六章 迷宮の世界


 漆黒の闇だった。

 何の気配も感じない、闇の世界。海信行は闇の中で独りぼっちだった。それを自覚した途端、寂しさが込み上げてきて、顔を伏せてシクシクと泣き始めてしまう。
 寂しくて泣くなんて、いったいいつ以来だろうか? 映画やドラマに感動して涙を流すことはあっても、寂しかったり、あるいは悲しかったりして泣くのは、ずいぶんと久しぶりだ。
 思う存分に泣いて、落ち着いたら今度は笑顔の練習をしてみる。鏡がないので自分がどんな顔をしているかはわからないが、人に見せられる程度のものにはなっているだろう。

(澤村くんの前でも、ちゃんと笑えているだろうか……)

 斜め後ろの席に座る、一人の男子生徒。明るくて、けれど落ち着きがあって、気配りのできる優しい人だ。海はそんな彼にひっそりと好意を寄せていた。
 いつも、どこにいても、彼の存在を感じた。人を好きになるというのは、そういうことなんだろう。
 だが、いまはそんな彼の存在をまったく感じることができなかった。とてつもなく遠くに離れてしまったような、そんな感覚がして堪らない。
 記憶を辿って行き、何が自分たちを引き剥がしたのか思い出す。そう、備品室の巨大な穴だ。そこに二人で落ちてしまって、繋いだ手が離れてしまったのだ。
 あれはいったいなんだったのだろう? そしていま自分はどこにいて、何をしているのだろうか? 辺りを見渡すが、目に映るのは光を一切通さない、漆黒の闇ばかりだった。

 ――そうして彼は今頃気づく。深い眠りについていたことに。

 それを自覚した途端に、意識がゆっくりと覚醒していく。薄く開いた瞳に光が映り込んできて、眩しさのあまり顔を反対側に背けた。
 そこはベッドの上だった。けれどそれは自分の部屋のベッドでもなければ、保健室のベッドでもない。
 狭い部屋には海の寝ているベッドと腰丈の棚、家具らしい家具はそれだけである。棚の上には見覚えのある服が畳んで置いてあり、それが意識を手放す直前まで自分が身に着けていたものだとすぐに気づいた。ちなみにいまの自分の恰好は、パンツ一枚だけというなんとも情けない状態だ。しかも履いているパンツは自分のものではない。
 突然ドアが開いて、海は文字どおり跳び上がった。慌てて足元にあった掛布団を手繰り寄せ、その中に無意味だとわかっていながら身を隠す。

「どんだけビビってんだ、お前」

 聞こえてきたのは、若い男の声だ。恐る恐る布団から顔を覗かせると、開いたドアの前に、海とあまり歳が変わらなさそうな男がトレイを手に立っていた。

「調子はどうだ?」

 どう、と訊かれてもなんと答えればいいのかわからず、ただ呆然と男を見返す。すると男はにやりと笑う。

「お前がこの近くに倒れてたから、拾ってやったんだよ」
「えっと、ありがとうございます……?」

 男の世話になったのは理解したが、状況はまったくわからない。そもそもここはどこで、どうして自分は倒れていたのだろう?
「あの、ここはどこなんですか? どうして俺は倒れていたんでしょう?」
「お前がなんで倒れてたのかは知らねえよ。ちなみにここは、蘭華らんかのアカシア村だ」
「蘭華……?」

 聞き覚えのない単語に、海はそれを反芻しながら首を傾げる。

「おいおい。蘭華を知らねえのか? お前、どこの出身なんだ?」
「宮城の烏野というところです」

 故郷の名前を口にすると、今度は男のほうが首を傾げた。

「ミヤギ? そりゃ国の名前か?」
「いえ、街の名前です。国は日本ですが……」
「そんな国、オレは知らねえぞ……」

 日本は非常に豊かで、科学技術が他を寄せつけないほどに発達した国だ。世界中でその名を知らない人間はそうそういないだろう。逆に蘭華とかいう国の名前も、男は知っているのが当たり前だとでも言いたげな調子で口にした。けれどどちらもそれぞれの国を知らない。これはどういうことなのだろうか?
「お前まさか……倒れる前、変なものに吸い寄せられたりしなかったか?」
「吸い寄せられた……? あっ」

