三章 闇の狭間


 いつもより一時間早く着いた教室には、誰の人影もなかった。机や椅子がただ物静かに並んでいるだけで、いつも始業ギリギリに登校する大地にとっては、その風景がなんだか新鮮に感じられた。

「よかった。スガよりも早かったみたいだ」

 とりあえず自分の席に着き、鞄の中の荷物を整理する。そのときふと目に入ったのは、斜め右前の席だ。いつもはそこに大地が想いを寄せる“彼”が座っている。
 大地は立ち上がり、彼の席のほうへと足を一歩踏み出した。そして、なんとなくその机に触れてみる。もちろん温かくも冷たくもない木の感触しかしないが、なんだか愛おしいものを撫でるような、優しい手つきになってしまう。

「――あっれ〜!? 大地早っ!? どうしたんだよ!?」

 机の主の顔を思い浮かべていると、菅原が突然現れた。大地を見るなりまるで幽霊にでも出くわしたかのような顔をして、驚きの声を上げた。

「スガより早く来たら、スガの好きな人教えてくれるんだろ?」
「そりゃ、そう言ったけど……俺んが絶対早く来られると思ったから言ったんだけどな〜。まさか大地がこんなに早くに来てるなんて全然思わなかった」

 大地が朝に弱いことを知っている菅原には、まったく予想できなかった展開らしい。

「さあ、白状してもらおうか。黙秘権は使えないからな」
「う〜ん……まあ、自分から言い出したことだし、ちゃんと教えるって」

 そう言って菅原は、窓際に向かって歩き出した。大地の席から横に三つ離れた席の前で止まり、目の前の机を無遠慮に指差す。

「この人」
「えっと、そこって確か……清水さんの席だったよな?」

 大地の記憶が正しければ、その席の主はスラっとした長い黒髪の女生徒だったはずだ。あまり会話を交わしたことはないが、美人で目立つ存在だったから、顔はよく覚えている。

「へえ、スガってそういう人が好みなんだな」
「意外?」
「いや。全然違和感ないし、清水さんならまあ、美人だし好きになるのもわかる気がする」
「ええ、お似合い夫婦だなんて、そんな〜」
「誰もそこまで言ってねえよ!」

 冗談だって、と菅原が笑い、大地もそれに笑い返す。

(頑張って早起きしてよかったな)

 菅原の想い人を知られたことは、大地にとっては大きな収穫になりそうだ。何せいままでは海のことで一方的に大地が弄られていたのが、今度は大地からも清水のことで菅原を弄ることができるのだから。
 いままでからかわれた分、存分にやり返してやろう。大地はそう強く決意するのだった。



 始業の時間が近づいてくると、当然教室は生徒で溢れてくる。菅原や他の友人と話しているうちに静かだった室内は賑やかになり、そんな中で大地は坊主頭の彼が出入り口から入って来るのを見つけた。斜め前の席に荷物を置く彼に、タイミングを計って話しかける。

「おはよう、海くん」
「あ。おはよう、澤村くん」

 穏やかな微笑みに、大地の鼓動は人知れず高鳴る。それを悟られぬよう表情を引き締め、用意していた台詞を口に出した。

「あのさ、今日の放課後、時間あったりする?」
「放課後? 大丈夫だよ。部活もしてないし」
「じゃあ、ちょっと教室に残ってもらっていいかな? 海くんにお願いしたいことがあって」
「わかったよ。掃除が終わってからでいいよね?」
「うん、もちろんだよ。よろしくお願いします」

 はい、という歯切れのいい返事を聞いて、大地は菅原たちの元へそそくさと戻る。なんとなく予想はしていたが、戻ってきた大地を見る菅原の顔には悪戯な笑みが貼りついていた。

「おやおや〜? 大地、放課後に海を呼び出しちゃって、ひょっとして愛の告白でもするのかな〜?」
「ち、違うって! ほら、昨日スガが、海くんがピアノ弾けるって話してただろ? だからバンドの演奏をお願いしようと思って」
「それなら休み時間にお願いすればいいべ。いまでもいいし。わざわざ放課後に誘ったってことは、何か下心があるんじゃないの? どう思いますか、旭先生?」
「ええ、ここで俺に振るのか? 変なこと言ったら大地怒るから、ノーコメントで」

 もう一人の男友達が、慌てたようにそう言った。

「スガー、いい加減からかうのやめろよな。それにスガだって、例のあの人ともっと話してみたらいいんじゃないか?」
「え、何々? スガのほうも恋愛物語が始まってるのか?」
「ああ、こら〜! なんでそれ言っちゃうかな〜」
「先にからかってきたのはスガだろ」
「く〜……あんな約束するんじゃなかった〜」

