広い海を見渡していた。

 その海は馴染みのある青色ではなく、なぜだか墨汁を垂らしたような濃い黒色をしている。まるで夜空がそこに広がっているかのような、あるいは大きな穴でも開いているかのような異様な景観に、不気味さを感じて思わず身を震わせた。
 しばらく呆然とその海を眺めていると、どこからか何かの音が聞こえてきた。最初それは微かにしか耳に届かなかったが、まるでこちらに近づいてきているかのように徐々に大きくなっていく。
 聞き覚えのある音だった。チリリと機械的な音で呼んでいる。そう、確かこれは目覚まし時計のアラームだ。

(なんだ、ここは夢の中だったのか……)
 
 目の前の景色がグニャリと歪む。けたたましい目覚まし時計の音に導かれて、澤村大地は覚醒を余儀なくされた。
 だるい身体をゆっくりと起こし、目覚まし時計のアラームのキャンセルスイッチを押す。ついでに時刻を確認するが、その瞬間に大地は目を見開くことになった。

「八時四十分!?」

 大地の通う高校は九時までに登校しなければならない。遅刻はもちろんマイナス点で、多ければ成績や進路に大きな悪影響を及ぼす。過去に幾度となく遅刻を重ねた大地にこれ以上のそれは赦されない。即刻即行俊足で身支度を済ませ、部屋を出てすぐの階段を駆け下りた。

「――あら。今起こしに行こうと思ってたのに」

 一階の床に着地したと同時にすぐそばから母の暢気な声がかかった。

「遅いよ!」
「ごめんね〜。私もうっかりしてて」

 そのうっかりしたところを大地が引き継いでしまったのは、こうして目覚ましのセットを間違えて遅刻のピンチに陥っている事実が、はっきりと証明している。
 いくら急いでいるとはいえ、さすがに顔も洗わずに出るのはいろいろと拙いだろう。大地は手早く洗顔を済ませ、一通り身なりにおかしいところがないかチェックしてから家を出た。

 ――八時五十分

 学校までの距離は約二キロだ。走ることが好きで、体力に自信がある大地でも、その距離を十分で完走するのはなかなか厳しいものがある。だからといって諦めて歩くわけにはいかない。それにまだ手がなくなったわけではないのだ。

「――おう、澤村。ひょっとしてお前も遅刻か?」

 このくそ忙しい場面におおよそぐわない暢気な声がかかったのは、大地が線路沿いの細い道に入ったときだった。

「烏養先生!」

 振り返ると大地のよく知る顔が、十メートルほど後ろを走っている。目つきには少し鋭さを感じるが、その顔は十分に男前と評価するに値するだろう。髪の毛は綺麗な金色をしていて――教師としてその色はどうかと思うが――、いまは寝癖らしき痕がいくつか付いている。

「先生も遅刻ですか?」

 ああ、と金髪の男前――大地のクラスの担任教師、烏養繋心は頷いた。

「一昨日ちょいと飲みすぎちまってな……まだ調子悪いんだよ」
「いい出逢いはありました?」

 以前烏養と二人で雑談する機会があったが、そのときに素敵な女性との出逢いを求めて飲み屋に通っているという話を聞いたことがある。きっと一昨日の飲み屋もそれが目的だったのだろう。

「もうからっきしだ。つーか、あんま覚えてねえ」
「どんだけ飲んだんですか……」

 烏養は男前な上、性格も面倒見がよくて優しいというのが大地の印象だ。それでも飲み屋でいい出逢いがないということは、ひょっとしたら酒癖が悪かったりするのかもしれない。

「ところで澤村。このままじゃ始業に間に合いそうにねえんだけど……近道とか知らねえか?」

 ちょうどいまからその近道を行こうとしていた大地は、この先のことを考えて苦笑する。

「あるといえば、あるんですけど……どんな道でも怒りませんか?」
「生徒の遅刻はさておき、教師の遅刻はかなりやばいべ。だからどんな道でも行くし、怒らねえよ」
「じゃあ、ちゃんとついて来てくださいね!」

 低い汽笛の音が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。
 大地たちの左手、線路の上を貨物列車が汽笛を鳴らしながら通り過ぎようとしている。先頭車両が通り過ぎたと同時に、大地は線路内に侵入。烏養がそれに続く。

「おい! もしかしてこれに乗る気か!?」
「はい! もうそれしか方法がないんです!」

 貨物列車は最寄駅を出たばかりでそれほどスピードは出ていない。飛び乗るのにはそれほど苦労もしないと、過去の経験から知っている。
 後ろに連なる数々の貨物車の中から一つを選び、大地は脇についた小さな梯子を掴んで一気に登り上がった。烏養も危なげなく梯子に捕まることができ、大地は彼の身体を引き上げてやる。

「おい! 澤村――」
「怒らないって約束ですよね?」
「そうだけど……まあ、いいわ。けど、今後はあんまこの手は使うんじゃねえぞ」
「善処します」

 貨物列車は二人を乗せて、静かな町並みを駆け抜けていく。
 烏野高校まで、もうすぐだ。



 闇の狭間 迷宮の世界

(Harmonia 第一部)


一章 平和な日常 前編


 始業のチャイムと同時に、大地は教室の自分の席に着くことができた。なんとか遅刻は免れたようだ。

「大地、危なかったな」

 大地の前の席の青年が、からかうような笑みを浮かべて話しかけてくる。

「寝癖ついてるべ」
「整える時間がなかったんだよ……」

 青年――友人の菅原はポーチから櫛を取り出すと、大地の髪を簡単に整えてくれた。同性ながら相変わらず女子力が高い。

「ほら! おしまい!」
「サンキュー。他におかしいとこないか?」
「おう、大丈夫。女子も男子もみんな見惚れちゃうべ!」
「からかうなよっ」

 菅原とは中学からの付き合いで、高校に上がってからは三年間ずっと同じクラスだった。穏やかな性格で話しやすく、大地が何かに悩んでいるときは積極的に相談に乗ってくれるような、優しい一面もある。

