自分が幸せになれないと言うなら、死んだほうがましのように思えてならなかった。
 幸せになりたいという思いは、大地だけじゃなくて人間なら誰しもが思う当たり前の願いだ。それを願うことすら赦されない自分がこれ以上生きていても、虚しいだけで何も生まないだろう。
 それにあの世に逝けたら、繋心に会えるかもしれない。この世界では幸せになれなくても、あちらなら幸せになれるのかもしれない。そんな小さな希望が大地の中には存在していた。
 水面はいまや腰の高さまで来ている。身体が凍りそうなほどに冷たかったが、もう岸に戻るつもりはない。このまま身を沈めて息が止まれば、すべてが終わってこの世界にいる大切な人たちを守れるんだ。

「――何してんだよ馬鹿っ!」

 叫ぶ声が聞こえたのは、大地がいましも上半身を川の中に沈めようとした瞬間だった。ついで水をばしゃばしゃと叩く音が聞こえてきて、近づいてきた誰かに腕を強く掴まれた。
 夜闇の中でも、彼の鋭い目つきと目が合っているのがわかった。大地がいま最も愛する彼が目の前にいて、怒気を隠すこともせず、肩で息をしている。どうしてここがわかったのかと訊こうと口を開きかけたところで、彼が再び荒い声で言葉を放った。

「何馬鹿なことしようとしてんだよ! お前が死んでどうすんだ!」
「……だって、仕方ないだろっ。俺が生きてたら、一はまた事故に遭う。誠治だってこれからどうなるかわからないじゃないかっ」

 大地がそう言うと、岩泉は更に目つきを鋭くした。

「俺は死なねえよ! 誠治だって死なねえし、もう誰も死なねえ。だからお前が死ぬ必要なんかどこにもないんだ」
「そんなの嘘だ! だって、今回だって一歩間違えば一は死んでたじゃないか! しかもやっぱり繋兄たちと同じ、事故だった。そういうふうにできてるんだよ」
「あんなのたまたまだろうが! お前のせいなんかじゃねえよ! それに俺はこうして生き残ったじゃねえか。だからもう大丈夫だよ」
「今回たまたま生き残っても、次はどうなるかわからない。次こそ死んでしまうかもしれない。俺はそんなの耐えられないんだ……」

 どれだけ時が経っても、あのとき感じた痛みや悲しみが消えることはないのだろう。その上に更なる悲劇が重なりでもしたら、とても自分が正気でいられるとは思えなかった。

「……わかったよ。お前がどうしても死にたいって言うなら、俺もここで死んでやる」

 岩泉の口から飛び出した言葉に、澤村は驚くと同時にひどく動揺した。

「な、何言ってんだよっ。一が死ぬ必要なんかないだろ。一は幸せにならないといけないんだ。生きていかないと駄目なんだよ」
「お前を一人で死なせといて何が幸せだよっ。お前がいなくなった時点で俺の人生は全部つまらなくなる。きっと毎日泣くんだろうな。それでどう幸せになれってんだ」
「悲しいのなんてすぐに忘れるよ。俺のことなんかきっとすぐに忘れて、きっともっといいやつが見つかる」
「そう簡単に忘れられるわけねえだろ! だいたい、そう言うお前は何年引きずってんだよ! 全然説得力ねえっつーの!」

 確かに自分はずっと繋心のことを引きずっている。けれどそれは彼と恋人同士だったからであって、岩泉とはまだちゃんとそういう関係になっていない。友達としての思い出はたくさんあるが、恋人としてのそれはまだ何もつくってなかった。だから彼の痛みもきっと小さくて済むはずだ。

「忘れるよ。新しい恋を見つければきっとすぐに忘れる。忘れて、幸せになるんだ」
「ざけんなっ。残された俺や誠治がどんだけ辛いかお前ならわかんだろ? 大事なやつをなくしたらどんだけ悲しいか、お前ならよくわかってるはずだろうがっ。お前が昔の彼氏のことを引きずってきたように、お前が死ねば俺はそれをずっと引きずって生きていく。お前が死んだって誰のためにもならねえんだよ。むしろ俺を悪戯に傷つけるだけだ。それをわかっていながらお前は死ぬって言うのか?」
「だって、俺は誰にも死んでほしくないから……」
「俺はこうして生きてる。事故を乗り越えて生きてるだろっ。だからもう大丈夫だ。心配なら、ずっとそばにいて俺を監視してりゃいいだろ。それならきっと何も起こらないし、もし何か起こったとしても……死ぬときは一緒だ。それなら恐くねえだろ?」