 いつもの調子のよさを崩した菅原は、その後友達の東峰に恋愛事情を詳しく訊かれて、更に調子を崩していった。さすがに卑怯だったかなと己の発言を少し反省したが、よく考えればいままでは大地のやられっ放しだったので、遠慮の必要はないかと思い直す。

 そうして平和な日常が、いつものように流れていく。迫りくる強大な闇に気づかぬまま、ゆっくりと、穏やかに――。



 放課後がやってきた。
 昇降口の掃除当番を終えた大地は少し急ぎ足で教室へと向かう。その前にトイレに寄って、少しだけ身なりの確認をする。髪は跳ねていない。制服もおかしなところはないし、どこに出しても恥ずかしくない状態だ。
 好きな人にいい印象を与えたいと思うのは、人として当然の感情だろう。待ち合わせをしているのは、大地が想いを寄せる相手だ。ちゃんと会話ができるかどうかも心配の種だが、まずは自分の見た目も気にしておかなければならないだろう。
 鏡の中の自分に「よし」と頷いて、大地は今度こそ待ち合わせ場所である教室へと向かう。ドアを開けると、すっかり見慣れた坊主頭が大地の目に飛び込んできた。自分の席に静かに座っていた彼は、大地の顔を見て穏やかに微笑む。

「待たせちゃってごめん、海くん」
「ううん。俺もいま来たところだから」

 二人きりになるのは、いつの日か彼に保健室に連れて行ってもらったとき以来だ。あのときはまだ彼を恋愛対象として意識していなかったから、二人きりでも緊張などしなかった。しかし、いまは違う。大地は自分の中の彼に対する溢れんばかりの好意を自覚しているし、だからこそ二人きりという状況に人知れずドキドキしていた。
 大地は自分の席ではなく、海の隣の席に腰かける。そして心の中で深呼吸をすると、できるだけ自然な調子で次の台詞を口にした。

「朝も言ったように、海くんにお願いがあるんだよね。その前に、一つ確認したいことがあるんだけど」

 よし、とりあえずは普通に話を切り出すことができた。大地はホッと胸を撫で下ろす。

「何?」
「噂で聞いたんだけど、海くんがピアノを弾けるって本当?」
「あ、うん。小さい頃に習ったことがあって、いまは教室をやめちゃったんだけど、趣味で続けてるよ」
「そうなんだ」

 物静かで優しい雰囲気の彼に、ピアノはぴったりの楽器だ。頭の中で海がピアノを弾く姿をこっそり想像しながら、大地は思わずうっとりなりかけるが、まだ本題を切り出していないことに気づいて現実に戻る。

「あの、それでお願いっていうのが、そのピアノに関わることなんだ。実は文化祭でバンド演奏をしようと思ってるんだけど、よければ海くんにピアノをお願いできないかな?」
「俺が?」
「うん。他にピアノを弾いている人もなかなかいないし、海くん、なんかピアノ上手そうだから」
「上手かどうかはわからないけど、俺で役に立てるならぜひ参加させてよ」

 少し返答を渋るかと大地は思っていたのだが、意外にも海は悩む素振りもなく大地の頼みを了承した。

「澤村くんはなんの楽器をやるの?」
「俺はボーカルだよ」
「ボーカル!? それは、人一倍緊張するだろうね。やっぱり自分で作った曲を歌うの?」
「海くん、俺が曲作りをしてること知ってたの?」
「うん。と言っても、知ったのは昨日だけど。休み時間に澤村くんが何かノートに書いているのは知ってたけど、昨日の朝読書の時間に先生に注意されているのを聞いて納得したよ」

 彼が自分のことを少しでも知っていてくれたことが嬉しくて、大地は胸の中が温かくなるのを感じた。

「自分で歌うなら、シンガソングライターだね」
「そんな大そうなものじゃないよ。作る曲だって、拙い感じのものばっかだし」
「それでも、作れるってだけで俺はすごいと思うよ。だからもっと自信を持っていいんじゃないかな」
「そうかな? なんか、ありがとう」

 海にとっては何気ない言葉なのかもしれないが、大地にとって彼の一言はたくさんの愛を奏でるメロディーのように感じられた。やはり彼は優しい。増々好きになってしまいそうだと、優しく微笑む顔を見ながら思った。
 それから海とはいろんなことを話した。ピアノのこと、中学時代のこと、曲作りのこと。最初に感じていた緊張はいつの間にかどこかへ消えていて、大地はありのままの自分で彼と言葉を交わすことができていた。
 だからと言って、いまここで胸に秘めた想いを伝えるつもりはないが、いままで挨拶程度でしか言葉を交わしたことがない彼と、こんなにも話をできたことは大きな進歩と言えるだろう。

