十二章 少女との別れ


 窓から差し込む陽の光に導かれて、大地はゆっくりと目を覚ました。ぼやけた視界が徐々に輪郭をはっきりとさせていき、意識も覚醒して目に映る景色をしっかりと捉える。
 最初に目に飛び込んできたのは、岩泉の寝顔だった。いい男は寝ていてもいい男なんだなと、変な感心をしながらその頬を軽く指で突く。思ったよりも柔らかくて触り心地がよかった。

「……いや、なんで一緒の布団で寝てるんだよっ」

 今更ながら岩泉との距離が近すぎることに気がついて、大地は慌てて布団を出た。改めて見直すが、そこは間違いなく大地の寝床であり、岩泉のほうが侵入してきたのだと状況を悟る。まったく油断も隙もない。
 久しぶりに布団でゆっくり寝られたおかげか、昨日までに比べると身体の疲労感が段違いに薄らいでいる。やはり人間はちゃんと布団で寝ないといけないんだなと思いながら、顔を洗おうと洗面所に向かう。その途中で台所に立つ夏を見つけた。

「おはよう、夏」

 声をかけると、夏はこちらを振り返って笑った。

「大地くんおはよう! いまみんなの朝御飯作ってるの」
「そうなのか? じゃあ俺も顔を洗ったら手伝うよ」
「あたし一人で大丈夫だよ。朝御飯は作り慣れてるから。大地くんと召喚士さまはゆっくりしてて」
「ホントに大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」

 ここはあたしの縄張りよ、とでも言いたげな雰囲気に圧されて、大地はそそくさと本来の目的地だった洗面所に向かう。蛇口を捻ると冷たい水が出てきて、夏の蒸し暑い朝には心地よかった。

「あれ……?」

 顔を洗っている最中に、自分の腕を見て大地はある異変に気がついて首を傾げる。

「怪我が治ってる……」

 昨夜の魔物との戦闘中、大地は腕を噛まれた。しかも鋭い牙は結構深く食い込んでいたはずなのに、その怪我がどこにも見当たらない。一晩で治るようなものではないはずなのに。
 何度も怪我をしたはずの腕を眺めたり、反対の腕も確認してみたりしたけれど、やはりそれらしい怪我は見つからなかった。しかし、そういうこともあるんだろうなと大地は深く考えることをせず、濡れた顔をタオルで拭いた。
 インターホンの音がしたのは、大地がちょうど洗面所から出た直後のことだ。台所の夏にも音は聞こえたらしく、ドアから顔を出して玄関のほうを見ている。

「夏、誰だかわかるか?」

 大地が聞くと、夏は首を横に振った。

「わかんない。郵便屋さんにしては、まだ時間が早いし」
「そっか。よし、俺が出るから夏はここで待ってて」

 ひょっとしたら空き巣か何かかもしれない。警戒をしておくに越したことはないだろうと、大地は足音を消して玄関のドアに歩み寄る。

『誰もいないのかい!? 翔ちゃん! なっちゃん!』

 土間に降りかけたとき、ドアの向こうから女性の声が聞こえた。なっちゃんとはたぶん夏のことだ。すぐに気づいて夏を振り返れば、彼女は驚きと嬉しさをない交ぜにしたような顔で声を上げた。

「おばちゃん!」

 夏は玄関まで駆けてきて、躊躇う様子もなくドアの鍵を開ける。開いたドアの向こうには、三十代後半から四十代前半くらいの年齢と思われる女性が立っていた。夏は嬉しそうに彼女の胸に飛び込んだ。

「なっちゃん! いったい何があったんだい!? ひょっとして火事!? お父さんやお母さんは無事なのかい!?」

 どうやら夏の身内だったようだ。矢継ぎ早に夏に質問しているが、当の夏は安堵のためか泣きじゃくっていて答えられる状態にない。そんな中、女性の目がついに家の中に控えていた大地を見つけた。

