十章 取り残された少女


「ふあ〜〜〜〜〜〜〜」

 浸かった湯のあまりの心地よさに、大地はそんな完全に気の抜けきった声を出していた。
 久しぶりにまともに身体を洗えた。魔物の森でも泉や小さな滝で洗えたことは洗えていたけど、シャンプーや石鹸を使えてやっと本当に身体が綺麗になったと思えた。
 そして何と言ってもこの温かな湯船である。旅の疲れがすべてこの湯に溶け込んでいくような、そんな感覚と同時にどうしようもないくらいの幸福感を大地は感じていた。

「風呂ってすごいんだな……」

 当たり前のようにあったものがいざなくなると、あんなにも不便を強いられるものなのか。魔物の森にいた頃は毎日のようにその当たり前に対するありがたみを痛いほど実感していたし、いまもそうである。

「――よう」

 聞き覚えのある声とともに風呂場のドアが開いたのは、大地が心地よさのあまり鼻歌を歌い出しそうになった直前のことだった。
 何の断りもなく入って来たのは、召喚士の岩泉である。さっきまで着ていた品のよさそうな服は脱いだらしく、大地の目の前に完全な裸体を堂々と晒している。その身体は大地に負けないくらい逞しいもので、綺麗に筋肉の付いたそれは情欲をそそるほどに男らしさを放っていた。

「いや、なんで入って来るんですか! 先に入っていいって言ったじゃないですか」
「待ちくたびれちまってな。俺もしばらく風呂入れてねえんだよ。それに夏がここの風呂は広いから二人で入れるって言ってたし、なら大地と裸の付き合いでもするかと思ったんだが……駄目だったか?」
「いや、もう別にいいですけど……」

 いきなりで驚きはしたものの、一緒に入るのに不快感はない。むしろ岩泉のような男前は大歓迎だが、それを言葉にするのは自制する。すぐ目の前で髪や身体を洗う彼を無遠慮に眺めながら、大地は少しだけ興奮していた。目の保養にはなるが、下半身が反応しないように気をつけなければならない。

「ふぅ〜〜〜。やべえ、すげえ気持ちいいぜ……」

 岩泉が同じ浴槽に入ってくる。確かにこの浴槽は大地の知る一般家庭のものより一回り以上大きく、体格のいい自分たち二人が入っても狭くはなかった。

「岩泉さんって意外といい身体してるんですね。召喚士っていうと肉体派とは遠いイメージがあったんですけど」
「大使って役職が結構肉体労働だからな。毎日のようにあっちこっちに行かされて、いろいろ働かされるんだ」

 大変なんだぜ、と岩泉は苦笑する。

「あ、そういやお前、俺に敬語使うのやめろよな」
「え、でも一国の大使ですし……」
「大使なんてそんな大そうなもんじゃねえよ。それに俺は敬語使われるのあんま好きじゃねえんだ。岩泉さんって呼ぶのもやめろ。“一”でいい」
「わかりまし……あっ、うん、わかった。えーと、一さん?」
「さんもいらねえ。ただの一でいいぜ。ま、いきなりが無理ならちょっとずつでいいからさ」
「うん」

 岩泉は、外見的には大地とあまり歳が変わらないように見える。訊ねてみると、同じ十七歳だと教えてくれた。

「そういえば岩泉さん……じゃなかった、一って夏とは会ったことがあるのか? 今日最初に夏が出てきたとき、一のこと知ってるふうだったから」
「おう、何回か会ったことあるぜ。祠の様子をたまに見に来てたからな。いま思えば、あれは及川の目の届かねえような安全なところに場所を移すべきだった。あいつが奪いに来る可能性は十分にあったからな。そうしてりゃ、夏が泣くようなことも起きなかったんだろう。夏にも、死んじまった村のやつらにも悪いことしちまった……」
「そんなの、一が悪いわけじゃないよ。悪いのは及川って人だろ? 世界を滅ぼすとか、宝玉を盗むために村人を殺すとか、そんなの赦されることじゃない」

 大地が元いた世界で言えば、及川のやっていることはテロリストと同じだ。どんな理由であれ人を殺すことは間違っていると思うし、ましてや何の罪もない人々を殺すなんて卑劣すぎる。

「お前の言うとおりだよ。けどそれを及川に説くことはできねえ。あいつはもう誰の言葉にも耳を貸さねえだろうし、自分の過ちに自分で気づくこともねえだろう」

 岩泉は真剣な眼差しで自分の手を見つめた。

「できることならあいつを殺したりはしたくねえよ。けどたぶん無理だ。他に方法はねえ」
「一は及川って人のこと、嫌ってるわけじゃないんだな」
「まあ、な。ガキの頃は普通に親しかったし、すぐ調子に乗るやつだけど、一緒にいりゃ退屈することもなかった。だから殺さずに済むならそれが一番いい」
「もう話し合うことはできないのか?」
「たぶんな。もちろん次に会ったときは話し合いから入るつもりではいるけどよ。あんま期待はできねえな」

