五章 次元の狭間


 移動中、牛島若利と名乗った獣は、大地の不安を和らげるためか、自分のことを事細かに話してくれた。
 牛島は“召喚獣”と呼ばれる生き物に当たるらしい。この森には人や動物を襲う“魔物”も生息しているらしいが、召喚獣はそれとはまた一線を臥した存在だという。数えきれないほど生息している魔物に比べ、召喚獣は世界で十体いるかどうかという希少な存在だそうだ。人々の間では神に近しい存在だと言われており、召喚獣を信仰する宗教まであるという。
 そしてその情報が事実だということを、大地は案内された牛島の住処を目の当たりにして実感することとなった。
 その見た目は、大地の地元にもあった神社によく似ている。長い階段を上ると鳥居のような飾りをくぐり、そしてその奥に本殿と思しき古風な建物が待ち構えていた。出入り口らしき戸の上には、牛島のたくましい躰を象った彫刻があり、彼――あるいは彼女が神に近しい存在であることを証明していた。
 牛島は本殿の前で大地を下ろすと、前脚で器用に戸を開けて、建物の中に入っていく。

『入れ。居心地はそれほどよくないかもしれないが、外にいるよりはましだろう。それにここなら魔物に襲われることもない』
「ありがとう。お邪魔します」

 中は造りこそ立派なものだったが、何も物がないせいでずいぶんと殺風景に見える。残念ながら濡れた身体を拭くものもなさそうだが、牛島の言ったとおり、外で雨に打たれ続けるよりはましだろう。
 床に横たわった牛島の躰は相変わらず驚異的なほどに大きいが、それに対する恐怖心は当の昔に消え失せていた。人語を話すことにもすっかり違和感がなくなっており、己の順応さに感心すらしてしまう。
 しかし、自分が置かれた状況に関しては未だに何もわからないままだ。ここがどこで、どうしてこんなところにいるのか――それをこの神に近しい存在とやらは知っているのか、皆目見当もつかない。

『穴に落ちたと言っていたな』

 赤い瞳が大地のほうを向いて、静かな声で語りかけてくる。

「はい。逃げようとしたんだけど、変な力に引っ張られてそのまま落ちちゃって……ここはどこなんですか? 地区の名前とかわかりますか?」
『桜府おうふ王国の“魔物の森”だ』
「桜府……?」

 そんな名前の国、大地は知らない。

『大地の住処はなんという国にあるんだ?』
「日本です」
『ニホン? そうか……やはりお前はあっちの世界の人間なのか』
「あっち?」
『……大地には少し長い話を聞いてもらわなければならないようだ』

 そう言って牛島は巨体を起こし、いま入ってきたばかりの出入り口に向かって歩き出す。

「どこに行くんですか?」
『食べ物を獲って来る。大地は待っていろ』
「あ、でも俺っ」

 引き止めようとした大地を制し、牛島はその巨体に似合わぬ軽快さで本殿を飛び出していった。
それから五分ほどして出入り口の襖が開く。牛島が帰って来たと思って「お帰り」と言いかけたが、その声はすぐに喉の奥に引っ込んだ。なぜならそこにいたのが、さっきまでそばにいた獣ではなく、見知らぬ人間だったからだ。
 髪は黒に近い灰色で、その下の顔は男臭いが、誠実さや精神力の強さを感じさせる。大地を真っ直ぐに見つめる瞳は意志が強そうで、一目見て気難しい人間だとわかるほどの、独特の鋭さを宿していた。
 背丈は百七十七センチの大地よりも十センチ以上高いだろうか。衣服は上から下まで何もまとっていない、完全な全裸だった。その身体は豹のようなしなやかさと、ライオンのような力強さを併せ持ち、それでいて一切無駄がない。股間にふてぶてしくぶら下がるそれもまた逞しく、どれだけ眺めていても飽きないような、まさに百点満点の身体だった。

「食べ物を獲って来た」
「えっ、あれ……その声、ひょっとして牛島さんなのか?」

 男が発した声は、間違いなくさっきまでここにいた獣の声だった。

「ああ。召喚獣は人の姿と獣の姿の二体を持つ。これが俺の人としての姿だ」

 顔立ちから、歳は大地とあまり変わらないように見える。けれど確かここに来る途中、二百年ほど生きてきたと言っていた。

「それよりこれ、獲って来たから食え。味の保証はできないが、何も食わないよりましだろう」

 そう言って牛島は桃のようなものを差し出した。

「ありがとう。でも、牛島さんの分は?」
「召喚獣は食事を必要としない。だから気にしなくていい」
「そうなのか。じゃあ、いただきます」

 桃のような見た目をしたそれは、いとも簡単に皮を剥くことができた。果実も桃と同様に透き通った白色をしており、大地は不躾にもそのままかぶりつく。――予想に反して、葡萄に近い味がした。