 確かに二人一緒に死ねたなら、それはとても幸せなことなのかもしれない。どちらかが悲しみに暮れることもなく、ひょっとしたら来世でまた巡り合えたりするのかもしれない。
 涙が零れた。なぜ涙が出たのかわからぬままにボロボロと零していると、岩泉がそっと大地の身体を抱きしめてくれる。冷たい身体だった。でもきっと自分も同じように冷たくなっているのだろう。

「過去は自分の一部だ。どうでもいいことはすぐに忘れるだろうけど、楽しかったこととか辛かったことは、たぶん死ぬまで忘れないんだろう。そんなのは当たり前のことだ。でもだからって過去ばっか見て、いま生きてる俺から逃げるのはもうやめろよ。俺の気持ちから逃げんじゃねえよ。自分の気持ちから逃げるのも駄目だ」
「でも、俺は……」
「お前の大事なやつが死んだりしねえってこと、俺が証明してやる。お前は何も悪くないんだよ。だからもう自分を責めるな」

 身体と同じく冷え切っていた心に、何か温かいものを注がれたような気がした。あるいは春の優しい陽射しのような、程よい光が胸に差し込んで、ボロボロに傷ついた大地の心を照らしてくれる。そんな感覚がした。

「もう一人で泣くなよ。全部一人で抱え込もうとするな。泣きたきゃ俺のそばで泣けばいい。辛かった過去も、何もかも俺が受け入れてやるからさ。俺はお前がどっかで一人で泣いてるのかもしれねえって思うと、落ち着かねえんだ。だから、頼むから……」

 岩泉が泣きそうな顔をする。いつも強気で泣くイメージなんてちっともなかったから、驚きながらも見惚れてしまった。彼は本当に自分を愛してくれている。心から大事に想ってくれている。まっすぐにこちらを見つめる瞳から、そんな気持ちが溢れてくるようだった。

「俺をお前の恋人にしてくれ。昔のこと思い出して悲しむ暇なんか与えねえ。それくらい幸せにするから、俺と付き合ってくれよ。そんで俺のことも幸せにしてくれ。俺は、お前がそばにいてくれるんならそれだけで幸せだ」
「一っ……」

 目の前に、未来へと続く扉があった。それは少し手を伸ばせば簡単に届く距離にあったが、大地は手を伸ばすことをしなかった。扉に背を向けるばかりで、その先にあるはずの未来と、そして自分が生きているはずの“いま”から逃げようとしていた。
 だけどもう逃げない。自分は変わらなければいけないのだ。自分の新しい幸せのために――そして自分を愛してくれる岩泉のために、四年の時間を経て扉の先へ進むことを決めた。
 ハンドルを握った瞬間にふと人の気配を感じた。そっと振り返ると、そこには柔らかな笑顔を浮かべた、あの頃と変わらぬ姿の繋心が立っていた。もう四つしか歳が違わないのかと思うと、不思議な感覚だった。

『行けよ、大地。俺に遠慮なんかすんじゃねえ。お前はあっちで幸せになって、たくさん笑うんだ。お前はやっぱり泣いてる顔よりも、笑ってる顔のほうが可愛いぜ。そりゃ少しは寂しいけどよ、生きてるやつは前に進まなきゃいけねえんだ。ただ俺がいたことを覚えてくれてりゃ、それでいい』
「……俺が繋兄のこと忘れるわけないじゃないか」
『へへ、なら安心だな。ほら、行けよ。いつまでも相手を待たせるんじゃねえ』
「うん」

 そして大地はついに、長らく閉ざされていた扉を押し開けた。


 ◆◆◆


「大地のバカ! ゴリマッチョ! デブ!」

 川の中から戻ってきた澤村と岩泉になんと声をかけるべきか迷っていた奥岳だが、結局口から出てきたのは澤村を罵る言葉ばかりだった。

「デブじゃねえよ! つーか第一声がそれってどうなんだよ!」

 間髪入れずに澤村の突っ込みが返ってくる。

「今回ばかりは言われて当然だろ! 俺がどんだけ心配したと思ってんだよ! もしお前がホントに死んでたら、俺は……」

 安心して気が緩んだのだろうか、鼻がじんと熱くなったかと思うと、涙がポロリと零れた。二人に泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、慌てて彼らに背を向ける。