 人と何か違うところがあると、そうではない多くの人間たちの攻撃の的になる。それは大地が元いた世界でもよくある話だ。些細な意地悪から、陰湿で的にされた人間を苦しめる虐め。それは時に被害者を死に追いやることもある。
 及川もいろんな嫌がらせをされたり、汚い言葉で罵られたりしたのだろうか? 試験管ベビーであることが、なぜそれほど偏見の目に晒されなければならないのか大地にはわからないが、きっと復讐したくなるほどの何かを彼はされたのだろう。
 けれどやはり復讐のために人を殺すというのは間違っていると思う。命は何物にも代えがたいし、他人にそれを奪う権利などない。さっき泣きじゃくっていた夏のことを思い出すと、やはり及川には同情よりも怒りばかりを感じる。

「あ、そういえば夏と晩飯作るんだった」

 この心地いい湯の中にまだ身を沈めていたかったが、あまり長風呂して夏を待たせるのも悪いだろう。岩泉に断って、大地は先に湯船から出た。

「あ、大地」

 出入り口のドアに手をかけたところで、岩泉が湯船から声をかけてきた。

「お前すげえいいケツしてんな」
「エロオヤジか!」

 至極真剣な声でふざけたことを言う岩泉をドアで遮って、大地は濡れた全身をタオルで拭いた。それから夏の用意してくれたTシャツと短パンを身に着けて、彼女がいるであろう台所に向かう。

「あれ? 夏?」

 四帖ほどの台所に、小さな夏の姿はない。作業台には野菜や包丁などの調理器具が置いてあり、いつでも料理が始められそうな雰囲気だ。
 他の部屋で大地を待っているのかと思って探してみたが、少女の姿は家のどこにもなかった。一応玄関先や庭のほうも覗いてみたけれど、そこには夜の帳が降りているだけで、人の気配は感じられない。

「夏ー!」

 家の中と外、両方に呼びかけてみるが、それに対する返事はなかった。

「おい、どうした?」

 風呂から上がったらしい岩泉が外に出てきて、怪訝な顔で大地に訊ねてくる。

「夏がいないんだ。家の中にも、近くにもいない」
「なんだと……。もう夜だ。魔物が活発に動き始める時間帯だ。この辺は山ばっかだから、奴らがわんさかいるだろうよ。早く見つけねえとやべえぞ。――賢太郎」

 岩泉が虚空に声を投げかけると、まるで影が浮き出たかのように彼の召喚獣が現れる。

「大地は俺とこっちを探そう。賢太郎、お前はそっちを頼む。夏がいたらすぐに呼べ」
『うっす』

 低い声が返事をして、巨大なドラゴンは夜の闇の中に消えていった。

「走るぞ!」
「ああ!」

 そうして大地たちもまた、賢太郎の行ったほうとは逆の方角へ走り出す。この村で一人生き残った少女を見つけるために。

(どうか無事でいてくれ……)


 ◆◆◆


 台所で包丁を手に取った瞬間、夏は死んでしまった母親のことを思い出した。必死に記憶の奥にしまい込もうとしていた優しいお母さんの顔が、声が、ふいに蘇って寂しさに駆られる。
 思い出したのは母親のことだけではない。厳しいけれど温かかったお父さん、そして、背は低いけれど頼りになったお兄ちゃん。みんなもうこの世にいないのだと、静かになった家に改めて事実を突き付けられたような気がして、夏は堪らず外に飛び出していた。
 大好きだった家族たちに会うことは、もう叶わない。夏は一人だ。あの温かくて安心できる場所はもう、どこにもない。
 走りながら、涙が零れる。胸がギュッと握り締められたように苦しくて、それでも走ることはやめずに森の中を彷徨った。しかし動き続けていた夏の足も、急に耳に入った草木のざわめく音によって静止を余儀なくされる。
 その音は風によってもたらされたものではなく、明らかに何かが草むらの中で身動きをしたときのものだ。それに気づいて夏は恐怖した。

(そうだ、もう夜だから、魔物の時間……)

 どうかあたしに気づかないで。そんなささやかな願いが天に届くこともなく、ついに草むらから一匹の魔物がひょこっと姿を現した。それは一見して猿のようだが、奇妙に発達した牙と鋭利な鉤爪が、そうではないことを如実に表している。
 逃げなければ。そう思うのに、夏の足は恐怖に竦んで動かなかった。逆に魔物の足は力強く地面を蹴り、こちらに向かって駆けてくる。剥き出しの牙が、月光を受けて不気味に煌めいた。

(助けて、お兄ちゃんっ!)

 鋭利な爪がすぐ目の前まで迫って来ていた。身動き一つとれず、悲鳴を上げることさえもできず、予想される痛みに夏は固く目を閉じた。







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