八章 ありがとう、さようなら


「若利! 若利!」

 何度呼びかけても、何度大きな頭を揺すっても、牛島が目を覚ます気配はなかった。
 灰色の美しい毛並を汚す、赤色の液体。それは地面にも水たまりをつくり、牛島の生死を容赦なく、はっきりと大地に伝えてくる。

「頼む、目を覚ましてくれ……」

 大地は牛島のたくましい躰に縋りついた。
 牛島はこの世界に迷い込んでしまった大地を、親切に世話してくれた恩人だ。初めてその姿を目にしたときは恐怖で足が竦んだが、穏やかな優しい声を聞いて、大地はすぐに安心した。
 彼がいなければ、きっと大地はとっくの昔に野垂れ死んでいただろう。生きる術もわからず、進むべき道もわからず、絶望して蹲って、最後には魔物の餌になっていたかもしれない。
 牛島とはたったの四日しか一緒にいなかったけれど、それでも大地にとって大事な存在だった。ただ道を示してくれるというだけでなく、まるで長年連れ添ってきた友人のような、そんな感覚が大地の中に芽生えていた。
 だからこそ、こんな形で別れることになってしまったのが悲しいし、悔しい。自分がもっと早く起きていれば、と後悔に苛まれながら、大地は嗚咽を零した。
 大地が縋っていた巨体が急に動き出したのは、そのときだ。
 一瞬何が起きたのかわからなかった。急に身体を持ち上げられるような感覚に襲われたかと思うと、次の瞬間には四本の肢で完全に起き上がった牛島を見上げていた。鮮やかな赤色をした彼の瞳と視線が交わる。

『すまない。気を失っていたようだ』

 慣れ親しんだ低い声が、大地の鼓膜を震わせる。呆然と彼の姿を眺めていた大地は、はっとなって立ち上がり、再び灰色の毛並に手を触れた。

「若利!? 大丈夫なのか!? さっきあいつらに撃たれたんじゃあ……」
『撃たれたが問題ない。傷はもう塞がっている』

 灰色の毛並は血で汚れてはいるが、確かにそのどこにも傷らしきものは見当たらない。彼の言葉は本当のようだ。
 よかった。大地は思わず安堵の息を零した。ホッとすると同時に再び涙が溢れ出し、思わずその場にへたり込む。

「死んじゃったかと思った……。もう話すこともできないって思って、それで俺……」
『心配をかけて悪かった。少し油断していた』

 もう、と言いながら大地は牛島の前脚を叩いた。

「でもよかった。若利が生きててくれて、よかった」
『大地も無事でよかった』

 微かだが、大地には牛島が微笑んだように見えた。彼が表情をつくれるのかどうかは知らないが、そんな気がした。
 互いの無事を確認し合って、少し休憩してからその日の旅を始めた。食べ物は相変わらずその辺になっている木の実が主でいい加減飽きてきたし、身体は洗えても服や下着はずっと同じものを使っていて、なんだか気持ち悪い。そんな旅でも大地は楽しいと思えた。それはひとえに牛島がそばにいてくれるからだろう。
 けれどそんな彼とも、予定どおりなら明日にはお別れとなってしまう。彼が大地に付き添ってくれるのはこの森の出口までだ。そこから先は、この未知の世界を一人で生きていかなければならない。

(なんか、寂しいな……)

 せっかく出逢えたのに、短期間でこんなにも仲良くなれたのに、泣いても笑っても牛島と一緒に過ごせるのは明日が最後だ。そして別れたあとはきっと、もう二度と会うことはできないのだろう。元の世界に帰ってしまえば尚更だ。
 牛島の背の上で、大地はひっそりと泣いた。牛島が心配するから嗚咽はなんとか堪えようとしたけれど、震える手に気づいたのか、彼は肢を止めて大地を振り返った。

『どうした? どこか痛むのか?』

 彼の気遣いが心に沁みて、大地は余計に泣いてしまった。

「違うよっ。若利と別れるのが寂しいから……」

 ふわりとした、触り心地のいい灰色の毛並。大地を安心させてくれる、低いけれど柔らかくて優しい声。すべてが愛おしいと、大地は漠然とそう思った。

『俺も大地と別れるのが寂しい』

 牛島の口から、意外な言葉が放たれる。

『この胸のつっかえのようなものが寂しいという感情なら、俺も大地との別れを寂しく思っているということだ。寂しい……そうか、これが』
「若利……」

 赤い瞳からは彼の感情を読み取ることはできない。けれど遠くを見つめる横顔は、どこか哀愁を漂わせていた。

『別れは寂しいものなのかもしれない。だが、きっとすぐに大地には仲間が見つかる。この森を出れば世界には人間が溢れ返っている。俺がそうしたように、大地に手を差し伸べてくれる人間はいるはずだ。だからすぐに寂しくなくなる。何も心配しなくていい』
「でも俺は、若利ともっと一緒にいたい……」
『大地は強い。連れ添った時間は短いが、それだけは俺にもわかる。その寂しさも、これから訪れるかもしれない困難も、大地ならきっと乗り越えられるはずだ』
「若利……ありがとう」

 大地は牛島の大きくてもふもふした頭を抱きしめる。触れ合った頬に、彼の温かな体温を感じた。離したくない。でも、明日には離さなければならない。だから今日は眠りに就くまで、その温もりを存分に味わうことにした。



 夜空にたくさんの星々が散りばめられた頃に眠りに就いて、朝日が昇ると目を覚ます。魔物の森に迷い込んでたったの五日しか経っていないが、そんな健康的で安定した生活習慣が大地の中で当たり前のようになっていた。
 目を覚まして、すぐにそばに牛島がいないことに気がついた。昨日の一件のせいでまた何かあったのだろうかと不安になったが、大地が立ち上がると同時に見慣れた灰色の毛並が木々の陰から姿を現した。