「あれ? 烏養先生来ないな? 職員会議が長引いてんのか?」
「あ〜……実は先生も今日遅刻寸前だったんだ。途中から一緒に来た」
「へえ。あの烏養先生が、珍しいな〜。髪の色は派手だけど、そういうとこはちゃんとしてたのに……。でも大地と一緒に来たってことは、始業には間に合っても職員会議には遅刻したんじゃね?」
「そういえばそうだな。怒られてなきゃいいけど……」

 噂をするとなんとやら。教室のドアが勢いよく開き、担任の烏養が現れる。

「お、お前らおはようさん。席に着いて、読書を始めろ」

 いつもどおりのクール(自称)な教師であろうとしている烏養だが、その鮮やかな金髪には寝癖らしきものが付いたままだ。口には出さないが、生徒の大半が「あ、寝坊して整える暇がなかったんだな」と感づいたことだろう。大地もさっき同じように思われたかもしれないと思うと、かなり恥ずかしかった。



 大地の高校では朝の十分読書の時間が設けられている。読解力の向上と漢字の読み書きを覚えるのに効果的らしい。読解力のほうはわからないが、本を読まない頃に比べたら読める漢字が格段に増えたので、効果があることは間違いないようだ。
 大地も本を読もうと鞄の中を探るのだが、ハードカバーの硬い感触がなかなか見つからない。中を覗き込むと、弁当以外のものは何も見当たらなかった。どうやら持ってくるのを忘れてしまったらしい。
 仕方ないから別のことをしよう。と言っても、一応読書の時間と決められた以上は、何か本を読まなければ先生に咎められるだろう。だから念のため社会科の資料集を机の上に立て、それに隠れるようにしてある一冊のノートを広げた。
 最近大地は作詞・作曲に熱中しており、その作業に使うのがこのノートだ。すでに出来上がったものが何曲か記されており、それらのページをさらっと捲って、最新のページ――書きかけの歌詞の載ったページを開いた。
 そもそも作詞・作曲に熱中するきっかけとなったのは、とあるゲームのエンディングテーマを聴いたことにある。国内では有名なシリーズもののRPGで、最新作では初めてエンディングテーマにプロのシンガソングライターが起用されることになった。
 発売前には話題にもなっていたようだが、大地自身はゲームのBGM程度という認識しかしておらず、それほど興味は抱いていなかった。ところが実際にゲームのエンディングに辿り着き、その曲を聴いてみると、感涙に咽び泣いてしまうほどに素晴らしいものだった。力強い歌声もさることながら、大事な人を失いながらも強く生きようとする様が繊細な言葉を使って書かれた歌詞に、ひどく感銘を受けたのだった。
 自分もこんなふうに、人を感動させられるような曲を作りたい。そう思って始めた趣味である。そして今日もまた、その作業に没頭しようとしていたのだが――
「“写真の中のあなたに愛の言葉を告げたけど 凍って動かないあなたはただ微笑むだけ せめてもう一度だけ会いたかったのに”」

 書きかけの歌詞を音読され、大地は心臓が止まるかと思った。隣に立った影を見上げると、烏養が睨むような目つきで大地を見下ろしている。

「澤村〜、曲作りもいいけど、いまは読書の時間だぞ。それは休み時間にしろよな」
「す、すみません。本を忘れちゃって……」
「なんだ、そうだったのか。だったら海、澤村に何か本を貸してやれよ。お前何冊か持ってるだろう?」
「あ、はい」

 大地の斜め前の席に座る男子生徒が、烏養に言われて机の中から文庫本を探り出す。それを大地に差出し、どうぞ、と柔らかく笑った。
 大地はその本を受け取りながら、自分の胸の鼓動が早まるのを感じていた。彼のどこまでも優しい笑顔に引き込まれそうになるが、あまり長く見つめていると顔が赤くなってしまいそうで、すぐに視線を本へと移す。

「ありがとう」

 目も合わさずに礼を言うなんて失礼かもしれないが、それ以上は自分の気持ちが漏れてしまいそうでできなかった。
 高校三年生といえば、色恋の一つや二つあって当然だろう。それは大地とて例外ではないし、現にいま淡いながらも恋心を抱いている相手がいる。それが本を貸してくれた彼――海信行だ。
 海の容姿に目を引く点はない。髪型も年中坊主だし、顔立ちも整ってはいるが、地味な部類に入るだろう。性格も真面目な上に穏やかで、クラスではあまり目立たない。そうなるといいとこなしのように思えるが、彼の優しさを知っている大地はそうは思わない。
 いつの日か授業中に突然体調が悪くなり、とりあえずその教科が終わるまでは堪えようと頑張っていたところに、席の近い彼が大地の異変に気づいて声をかけてくれたことがあった。しかも一人で行かせるのは心配だからと、保健室まで一緒について来てくれた上、早退が決まって教室に荷物を取りに戻ったときも、いろいろと気遣ってくれたのだった。
 大地は知らなかったのだが、あとから聞いた話によると、海はクラスの保健委員だったらしい。だから彼からしてみれば単にその責務を全うしようとしていただけなのかもしれない。それでも大地には彼のしてくれたことが嬉しかったし、その優しさに触れてみて、初めて彼を恋愛対象として意識し始めたのだった。
 そんな彼はいったいどんな本を読んでいるのだろう? まだドキドキ感が拭えぬまま、大地は綺麗な模様の表紙を開くのだった。







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