十一章 家族


 もう駄目だ。夏は死を覚悟した。その瞬間、何かが砕けるような鈍い音が耳に突き刺さり、ついでぼとりと何かが地面に落ちる音がする。
 おそるおそる目を開けると、眼前に迫っていたはずの魔物の姿は消えていた。あったのは静かな夜の森の風景と、そこに佇む一人の青年の後姿だった。

(お兄ちゃん……?)

 夏の目には一瞬だけ、それが死んでしまった兄に見えた。しかし兄よりも高い背丈と、兄のものとは違う髪の毛の色――夜の闇に紛れそうな漆黒の髪を認識して、別の人物の名前を記憶の中から引き上げる。

「大地くん!」


 ◆◆◆


 名前を呼んだ少女を振り返り、大地は安心させるように笑った。

「大丈夫? 怪我はない?」

 うん、と夏は頷いた。とりあえず無事であったことに大地はホッと胸を撫で下ろし、同じように安堵したような顔になった彼女の元に駆け寄る。

「大地くん、後ろっ!」

 夏の声が鋭く警告したのはその瞬間だった。大地は慌てて身を翻し、背後からいまにも飛びかかろうとしていた魔物をサマーソルトで弾き飛ばす。それで終わりではない。向こうの草むらから、同じ猿のような姿の魔物がわらわらと飛び出してきて、皆一様にこちらに向かって駆けてくる。

「夏は隠れてるんだ!」
「うん!」

 そそくさと木陰に隠れる夏の姿を認めると、大地は自ら迫り来る魔物との間合いを詰める。
 一匹、二匹……五匹までは簡単に散った。しかし敵もなかなか素早いようで、攻めても攻めても上手く回避され、六匹目以降はなかなか仕留められない。
 そんな大地を嘲笑うかのように、一匹が飛びかかってくる。ここは回し蹴りで対抗しよう。そう思って足を振り上げたが、別の一匹が大地の攻撃の内側に回り込んできて、無防備になった腕に噛み付いてきた。

「いたっ……!」

 不気味な形に発達した牙が肉に喰い込んできて、大地の全身を電流のような衝撃が駆け巡る。慌てて腕を振り回すが、噛み付いてきた魔物はなかなか離れない。

「痛いっつってんだろ!」

 大地は魔物の頭を渾身の力で殴った。するとまるで魂が抜けていくかのようにしがみつく力が弱くなり、ようやく大地の腕から離れて地面に転がった。しかし落ち着く暇などない。大地の事情など知る由もなく、次の一匹が迫って来ていた。
 大地は高く跳躍した。魔物も同時に跳躍したが、すれ違いざまに蹴り落すことに成功した。そのまま別の一匹の上に着地して、更に近くにいた一匹を回し蹴りで吹っ飛ばす。
 この猿たちを相手にするのは楽じゃない。以前もこうして戦闘になったことはあるけれど、そのとき相手にしたのは人間だった。動きの鈍い人間をダウンさせるのは造作もなかったが、この猿たちは素早い上に少し賢い。一匹仕留めるのにも少しばかり骨が折れる。
 だからといってここで仕事を放棄するわけにはいかなかった。いまは自分の命だけではなく、夏の命も懸っている。守るべきものがある以上、手足を止めることなど赦されない。
 左右からの奇襲。大地は心を乱すことなく、垂直に跳ぶ。そのまま回転して敵を同時に蹴り落とした。
 着実に仕事をこなしていくけれど、敵の襲撃は収まるところを知らない。二十四匹目を倒したところでさすがの大地も息を切らした。

(くそっ……きりがない)

 ここは魔物の住む森だ。どんなに大地が倒しても、きっと代わりはいくらでもいるだろう。このままでは自分のほうが倒れてしまう。気力だけではどうにもできない事態に陥っているのだと、気づきたくない現実に気づかされる。

「――大地、避けろっ!」

 その声は、文字どおり空から降ってきた。それを認識すると同時に、夜空から強烈な光が迫ってきているのを大地は視線の端で捉える。本能的に駆け出した大地は木陰に飛び込み、そこに隠れていた夏を守るように抱きしめた。
 刹那――世界が発光した。凄まじい衝撃と突風が光とともに辺りを飲み込み、隠れていた大地たちもその余波を受けて思わず悲鳴を上げる。
 それが何分続いたかはわからない。長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。
再び目を開いた大地は、辺りの光景に驚愕した。さっきまで魔物たちと戦闘していた場所には、小さな隕石でも落下したかのような穴が開いている。その周りの木々は黒く焼け焦げ、さっきまで馬鹿騒ぎをしていた魔物たちの姿は消え去っていたのだ。