「おはよう、若利。どこに行ってたんだ?」
『出口までの道を確認していた。もうすぐそこだ』
「そっか……」

 本当に、もう少しで牛島との別れの時が来てしまうのだ。改めてそれを実感して、大地はまた寂しくなる。

『出口で大地を待っている人間がいた』
「えっ……?」

 この世界に知り合いなど、牛島を除けば一人もいない。大地を迎えに来てくれる人間に覚えなどなかった。――いや、一人だけ心当たりがある。ともに次元の狭間に落ちてしまった、大地の大切な想い人。

「もしかして海くん!?」
『残念だが、大地の言ったやつではない。ここから先、大地を助けてくれるこの世界の人間だ』
「この世界の人が、どうして俺を?」
『詳しい理由は俺も知らされていない。だが、信用に足る人物ではある』



 牛島の言っていたとおり、森の出口は十五分ほどで着く距離にあった。鬱陶しいほどに生い茂っていた木々が急に途切れ、その先には広大な平原が広がっている。
 その平原の中に、大地は黒くて大きな物体を見つけた。いったいなんだろうかと目を凝らしてみるが、この距離からではその正体を掴めない。大地を乗せた牛島はその黒い物体のほうに向かって走っていく。
 あともう五十メートルほどの距離まで近づいたところで、大地はそれが何なのかをようやく理解した。“ドラゴン”――RPGゲームの世界にはありふれた生き物が、大地の眼前に聳え立つようにして存在していた。
 牛島のような巨大な狼、そして森に住むたくさんの魔物たち――ファンタジーの世界から飛び出したような生き物は見慣れたつもりでいたのに、大地はそのドラゴンを目にして、どうしようもないくらいに感動していた。
 艶のある黒色をした翼に、同じ色をしたたくましい躰。短い脚と鉤爪のついた太い腕、そして長い首の先には恐竜のような顔がある。こちらを見下ろす瞳は牛島と同じ赤色だ。
 ドラゴンを上から下まで検分したところで、大地はそのそばに人の姿があることにようやく気がついた。髪の色はドラゴンと同じ漆黒、不器用そうに微笑んだ顔は若く、精悍な顔をした青年だった。

「初めましてだな、大地」

 顔立ちに見合った低くて男らしい声が、挨拶をしてくる。

「初めまして。あれ……? どうして俺の名前を?」
「さっき若利から聞いた。俺は岩泉一。召喚士――若利みてえな召喚獣を従者にして戦うやつのことをそう呼ぶんだが、俺はそれに当てはまる。他にもいろんな肩書きを持ってんだけど、代表的なのは聖彼王国の大使だ。後ろにいるのは黒竜の賢太郎」
「一国の大使なんですか!? そんな人がどうして俺なんかを迎えに?」
「聖彼王がお前との謁見を望んでる。だから俺はお前を王の元へ届けるために、迎えに来たんだ」

 聖彼王国はこれから大地が向かおうとしていた国であり、確か牛島はこの世界で最も大きな国だと言っていた。そんな大国の王が、異世界人である自分に何の用があるというのだろう?
「お前に頼みてえことがあるそうだ。その内容は本人に会って直接聞いてくれ。用が済めばちゃんとお前を元の世界に送り届けるって言ってる」
「頼みたいこと?」

 こんな自分が大国の王の何に役立つと言うのだろう? 疑問は尽きないが、その先はいくら考えても答えは出ない。とりあえずはこの青年に身を任せるのが一番安全かつ、確実に聖彼王国に辿り着くための手段なのだろう。牛島が信用に足るというくらいだから、信じてみて損はないはずだ。

「じゃあ、行くとすっか。できれば日が沈むまでに海沿いの街に出たいんだ」
「あの、若利に挨拶してきていいですか? 世話になったんで」
「ああ、いいぜ。ひょっとしたらあいつとは今生の別れになるかもしれねえから、言いたいことは全部言っとけよ」
「はい」

 少し離れたところで待機していた牛島に大地は歩み寄る。雨の日の雲を思わせるような灰色の毛並。最初は血の色のようで恐かったが、いまはそこに優しさが詰まっていると知っている、赤い瞳。大地は彼の姿を目に焼きつけるように見つめ、そして大きな頭にしがみついた。

「いろいろありがとう。大好きだ」

 きっとこの柔らかな感触に触れられることは、二度とない。岩泉とやらが言っていたとおり今生の別れだ。寂しかったが、大地は泣かなかった。代わりに彼が安心して大地を送り出せるように、精一杯の明るい笑みを見せる。
 そうして大地は再び黒竜の元に行こうと踵を返す。――背中が温かい何かで覆われたのはそのときだった。
 逞しい人間の腕が大地の腹の辺りに回ってきている。牛島が人の姿になって後ろから抱きしめているのだと、大地はすぐに理解した。

「俺も大地が好きだ」
「若利……」
「見てくるといい。この広い世界を」
「ああ。いつまでも元気でいてくれよ……」
「大地もな」

 温もりがふわりと風のように離れる。振り返ったときには、牛島はすでに獣の姿に戻っていた。
 大地は岩泉の手を借りながら黒竜の背に乗る。ハーネスのようなものをしっかり掴んだと同時に、その巨体が青く澄んだ空へ向かって飛翔を始めた。
 魔物の森がどんどん小さくなっていく。そして牛島の姿も。それらがようやく見えなくなったところで、大地は堪え切れずに涙を零した。







inserted by FC2 system