「悪かったって。泣かないでくれよ。誠治に泣かれたら、すげえ罪悪感抱いちゃうだろ」
「じゃあそのまま罪悪感に押しつぶされてしまえばいい」
「ひどっ」

 ひどいのはどっちだよ、と心の中で毒づきつつ、服の袖で涙を拭う。

「なあ誠治」
「何?」
「ちょっと抱きしめてもいいか?」
「……やだよ。俺まで濡れるだろ」
「でもいますぐ抱きしめたいんだ。いろいろ悪かったと思うし、感謝しなきゃいけないこともたくさんある」
「じゃあ言葉で言えばいいだろ。別に行動で示さなくてもいいよ。それに一ちゃんが嫉妬する」
「安心しろよ。俺もお前のこと抱きしめるから」

 いつの間にか奥岳のすぐそばに寄って来ていた岩泉の腕が、すっと伸びてくる。咄嗟に逃げようとして身を引いたが、後ろにいた澤村の身体にぶつかって逃げることは叶わなかった。結局二人の腕の中に閉じ込められる形になってしまい、そのまま熱い――いや、体感的にとても冷たい抱擁が奥岳を襲った。

「冷たっ……ちょっ、離せよ! 服濡れちゃったじゃないか! 夏じゃないんだから勘弁してよ!」
「はあ、誠治は温かいな〜。湯たんぽみたいだな〜」
「そうだな〜。きっと心が温かい証拠なんだろうな〜」
「馬鹿言ってないでさっさと離せよ!」

 きっと明日には風邪でもひいてしまうのではないだろうか。バカップルの抱擁を浴びながら奥岳はそんな心配をする。
 思えばいろいろあった一カ月だった。澤村と口喧嘩したり、岩泉と恋人のふりをしたり、思い返せば苦労ばかりをしていたような気がする。けれどそれは決して無駄ではなかった。奥岳の大事な親友たちは、ちゃんと幸せを掴むことができたのだから。だからどんなに服が濡れても、寒くてくしゃみが出そうになっても、心は満たされてとても温かかった。


 ◆◆◆


 海はとても穏やかで、とても綺麗だった。橋の上から見下ろすと、魚が疎らに泳いでいるのがわかる。日本にもこんな綺麗な海があったんだなと感動しながら、大地は手に持っていた壺の中身をもう一度確認する。
 ここに入っているのは、繋心だ。墓に入れることもできず、遺言どおりに海に流すこともできず、あの日からずっと大切にしまっていた、彼の遺骨。けれどもう、今日でお別れだ。自分の気持ちに整理がついたことで、ようやく彼を自由にできる。

「繋兄、俺のこと好きになってくれてありがとう。俺のこと大事にしてくれてありがとう。俺も繋兄のことが大好きだったよ。だからずっと寂しくて、辛くて……でも、もう大丈夫だ。だって俺はもう、独りじゃない。ちゃんと前に進むよ」

 きっと自分は何年、何十年経ってもあの日の悲しみを忘れないだろう。自分を愛してくれた繋心のことを忘れることなんてないのだろう。どんなに幸せになったとしても、それがあのときの痛みや悲しみを上書きしてくれることなんてきっとない。
 けれどその痛みはきっと、いつの日か自分にとっての強さに変わる。あの悲しみを乗り越えられたからこそ、これから先挫けることなく、逃げることもせずにちゃんと“愛”と向き合っていけるのだろう。

「だから……ありがとう、さようなら。――いってらっしゃい」

 壺をひっくり返して、中身を海に投じる。大きなものはそのまま澄んだ海の中に落ちていったが、細かいものは風に煽られて大空へと舞い上がっていった。そして太陽の光を受け、きらきらと輝く。そういえば彼の金髪もよく陽の光を受けて輝いていたなと思い出しながら、完全に見えなくなってしまうまでそれを眺めていた。
 ふいに涙が零れた。けれどこれは悲しみの涙ではない。次へ進むための――新しい愛と向き合い、幸せになるために必要な涙だ。

 そして大地は、ずっと自分の心を捕えていた“昨日”に、さようならを告げた。




昨日にさようならを言うのはとても難しい 終





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