「大地が置かれている状況を説明する」

 名前もわからない果物――らしきもの――を食べ終えた頃に、牛島がそっと話を切り出した。

「これはあくまで俺の予想だが、大地は“次元の狭間”に巻き込まれたのだと思う」
「ジゲンノ……ハザマ?」
「この世界に存在する古代魔法の一つだ。まったく違う次元に存在する二つの世界を局所的に繋げることができる。つまり、この世界は大地のいた世界とはまったく別の世界ということになる」

 別の世界に来てしまった――その事実を牛島の口から聞かされても、大地は別に驚かなかった。なぜなら、ここに来るまでの間に牛島が話してくれることを聞きながら、薄々そうではないかと感づいていたからだ。
 危険な動物は大地のいた世界にもいることはいたが、この森でちらっと見かけた魔物と呼ばれるそれは、大地の知っているどの動物にも当てはまらなかった。何より目の前にいる牛島のような召喚獣は存在しなかったし、いまの話によると、魔法も存在しているという。
 まるでRPGの世界だ。大地はそう思った。
 自分の知っている世界とは、まったく違う世界が存在する。普通なら信じられないような話だが、大地はすでにいくつもの不思議を体験してしまっている。備品室にあった大きな穴。目を覚ますとそこは記憶にない森の中で、突然巨大な狼のような姿をした獣が現れ、しかもその獣は人の言葉を話す。そこまでの不思議を目の当たりにしておいて、牛島の話を疑おうなどとは思えなかった。

「そっか……ここは俺の知らない世界なんだ」

 むしろ次元の狭間のことを聞いて、納得がいった。今更夢の中にいるなどとも思わない。

「元の世界に帰ることはできるのか?」

 ここが別の世界であるということは事実として受け入れるとして、問題は現状を打破する方法があるかどうかだ。何もかもをあちらに置いてきてしまった以上、いつまでもこの世界に留まるわけにはいかない。急にいなくなってしまった自分たちを、周囲の人たちもきっと心配していることだろう。

「元の世界に帰る方法はない」
「そう……なのか?」
「“次元の狭間”を使える存在がこの世界にいたとしても、大地のような普通の人間がこちらからあちらに渡ることはできない。逆はできてもだ」

 冷たい事実が、牛島の口から静かに告げられる。

「だが、それはあくまで俺の知識の中での話だ。もしかしたら大国では人間の技術が発展して、こちらからもあちらに行けるようになっているかもしれない。だから大地、お前は聖彼せいか王国を目指すといい」
「聖彼王国?」
「この世界で一番科学技術の発展した大国だ。それ以外にも優秀な魔道士やその道に詳しい者が集っている。だから元の世界に帰る方法も見つかるかもしれない」
「ここから聖彼王国まではどれくらいかかるんだ?」
「この森を出るまで、俺の足で約五日。そこから山を下りて海に出るまでが、人の足で約四日。そこから広い海を越えなければならないから、船で約二週間といったところだろう」
「すごく遠いんだな……」
「そうだ。それに俺の足でお前を送ってやれるのは、この森の出口までだ。そこから先はお前自身の足で進まなければならない」
「出口まで送ってくれるのか?」
「森の中を大地一人で進むのは危険だ。それに俺には人間を守る義務がある」

 途中までとは言え、牛島がいてくれるのは頼もしい。この高台から見る限り、森は相当な広さだ。大地一人ではあっという間に迷子になってしまうだろうし、魔物の存在も恐かった。

「ありがとう、牛島さん。とても助かるよ」
「礼には及ばない。今日はもう休んで、明日出発しよう」
「うん」



 薄暗かった外の景色に、夜の帳が舞い降りていた。さっきまであんなに雨が降っていたのが嘘のように、夜空には月と星が、まるで上品なアクセサリのような落ち着いた輝きを放っていた。
 それをぼんやりと見上げながら、大地は何もかもを置いてきてしまった、元の世界のことを考える。

(父さんと母さん、心配してるだろうな……)

 父も母も、大地に並々ならぬ愛情を注いでくれていた。大事にしてくれていると、毎日のように感じていたし、だからこそ何も告げずにここに来てしまったことが、ひどく申し訳なかった。いや、別に来たくて来たわけでもないが。
 それから一緒に次元の狭間に巻き込まれた想い人は、いったいどこに行ってしまったのだろう? 大地と同じように、この森のどこかに落ちたのだろうか? だとしたら魔物に襲われたりしていないだろうか?
 思考が悪いほうへと傾いているのに気づいて、大地は慌てて首を横に振る。大丈夫だ。きっと彼も自分と同じように、親切な人に拾われて、聖彼王国の話を聞いているはずだ。自分に言い聞かせるように心の中でそう呟く。
 これから大地のやることはただ一つ。聖彼王国に行くことだ。そうして元の世界に帰って、またあの平和で穏やかな日常の中に溶け込んでいきたい。

 愛しい人たちの顔を思い浮かべているうちに、大地は眠りに就くのだった。







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