 思い出したのは、備品室に突如出現した巨大な穴のことだ。そばにいた想い人に手を引かれ、その場から逃げようとしたのだが、何かよくわからない力に引き寄せられ、結局穴に落ちてしまった。

「よくわかりませんが、真っ暗な穴に落ちたのは覚えてます。それが何か、あなたは知っているんですか?」
「知ってる。そりゃ“次元の狭間”ってやつだ。そうか、やっぱりあれに巻き込まれたのか……」

 男の表情は険しい。その次元の狭間とかいうものは、どうやらあまりよくないもののようだ。まあ、こんな見ず知らずの土地に飛ばされた時点で、海にとっていいものではないのはすでに明白であるが。

「あの、世界地図を見せてもらえませんか? 蘭華という国がどこなのか、俺にはさっぱりわからないので。帰る方法もわからないし……」
「帰る方法、か……。ねえことはねえけど、いろいろ大変だろうな〜。まあ、いい。とりあえず世界地図はこれだ」

 男は喋りながら棚の中を漁って、一枚の紙切れを海に渡してくれる。
 世界地図と言われて渡されたそれを見て、海は困惑した。なぜならそれは、海の知っている世界地図とまったく違うものだったからだ。母国の名前どころか、誰もが知っているはずの大国の名前もない。いや、それどころか大陸の配置や形、海域の名前まで、何もかもが海の知っているものと違う。戸惑いながら男を見ると、男はその男臭い顔立ちに苦笑を浮かべた。

「言っとくけど、別にオレは偽の地図を渡したわけじゃねえぞ。それは正真正銘、この世界の世界地図だ」
「で、でも……」
「この世界はお前の元いた世界とは違う。信じられねえかもしれねえが、お前は次元の狭間を越えて別の世界に飛ばされたんだ」

 男の顔は至極真剣で、とても嘘をついているようには見えなかった。けれど、そんなことをすぐに信じられるわけがない。自分の知っている世界とは違う世界が存在するなんて、そんな非現実的なことがあり得るわけがない。
 しかし、海たちが美術室で体験した奇妙な力は、間違いなく現実のものだった。いまだって想い人が海の腕を掴んでいた感触を鮮明に覚えているし、穴に落ちるときに襲ってきた強烈な重力の感覚も思い出せる。
 男の話は本当なのかもしれない。けれど、信じきるにはまだ何かが足りない。
 海はベッドから下りると、男を押しのけて部屋のドアを開ける。その向こうにあったリビングらしきスペースを通り抜け、更に玄関らしきドアを、自分がパンツ一丁だということも忘れて、焦燥感にかられながら開いた。
 外に出た瞬間、ほのかな潮の香りがした。右に目を向ければ、白い砂浜と広大な海原が広がっている。しかし、その海原は海の知っている、空を映し出した青色ではなく、なぜか遠くのほうは黒い。少し不気味だと感じた。
 左は山になっていて、そこには見たことのない植物が生えている。振り返った建物や向こうのほうにある民家らしきものは、海の住む国ではまったく見ることのない雰囲気の外観をしていた。
 海と山と建物――それだけで判断できるものではないのかもしれないが、海はここが自分の住んでいた世界とは違う世界なのだと、少しだけ信じる気になった。もちろん単に違う国にいるだけだという可能性がないわけではないが、何か違和感のようなものが纏わりついて離れない。海外旅行に行ったときでさえ、そんなもの少しも感じなかったのに……。
 呆然としながらまた建物の中に戻り、ベッドに力なく腰かける。そのとき、ふと一緒に次元の狭間に巻き込まれたはずの“彼”の存在を思い出し、さっきと同じ場所に佇む男の顔を見上げた。