(なんか、幸せだな……)

 彼の声を聞き、彼のことを知り、それだけのことが大地に大きな幸福をもたらしてくれる。この時間が永遠に続けばいいのにと、大地は心の底から思っていた。しかし――
 ――パリンッ!
 そんな幸せな時間は、ガラスが割れるような音によって突然に打ち砕かれた。
 音源はそれほど遠くない。おそらく隣の教室だろう。そこは美術室だから、美術部員が何かを落としてしまったのか、あるいは窓ガラスでも割ってしまったのかもしれない。

「すごい音したけど、大丈夫かな?」

 海が音のしたほうを見ながらそう訊いてくる。

「何か割れたような音だったな。様子見てみる?」
「そうしよう」

 もしかしたら誰かが怪我をしていて、手助けを求めているかもしれない。海と二人きりの時間が名残惜しくはあるが、ちゃんと状況を確認するほうが大事であると大地は判断し、二人して教室を出る。
 美術室のドアを開けると、意外なことにそこには誰の姿もなかった。窓ガラスが割れたり、備品が落ちていたりしている様子もなく、棚に並んだ銅像たちが静かに大地たちを見下ろしているだけだ。

「何もないみたいだね」
「ここじゃなかったんだろうか?」

 音源は確かに大地たちがいた教室から遠くなかったはずだし、方向的にもここだと思ったのが、どうやら間違いだったらしい。ここではないならいったいどこなのだろうかと疑問を頭に浮かべながら、大地たちは美術室を出ようとする。

 そのときだった。

 踵を返そうとした視線の端で、何かが音もなく動いたのだ。再び後ろを振り返ると、さっきまで閉まっていたはずの備品室の扉が、なぜだか全開になっていた。

「あそこ、開いてたっけ?」
「いや、さっきは閉まっていたような気がするんだけど……中に誰かいるのかも」
「さっきの音、もしかしてあそこからだったのかな?」

 今度こそ誰かが助けを求めているかもしれないと、大地は迷いなく備品室の扉に向かう。

「大丈夫ですか?」

 辿り着く前に一応声をかけてみたが、それに対する返答はない。もしかしたら気を失っているのかもと、ひやりとした気持ちになりながら、急ぎ足で様子を見に行く。
 しかし、ここに入ってきたときと同じように、扉の向こうには誰の姿もなかった。人の姿どころか、物一つない。あるのは夜の闇より暗い闇だけだ。
 おかしい。大地はすぐに気がついた。窓の外の光が備品室の中にも届いているはずなのに、扉の向こうには闇しか広がっていない。明かりが点いてないにしても、いくらなんでも暗すぎる。

 ――ここから離れろ!
 大地の防衛本能がそう激しく訴えた。だから大地は咄嗟に海の手を取って、美術室の出入り口へと向かおうとする。しかし、床を蹴ったはずの足がなぜか宙を蹴っていて、前へ進むことができなかった。

「えっ!?」
「うわあ!?」

 驚きの声を上げたのは、自分の身体が宙に浮いていたからだ。この世の物理法則では決してありえない現象が自分の身に起こっている。テレビでたまに、宇宙飛行士が無重力状態の宇宙船内を自由に飛び回っている映像が流れることがあるが、まさにいまの大地は同じような状態だ。ただし、自由に身動きすることはできなかった。

「どうなってるんだ!?」
「わからない! でも、このままじゃあの中に……」

 二人の身体は、ゆっくりと備品室の扉のほうに近づいていた。あの闇の中に入ってしまうと、きっとよくないことが起きてしまう。そう感じて流れに逆らおうとしたけれど、掴むものもなく、瞬く間に闇が近づいてくる。
 最後に扉の淵を掴もうとしたが、手を掠っただけでそこに留まることはできなかった。そしてそのまま大地たちは闇の世界に放り込まれてしまう。
 次の瞬間、大地は強烈なGに襲われた。身体がばらばらになってしまいそうな感覚と、息もできないほどの凄まじい圧力――どこまでも、どこまでも、何も見えない空間を落ちていく。

(この手だけは離しちゃ駄目だ……)

 手の中に掴んだ、海の腕の温かな感触。いまこの手を離したら、きっともう彼と会うことはできない。そんな予感に駆られて必死に手に力を込める。
 しかし、頑張るにはあまりにも落下の時間が長すぎた。凄まじい風圧で手の感覚が徐々になくなってきて、限界が間近に迫ってくる。そして無情にも彼の温かな体温は、大地の手の中から離れてしまった。

「海くん!!」
「澤村くん!!」

 自分の名前を呼ぶ海の声を最後に耳にして、大地の意識は暗闇に溶け込んでしまうのだった。







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