七章 暴走 「魔物の森、か。あそこに行くのもずいぶんと久しぶりだな」 光が段々と近づいている。青年にはそれがはっきりと感じられた。 「若利は元気にしてんのかな? あれが若利に拾われてるなら、とりあえずは安心なんだが」 魔物の森は文字どおり、魔物たちの領域だ。普通の人間ならば、あっという間に食い尽くされてしまうだろう。いや、普通でなくても、あそこで生き延びるには相当な力を持ち合わせていなければならない。“彼”の気配はまだ強く感じられるが、それもいつ消されてしまうかわからない。 「急ぐぞ」 『うっす』 青年を背に乗せた黒竜は、更にスピードを上げて空を翔け抜ける。“彼”のところに辿り着くまで、もう少しだ。 ◆◆◆ 日中は牛島の背に乗り、夜は牛島に包まれて眠る。そんな毎日が当たり前のようになっていた。 牛島との旅は、思いのほか楽しかった。森の景色は先へ進むごとに変化していき、いろんな動物たちが顔を覗かせ、それらが大地の目を楽しませてくれた。 もちろん、元の世界のことを忘れたわけではない。ふとした瞬間に故郷の人たちのことを思い出し、寂しくなることもしばしばある。 こうして離れてみると、あの場所が無性に温かいところだったように思える。いつも誰かがそばにいて、笑ってくれた。時には真っ向から衝突することもあったが、最後にはお互いに笑い合い、また元の親しい仲に戻れた。 (やっぱり帰りたいな……) あの安心できる場所へ、一刻も早く帰りたい。帰って、ただいまと言って、いつもの生活に戻るのだ。そしてまた、平和で穏やかに日常を過ごす。まるでゲームのような不思議な世界も退屈しなくていいかもしれないが、やはり大地にとってはあちらが自分の生きる世界なのだ。 魔物の森に、夜の帳が下り始めた。 人が住むような場所ではないだけに、大地はいろいろと不便を強いられていたが、幸いにも食べるものには困らなかった。その辺の木になっている実はほとんどが食べられるもので、それを主食にしながら旅を続ける。 困ったのは、替えの服がないことだ。この世界に来てから――正確には来る前から身に着けていた学校の制服は、至るところが汚れたり、少し破れたりしている。そのうち服としての役目を果たせなくなりそうだ。 森の中だから、もちろん風呂もない。たまに見かける泉で簡単に身体を水洗いすることはできたけれど、それだけではやはりすっきりとはしなかった。 「若利は一人でここにいて、寂しくないのか?」 眠りに就く態勢が整うと、大地はなんとはなしに牛島に問いかけていた。 『寂しい、という感情が俺にはよくわからない』 「そっか。寂しいっていうのは、誰かにそばにいてほしい、誰かに会いたいって思う感情だよ」 『大地はやはり寂しいのか?』 「うん、そうだな。父さんや母さん、学校の友達たちと離れて、やっぱり寂しい。すごく会いたいなって思う。でもたぶん、若利がいなかったらもっと寂しい思いをしてただろうな。お前に拾ってもらえてよかったよ」 牛島は何も言わなかった。顔を覗くと、瞳は固く閉じられている。どうやら眠ってしまったようだ。大地は牛島の頭を優しく撫でると、そのたくましい躰に身を預け、眠気が舞い降りてくるのをゆっくりと待った。 パン、という何かが破裂するような音が大地の鼓膜を刺激した。浅い眠りから一気に覚めた大地は、いったい何が起きたのかと周囲を見渡す。 獣の森は朝を迎えていた。相変わらず周囲には大きな木々が生い茂り、遠くを見渡すことはできない。音源が何なのかは、すぐにはわからなかった。 「あれ、若利?」 さっき寝ていた場所を振り返ると、大地が背を預けていたはずの牛島の姿がない。いつもは大地が起きるまでそばにいてくれるのに、いったいどうしたのだろう? 胸騒ぎがした。何か悪いことが起きる――あるいはすでに起きているような気がする。とりあえずこの辺りを散策してみよう。きっとすぐに牛島も見つかって、この言い知れぬ不安はすぐに解消されるだろう。 しかし、大地の胸騒ぎは最悪な形で現実のものとなってしまった。 押しつぶされた草木――きっとここを牛島が通ったのだろうと、大地はその道を辿って行く。そうして歩くこと五分、少し開けた場所に出たところで、見慣れた灰色の毛並を見つけた。 「若利? 何してるんだ?」 大きな躰は地面に横たわり、微動だにしない。慌てて駆け寄ると、灰色一色のはずの毛並に、赤い模様が混じっているのが目に入った。