四章 ここはどこ……? 絶望が舞い降り、暗闇に包まれつつあった世界に、一筋の光が射し込む。彼にはそんな気がした。 それはとてつもなく遠い場所に出現したようだが、強い気配を彼は確かに感じていた。 「どうやら聖彼せいか王は希望を導くのに成功したみたいだな」 彼は誰とも知らず呟いて、隣に佇む漆黒の影に手を触れる。 それを言葉で表現するなら、最も近いのは“ドラゴン”だろう。艶のある黒色をした翼に、同じ色をしたたくましい躰。短い脚と鉤爪のついた太い腕、そして長い首の先には恐竜のような顔。影の正体は、そんな風貌の生き物だった。 「さて、希望を迎えに行くとすっか。悪いが、一つ働いてもらうぞ?」 彼の言葉を理解したように、ドラゴンは首を上下させた。そして、前脚を地面について巨体を屈めると、青年がその背中に軽やかな身のこなしで乗り上がった。 「無事でいてくれるといいけどな……」 ◆◆◆ 冷たいものが頬を伝う感触がした。 目を覚ました大地は、全身を襲う寒さに思わず身体を震わせる。 (あれ……? 俺、もしかして窓を開けたまま寝ちゃったのか?) 身体を濡らしているのはきっと雨だろう。大地のベッドは窓際に配置しているから、窓が開いていれば当然濡れてしまうわけだ。急いで閉めないと、と思って起き上がった瞬間、大地は呆然としてしまう。 なぜならそこは大地の見慣れた自室ではなく、見たこともない森の中だったからだ。 「俺、なんでこんなところに……?」 辺りを見回すが、そこにはたくましい木々が佇んでいるだけで、何か現状を把握できるようなものは見つからない。まだ夢を見ているのかと疑いもしたが、雨が身体に打ちつける感触も鮮明に伝わってくるし、何より身体が自由自在に動く。現実であることはほぼ間違いないようだ。 (そうだ、確か美術室にいたんだったような……) ガラスの割れるような音を聞いて、自分のクラスの教室から美術室に駆け込んだのはよく覚えている。けれどそこは何事もなくて、戻ろうとしたら奥にある備品室の扉が開いて――。 その扉の向こうに、いっさい光を通さない暗闇が存在していた。あそこに入ると絶対によくないことが起こる。そう確信して美術室を出ようとしたはずなのに、得体の知れない力で扉の中に引き寄せられ、底の見えない闇へと落ちて行った。そうして目を覚ますとここにいたわけである。 「そうだ、海くん!?」 闇の中へ落ちたのは、大地だけではない。大地がしっかりと腕を掴んでいた海もまた、意識を手放す直前まで一緒にいたはずだ。最後に彼が自分の名前を呼んだ声が、いまも耳にしっかりと残っている。 とりあえず辺りを散策してみよう。そう思って大地は立ち上がりかけるが、すぐ近くで草がガザガザと揺れる音がして、その動きが途中で止まってしまう。 いったい何が出てくるのだろうか? こんな森の中だから、熊の一頭や二頭出てきても不思議ではない。音のするほうを注意深く観察しながら、大地は本能的に身を低くしていた。 ゆっくりとした動きで姿を現したそれを見て、大地は絶望せずにはいられなかった。 姿かたちは、大地の知る狼のそれとほぼ同じと言っていい。黒みがかった灰色の毛並が全身を覆い、たくましい四本の肢で大地のほうへと近づいてくる。 問題はその大きさだ。大地の知っている限り、狼の体長は大型犬とほぼ同等――つまり、大きくてもせいぜい一,五メートルから二メートルといったところである。しかしいま目の前にいるそれは、その倍以上はあろうかという大きさだ。頭の位置も、四本肢をすべて地面についていながら大地の顔の位置より高いところにあった。 (マジか……このままじゃ俺、こいつに喰われるっ!) 逃げなければ。そう思うのに、足が竦んで動けない。 心臓が破裂しそうなほどに鼓動を速めていた。死にたくない。でも、どうすることもできない。 (誰か、助けてくれ!) 大地の心の叫びは誰に届くこともなく、手を伸ばせば届く距離まで巨大な獣は近づいてきた。そこで肢を止め、獲物を検分するかのように赤い瞳が大地を見つめる。 『――迷ったのか?』 そのとき、低い男の声が大地の鼓膜を震わせた。慌てて大地は辺りを見回すが、声の主の姿は見つからなかった。誰かに助けてほしいと必死に願う余り、どうやら幻聴が聞こえてしまったらしい。 『迷ったんだな』 だがしかし、再び自分の人生を諦めかけた大地の耳に、同じ声がまた聞こえてくる。今度は幻聴などではない。確かにはっきりと、大地の耳に届いていた。 (もしかして……) 注意深く辺りを見回すが、やはり声の主は見つからない。目の前にいる獣もその声には反応せず、相変わらず赤い瞳が大地をじっと見つめているだけだ。そんな状況で聞こえた声が幻聴ではないのだとしたら、この獣がその声の主だとしか考えられない。 「いまの、お前の声……なのか?」 寒さと恐怖に震える声で、大地は目の前の獣に訊ねてみる。 『そうだ』 獣が頷くような仕草をしたかと思うと、あの声が返事を返してきた。どうやら大地の想像どおり、声の主はこの獣で間違いないらしい。普通なら俄かに信じがたいことだが、いまは状況が状況だ。獣が喋り出してもなんの不思議もない。 『こんな森の奥にどうやって入ったんだ? そんな無防備な身なりでは魔物に襲われてしまう』 「魔物……? お前は俺を襲わないのか?」 『俺に人を喰う趣味なんかない』 赤い瞳は血の色のようで少し怖いが、それに反して声は低いけど穏やかで優しい感じがする。緊張で強張っていた大地の身体は、その声と獣に敵意のないことを知って、一気に力が抜けてしまった。その場にへたり込み、理由のよくわからない涙を流しながら盛大に息を吐いた。 「こ、恐かった……喰われるかと思った」 『害意はないから安心していい。それよりもさっきの質問の答えがまだだが……お前、どうやってここまで来た?』 「わからない……。目を覚ましたらここに倒れててて。そうだ、備品室の中に大きくてすごく暗い穴があって、そこに落ちてしまったんだ」 『穴? そうか……お前はこの世界の人間ではないのか』 「それってどういう……」 『詳しい話は俺の住処に戻ってから聞こう。ここにいたら雨に打たれるばっかりだ。――背中に乗れ』 そう言うと、獣は大地が乗りやすいように身を屈めた。大地はゆっくりと立ち上がり、迷いなく獣の背に飛び乗る。 右も左もわからない地に来てしまった大地に、頼れる人も、また状況を理解する術もない。ならば手を差し伸べてくれる人――いや、たとえそれが得体の知れない獣だとしても、いまはそれに頼るしかないだろう。 『名前は?』 「あ、大地です。澤村大地。お前……いや、あなたにも名前はあるんですか?」 『称号はフェンリル。みんなそう呼ぶが、本名は別にある。本名は牛島若利だ。好きなほうで呼べ』 |