二章 平和な日常 後編


「――おう、澤村。ちょうどいいところに」

 大地が烏養と廊下で出くわしたのは、昼休みも後半に差し掛かった頃のことだった。

「どうかしました?」
「お前が作詞・作曲を趣味にしているのは前から知ったんだけど、出来上がった曲ってどうしてるんだ?」

 てっきり読書の時間を趣味に当てようとしていたことに対して、叱責を受けるのかと覚悟したが、どうやらそうではないらしい。

「家にキーボードがあるので、それで弾いたりしてます」
「自分で歌ったりしねえの? せっかく歌詞がついてるわけだし」
「あ〜……歌うこともありますよ。誰かに聴いてもらうことはないですけど」
「なるほどな。――なあ、よかったらお前の歌、文化祭のフリータイムで披露してみねえか?」
「ええ!?」

 突然の大胆な提案に、大地は驚きのあまり変な声を上げてしまう。

「せっかく才能があるんだ。披露しねえともったいねえと思うべ」
「作詞と作曲には自信ありますけど、歌はちょっと……。それに大勢の人の前でなんて、とても俺にはできません」

 大地はあがり性を自覚しているが、そんな大地でなくとも、大勢の人間の前でボーカルを務めるのは緊張するだろう。しかし、そうやって戸惑っている半面で、自分の作った曲を誰かに伝えたいという気持ちもあるにはあった。

「大丈夫だべ。ステージに立つのはお前だけじゃねえ。俺もバック演奏で参加するから」
「先生は何か楽器をやってるんですか?」
「おう。ギターやってるべ。一時やめてたんだが、最近なんとなく再開したんだよな。でも、ただ一人で黙々とやってるのも寂しいだろ? だからこの機会にどうかと思ってな」

 烏養は、他にもメンバーを集めてバンドを組もうと提言する。最初は一人でステージに立つことを想像し、絶対に無理だと思っていた大地だが、複数人でやるのであれば緊張も緩和されるかもしれない。

 ――やってみようかな。

 烏養の言うとおり、せっかく丹精込めて作った曲の数々を、このままあのノートの中に封印しておくのはもったいない。誰かに聴いてもらいたいし、他人の感想も聞いてみたい。ならばこの機会に一歩踏み出してみるのもいいだろう。

「わかりました。やってみます」

 苦笑混じりに返事を返すと、烏養はホッとしたように微笑んだ。

「そりゃよかった。誘いに乗ってくれてサンキューな。詳しいことはまた後日話し合おうぜ。それよりまずはメンバー集めだな。俺も探してみるけど、澤村も周りに楽器をやってるやつがいたら声かけてみてくれ」
「わかりました。よろしくお願いします」
「こっちこそ」



「スガって何か楽器できたっけ?」

 夏も始まったばかりだが、夕方になっても厳しい暑さはなくならない。太陽の光をたくさん浴びたコンクリートは、お返しとばかりに熱を空気中に放出している。そんな道を帰りながら、大地は菅原に問いかけた。

「楽器? う〜ん……カスタネットならできるけど?」
「そういうんじゃなくて、バンドにありそうな楽器だよ」
「ベースだったら、兄貴が持ってるの勝手に弾いてたから、ちょっとはできるべ。でも、急にどうしたんだよ?」
「うん、それがな……」

 大地は昼休みに烏養に提言されたことを、菅原に話した。

「へえ〜。文化祭で発表か〜。そりゃ大変なことになったな!」
「うん。それでとりあえず楽器を演奏できる人集めてるんだよ」
「なるほどな〜。でもそれならど素人の俺なんかより、兄貴のほうが役に立ちそうだな〜。兄貴、結構上手く弾けるみたいだし」
「そうなのか?」
「おう。だから俺から兄貴に言ってみるべ。兄貴も大地のお願いって言ったら、絶対断ったりしないだろうしさ」
「だといいんだけど……」

 菅原の兄は、見た目こそ強面で近寄りがたいものの、話してみると意外と優しい上に気が利く。だから大地は彼のことが結構好きだったりするが、そこに恋愛的な要素はない。

「あっ! そういえば、海がピアノ弾けるって風の噂に聞いたことがあるべ」
「えっ!?」

 突然想い人の名前が話題に出て、大地は思わず必要以上に驚いてしまう。

「おや〜? 大地さん、いま過剰に反応しましたな〜。海に対して何か思うところでもあるのかな?」
「知ってるくせに茶化すなよ!」
「ははははっ!」

 菅原は大地が海に想いを寄せていることを知っている。同性を好きだということを打ち明けるのにはずいぶんと勇気が要ったが、菅原は理解を示してくれ、応援するよと言ってくれた。しかし、最近はどうも何かアドバイスをしてくれるよりも、冷やかされることのほうが多い気がする。