それが血であると、大地は臭いですぐに理解した。 「若利!? しっかりしろよ! いったい何が――」 「――俺たちの獲物に何か用か?」 いきなり降りかかった声は、牛島のものではなかった。驚きながらも背後を振り返ると、そこには見知らぬ男たちが六人、下卑た笑みを浮かべてこちらに近づいてきている。 「……って、ガキか。こんなところで、一人で何やってんだ? ああ、そいつには触らないでくれよ。俺たちの大事な売りものだからな」 「売りもの……?」 男たちは手に手に銃を持っていた。きっとあれで牛島を撃ったに違いない。 神にも等しいと言われて敬われているはずの召喚獣に、この人たちはいったいなんてことをするのだ。しかも大地にとって大事な存在に……目の前の凶器に対する恐怖は、湧き上ってきた怒りに打ち消された。 「俺たちは魔物をサーカス団や珍獣屋に売って生計を立ててるハンターだ。そういう坊主は何者なんだ? もしかして、同業?」 「……一緒にするなよ。俺はいろいろと事情があって、若利と一緒に行動してただけだ」 「若利だと!? まさか、そいつ召喚獣のフェンリルなのか!?」 どうやら男たちは、自分たちが仕留めた獲物が召喚獣であることを知らなかったらしい。牛島は普段広大な森の奥深くに留まっていると言っていたし、彼らがその姿を見たことがなくても不思議ではない。 獲物が召喚獣とわかったなら、彼らもこれ以上の手出しはしてこないだろう。むしろ罰当たりなことをしてしまったと反省しているかもしれない。そう思った大地だったが―― 「召喚獣はきっとそこらの魔物なんかより馬鹿高く売れる! さっさと持って帰るぞ!」 世の中はそんなに甘くなかったし、どうやら目の前の男たちは思っていたよりもずいぶんとゲスらしい。反省した様子など微塵も見られず、むしろ召喚獣を仕留めたことを喜んでいるようだ。 大地の身体の奥底から、怒りとともに何かが湧き上ってくる。それは熱くて、激しくて、怒り以上に大地の心を侵食していく。 頭の中に、赤く点滅する三つのランプが見えた。それが一つずつ青に変わり、そして三つすべてが青になった瞬間、とてつもなく大きな力が爆発的に噴出してくるのを、大地は確かに感じた。 「赦さない」 吐き捨てるように呟いた瞬間、大地は駆け出していた。身体が軽い。それこそ無重力空間にでも迷い込んだのかと思うくらい、始めの一歩でかなりの距離を跳躍した。その勢いのまま、先頭にいたリーダー格の男へと突っ込み、渾身の蹴りを喰らわせる。蹴られたほうの男はそのまま草の中へ吹っ飛んでいった。 (こんな力、俺にあったんだ……) 大地に肉弾戦や格闘技の経験はない。運動は元々得意なほうだったが、こんなにも軽やかに動けた覚えはない。まあ、いまはなんでもいい。目の前の敵たちを蹴散らすことができるのなら、突然そんな力が湧いたって別に困らない。困らないどころか、大いに役に立つというものだ。 一時大地の動きに呆然となっていた男たちが、我に返って戦闘態勢に入る。最初に仕掛けてきたのは、大地に一番近い場所にいた初老の男だ。銃は使わず拳を剥き出しにして走って来てくれたのはありがたい。大地は焦らず冷静に回し蹴りで対抗し、男を昏倒させるのに成功した。 とにかく、銃を構える隙を与えないようにしよう。あれを持ち出されては大地に勝ち目などない。 大地は素早く次の行動に移った。今度は一気に二人。まずは近いほうの男にサマーソルトキックをお見舞いし、もう一人には強烈な右ストレートをかましてやった。 この勢いで残り二人も蹴散らそう。そう思い、すぐに動き出そうとした大地だが、背後から出来損ないのエルボーをくらってしまう。出来損ないでも、それなりに痛かった。 もたもたしていると、次の一発が大地の顔面に振り下ろされようとしていた。慌てて横に回転し、避けることに成功。すぐに態勢を整え、隙を見せずに男の鳩尾へ拳を入れた。 (あと一人……) 振り返ると、最後の一人が銃を構えるのが見えた。一瞬やばいと息を飲んだ大地だが、どうやらその銃は歴史の資料集で見た「火縄銃」と同じタイプのものらしく、まだ縄の先に火が点いたばかりのようだった。 これはもらった、と大地は自分の勝利を確信した。全速力で間合いを詰め、弾が発射されるより先に男の鳩尾に強烈な一撃を喰らわせる。それで事のすべてが片付いた。 「若利……!」 |