「二人とも無事か?」

 もう一度、声が空から降ってくる。見上げると、賢太郎と彼に乗った岩泉が地面に降りてくるところだった。

「もしかして、今のは賢太郎の?」
「ああ。あんなの一匹一匹倒してたんじゃあきりがねえだろ。まとめて片づけさせた。夏も無事か?」

 大地は腕の中の少女を解放してやる。その途端に、夏は「ごめんなさい」と二人に向かって頭を下げた。

「あたしのせいで大地くんにも召喚士さまにも迷惑かけて……本当にごめんなさい」
「夜の森は危険だってお前も知ってるだろ? なんでこんな時間に一人で入ったんだ?」
「……あの家にいたら、お母さんたちのこと思い出して寂しくなったの。もう泣きたくなかったから、それで飛び出して……」

 夏の声は途中で震えて、堪えることができなくなったようにシクシクと泣き始める。そんな彼女の様子に大地は胸が痛んだ。家族を亡くしてずっと辛かったはずなのに、大地たちの前では明るく振る舞って、その裏でやはりずっと悲しみを我慢していたのだ。強くてもやはり夏は少女で、その強さは決してずっと続くものではない。

「泣きたいときは泣いていいんだよ。俺や一の前で我慢する必要なんかない。俺たちは夏よりもずっと大人で強いんだから、甘えていいんだよ」

 大地は泣きじゃくる夏の頭を優しく撫でた。亡くなった家族の代わりになることはできないけれど、少しでもこの少女の悲しみを薄れさせることのできるような存在になれたらいいなと、柔らかい髪の毛を手のひらに感じながら思っていた。



 夏の家に帰ってから大地はもう一度風呂に入り、泥まみれになってしまった服を新しいものに着替えてから、夏と二人で料理に挑んだ。料理は修行中と言っていた夏だが、同じく修行中の大地よりも腕はよくて、手際よく材料を切ったり焼いたりしていた。大地はもっぱら材料を洗ったり皿を準備したりする係に専念することとなり、まあそれでも少しは役に立っていたのではないだろうかと、内心で自分をフォローする。
 出来上がった料理を三人で食べてから、少し早いが就寝の準備をすることにした。夏もウトウトしていたし、大地自身も今日はいろいろあって疲れていた。
 部屋は男女で別れた。これは夏の提案で、「年頃の女子は男子と一緒に寝たりしないの!」とのことらしい。家族を亡くした寂しさから家を飛び出したり、泣いていたりしたから一人にするのは心配だったが、そう言われては大地たちも反論できなかった。

「なあ、夏はこれからどうするんだ?」

 夏の隣の部屋に布団を各々で敷きながら、大地は岩泉に訊ねた。

「家族だけじゃなくて村の人もいなくなっちゃったし、誰が面倒を見るんだ? さすがに一人でここに置いていくわけにはいかないだろう?」
「それなら当てがある。こっから二十キロくらい離れたところに北莉って町があるんだが、そこに夏の親戚がいるらしい。家族同士仲がよかったみてえだし、そこまで連れて行けばたぶん引き取ってもらえるだろうよ」
「そっか。ならとりあえずは安心だな」

 もしも身寄りがないなら、一緒に聖彼王国に連れて行こうと岩泉に提言するつもりだったし、大地が言わなくても岩泉なら同じことを提言してくれただろう。けれど親戚がいるのならそちらに身を寄せるほうが夏にとっても気が楽だろうし、大地たちも安心だ。

「でもやっぱり、本当の家族がいないのは寂しいだろうな。親戚の家でまたいろいろ我慢したりしなきゃいいけど……」
「それはもう俺らが心配するようなことじゃねえよ。あいつだって大人になっていくんだ。たぶんいまより強くて、根性のある女になるだろうよ。つーか、寂しいって言えば大地だってそうじゃねえのか? お前も家族に会えねえ状態だろ?」
「まあそうなんだけど、夏を前にして寂しいなんて言ってられないよ。それにいまは、こっちの世界に来たばっかの頃に比べたら寂しくないかな。いろいろありすぎて、寂しくなってるような暇なんてないし。もちろん父さんや母さんに早く会いたいとは思うけどさ」
「なんだ。寂しいなら俺が添い寝してやろうと思ってたのに、残念だな。まあ寂しくなくても添い寝していいんだぜ?」
「な、何言ってるんだよっ。俺は大丈夫だ」

 と言いながらもその誘いに少しだけ魅力を感じたのは内緒である。岩泉はいい男だ。正直好みの顔をしているし、風呂場で裸を見たときも人知れず興奮したが、欲求に踊らされる前に海の顔が浮かんだ。
 この世界に来て、危険な目にも遭った。海のほうは大丈夫だろうかと心配になる。聖彼で再会できるかどうかはわからないが、それでもいまの大地にはその可能性に賭けるしかない。
 海のことを考えているうちに、微睡が疲れた身体に充満してくる。大地はそれに身を委ね、深い眠りに落ちていくのだった。







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