「俺と一緒に、青年が倒れてませんでしたか? 歳は俺と同じくらいで、短髪です」
「青年? 見てねえな。あそこに倒れてたのはお前だけだったぞ。他にも巻き込まれたやつがいるのか?」
「俺のクラスメイトなんです。いったいどこに行ってしまったんだ……」
「次元の狭間に巻き込まれた人間は、必ずしも同じ場所に落とされるわけじゃねえらしい。それが同時に落ちたとしてもだ。だからお前のクラスメイトやらは、きっと別の場所に落とされたんだろうよ」
「捜す方法はありますか?」
「いや、残念ながら見当もつかねえ。一応ここらへんの住人には声かけてみるが、望みは薄いかもな。なんせ世界は広い。でも、もしそいつが運よく善人に助けられていたら、きっと“聖彼王国”を目指すはずだ」
「聖彼王国?」

 海が首を傾げると、男は枕元に放っていた世界地図を広げ、左上の大陸を指差した。

「ここに聖彼王国っていう、世界一の大国がある。ここに次元の狭間を意図的に起こせる人間がいる。そいつに頼めば、元の世界に戻ることもできるだろうよ」
「本当ですか!?」

 ああ、と男は頷いた。

「それに元の世界に帰る必要がないってんなら、ここの王様がお前たちに国籍を用意してくれるだろうよ。そういうお国柄だからな」

 この世界に永住する、という選択肢もあるらしい。もちろん海にはそんな気など更々ない。“彼”と落ち合うことができれば、すぐにでも元の世界に帰してもらうつもりだ。何せ、何もかもを放ってきてしまったのだから。自分たちの安否を心配している人だっているだろう。

「聖彼王国に行く方法を教えてください」

 この世界地図で見る限り、蘭華と聖彼王国との間には海が広がっているようだ。渡航手段は船か、あるいは飛行機だろう。

「そうだな。飛空艇で行けば半日くらいで着くと思うぜ。けど、あれは金がかかる。まあ、船もその点は同じだが、飛空艇の半分以下で済むだろうな。お前、金は持ってねえんだろう?」
「はい……」

 財布はバッグの中で、それは教室の自分の机に置いてきてしまったから、いまの海は無一文だ。

「なら船で行くしかねえ。それにそっちならオレの金で二人分どうにかなるしな」
「二人分……?」
「ああ。オレも一緒に行くよ。お前一人じゃ心配だからな」

 男はニヤリと笑ってみせる。

「で、でもそれじゃあなたにご迷惑を……」
「気にすんな。オレは元々聖彼の人間なんだ。そろそろ里帰りしようかどうか迷ってたから、いいきっかけになった」
「でもお金まで出してもらうなんて……」
「じゃあこうしようぜ。オレの仕事を少し手伝ってくれ。それでバイト代出してやっから、船賃にすりゃあいい。どっちにしたってオレはついていくからな」

 この男はどうやら、見た目に反して親切で世話好きのようだ。いい人に拾われたのだと、海は改めて実感する。

「じゃあ、それでお願いします。お役に立てるかどうかわかりませんが……」
「ははっ、そんなに気張る必要はねえよ。ホントにちょっとした仕事だから。そうだ、お前名前はなんって言うんだ?」
「海信行です。あなたは?」
「鎌先靖志。この物語の主人公だ」

 得意げな顔でそう宣言されて、海は一瞬反応に困ってしまう。

「おい、なんかオレが滑ったみてえじゃねえか」
「え、あ、すみません……」
「謝ることでもないけどな。まあ、一つよろしく頼むわ、信行」
「はい。こちらこそよろしくお願いします、鎌先さん」
「靖志でいいって」

 こうして海の、別の世界での人生が始まる。どこに行ってしまったのかわからない、大切な人の顔を心の中に浮かべながら――。







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