「今日はちょっとだけ話せたじゃん。ほら、朝の読書の時間に」
「一言だけな。あんなの会話って言えないよ」

 本当はもっとたくさん彼と話をしてみたいが、なかなかそういう機会に恵まれない。――いや、そこは大地の勇気の問題だろうか。席は近いわけだし、話そうと思えばいつでも話せる状態だ。けれどなかなか声をかける勇気が出ず、そもそも何を話していいかもわからず、結局ただのクラスメイトから何の進展もしていない。

「なら、ピアノの話をきっかけにいろいろ話してみたら? 何かきっかけがないと声かけ辛いんだろう?」
「うん……。声かけ辛いタイプの人じゃないはずなんだけど、なんだか緊張しちゃうんだよな〜」
「あ〜、それわかる! 俺も好きな人に声かけるときはなんだか緊張しちゃうべ」
「スガも好きな人がいるの?」

 そういえば、大地の恋愛については散々話をしてきたが、菅原のそういう話はいままで聞いたことがない。ただなんとなく、彼は異性に興味がないものだと勝手に思い込んでいた。

「そりゃ、年頃の男の子だからな。好きな人の一人や二人いるだろ、普通」
「え、二人も!? 二股はよくないぞ!」
「そこは冗談だって! 一人しかいないっての!」
「なんだ、冗談か〜。それで、その好きな人って誰だ? 俺の知ってる人?」
「まあ、一応同じクラスだから顔は知ってるだろうな。そうだ、明日俺より早く学校に来られたら、教えてやるよ!」
「ええ!? いま教えてくれないのか!?」

 菅原は悪戯な笑みを浮かべる。

「タダで教えてあげるほど俺の秘密は安くないべ」
「俺は無条件で教えたのに……」
「あれは大地が勝手に言ってきただろ? 別に俺から訊いたわけじゃないし」
「そうだけど、なんか納得いかないな〜」

 この感じだと菅原はそう簡単に口を割らないだろう。ならば明日の朝、彼より先に教室へと行くしかない。目覚ましのセットもちゃんと確認して、すぐに出られるように準備しておこう。大地はそう胸中で決意するのだった。



 大地が風呂から上がり、自室に行こうとしていたところで玄関のドアが開いた。――父が帰宅したのだ。

「父さんお帰り」

 スーツ姿の父に、大地は微笑みかける。

「ああ、ただいま。すっかり遅くなってしまったな。夕食はもう食べたか?」
「うん、先に食べちゃったよ」
「そうか。それは残念」

 父は言葉のとおり、残念そうに肩を落としてリビングに向かう。

「あ、そうだ父さん。俺、文化祭でもしかしたら歌を歌うかもしれないんだ」

 大地がそのことを話さずとも、おそらく父はあとから母に聞かされることになるだろうが、一応自分の口からも言っておきたい。そう思って父の足を止める。

「合唱でもするのか?」
「違うよ。バンドを組んで、俺がボーカルをやるんだ。曲も俺が作ったのを演奏するんだよ」

 作詞・作曲を趣味にしていることは、以前父に話したことがある。
 父は驚いたように目を瞠り、しかしすぐに嬉しそうに笑ってくれた。

「すごいじゃないか。それは、父さんも聴きにいかないといけないな」
「でもまだメンバーも集まってなくて、どうなるかわからないんだけどね」
「文化祭まではまだまだ時間があるんだろう? きっと大丈夫さ」
「だとは思うんだけどね……。スガもいろいろ声かけてくれるって言ってくれたし、先生も協力してくれるから」
「そうか。それにしても、せっかく作った曲を披露する機会ができてよかったな」
「うん。でもやっぱり自分で歌うってなると、すごく緊張するよ」
「そうだろうな。でも、自信を持って。大地ならきっと上手くいくよ」
「ありがとう」

 父は優しい微笑みを浮かべ、踵を返して再びリビングに向かって行く。その後ろ姿を見送りながら、大地は自分の中から、文化祭に対しての不安が少し薄れているのに気がついた。
 父の微笑みと言葉は、いつも大地に安堵をもたらしてくれる。幼い頃からずっとそうだ。もちろん悪いことをして叱られることもあったが、そんなときは単に大地を叱責するのではなく、なぜそんなことをしたのかと理由をちゃんと聞いてくれて、それを加味した上での正しい道を示してくれた。
 そんな父のことが大地は昔から大好きで、母のことももちろん大好きで、二人の子どもとして生まれたことを心の底からよかったと思っている。きっとこの先もその気持ちは変わらないだろう。

 いつもどおりの、平和な日常だった。平和すぎて退屈に思うこともないことはないけれど、だからと言って何か刺激が欲しいとも思っていない。むしろこの日常がこれからも続いていくことこそが、大地にとっての幸せなのだろう。そう自覚していた。

 だが――
 そんな平和な日常に、何か得体の知れないものが近づいてきていることを、大地はまだ知らなかった。それはバリン、ガシャンと、まるで一斉にガラスが割れるような破壊音を立てながら、急速に迫ってきていた。
 
 大地がそれに巻き込まれるまで、もう少し――。







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