「あんた、誰だい?」



 突然の来訪者は夏の伯母だったらしく、それは昨日岩泉が言っていた北莉に住む夏の親戚と同一人物だった。彼女は昨夜、人づてにこの村で何かあったらしいことを聞いたらしく、心配して訪ねてきたそうだ。
 自己紹介が終わったところで、ちょうど目を覚ましたらしい岩泉が居間にやって来て、彼にこの村で起こった出来事を説明してもらった。夏の伯母は自分の妹とその家族が亡くなったことを悲しみ、しばらく涙を流していた。夏も寂しさがぶり返したのか、一緒になって泣いていた。
 それが落ち着いてから、伯母は大地たちがつくった簡易的な墓の前で手を合わせて、夏を引き取ることを大地たちに告げた。
 今日中に北莉に引っ越すという夏に合わせて、大地たちも再び旅に出るために身支度を整える。着るものは夏が父親のものを何着か貸してくれた。兄のものもあったが、大地も岩泉もサイズが小さくて着られなかった。
 大地たちも夏のほうも、昼過ぎには準備が整って家を出る。別れのときが来た。夏とはたった一日の邂逅だったけれど、それでもこの別れを寂しく感じていた。

「夏、元気でな。ひょっとしたらもう会えないかもしれないけど、夏のことは絶対に忘れない」
「あたしも大地くんのこと忘れないよ。いっぱい迷惑かけちゃったけど、でも大地くんと召喚士さまが来てくれてよかった。聖彼まで気をつけてね」
「うん」

 賢太郎の背に乗ると、瞬く間に晴天の大空へと舞い上がっていく。地上を見下ろすと、夏が大きく手を振っているのが見えた。大地もそれに手を大きく振って答える。
 岩泉の言っていたように、夏はきっと根性のある大人になるだろう。それでいてまっすぐで、人の痛みがわかって、優しい女性になるに違いない。そうであってほしいと大地は心から願った。



 村を発って間もなく、大地たちは“黒海”と呼ばれる大海に差しかかっていた。
 黒海は先ほどまでいた大陸と、聖彼王国のある大陸との間に跨る海で、この世界で最も広大な海だという。大地はその海を見下ろしながらしばらく呆然としていた。別に飛翔している高さに驚いたわけではない。眼下に広がる海があまりにも異様だったからだ。
 黒海はその名のとおり、墨汁のように濃い黒色をしていた。まるで夜空がそこに広がっているかのような、あるいは大きな穴でも開いているかのような景観に、大地は不気味ささえ感じる。てっきり水自体に色が付いているのかと思ったが、岸に打ち寄せる波は恐ろしいほど澄んでいた。

「海が尋常じゃねえくらい深いんだ」

 耳元でそう教えてくれたのは、大地の後ろでドラゴンを操っていた岩泉だった。

「こんな色してのは黒海くらいなもんだよ。普通はどこも青い。大地の世界の海はどうだったんだ?」
「俺のとこもだいたい青だったよ。だからすごく不気味に見える」
「だよな。俺も未だに慣れねえわ」

 ずっと眺めていると、吸い込まれそうな気がする。これに似た景色をどこかで見たことある気がして記憶を掘り返していたら、この世界に来るきっかけとなった、備品室のどこまでも暗い穴に行き当たった。
“次元の狭間”――若利はあれをそう呼んでいた。別々に存在する世界を局所的に繋げる古代魔法の一つ。
 この世界に来るまで、大地は自分たちの住む世界とは違う世界が存在するなんて考えもしなかった。けれど逆にこの世界の住人――若利や岩泉はもちろんのこと、村娘の夏までもが、大地たちの世界の存在を知っているようだった。
 なぜあちらは知らなくて、こちらは一方的に知っているのだろう? 疑問に思って岩泉に問えば、答えはすぐに返ってきた。

「まず、こっちに次元の狭間を使えるやつがいるってことがポイントだな。そいつらが実際にあっちに渡って、あっちの情報を持ち帰って来たんだ」
「でもそれなら、あっちに渡った人間がこっちの情報をあっちに渡したりもするんじゃないのか?」
「それなんだが、どうもあっちに渡ることはできても、こっちでの記憶は渡った瞬間に曖昧になっちまうらしい。それでも本能的にあっちで次元の狭間を発動させて、こっちに戻って来るんだ。そのときはあっちでの記憶をちゃんと持ってるらしい。それと次元の狭間を使うと、どうやら使った本人が望んでない場所にも狭間が出現して、それにあっちの世界の人間が巻き込まれたりする。そういうやつって大地以外にもいままで結構な数いて、そいつらがまたあっちの情報をこっちにもたらしたってわけだ」

 確かにそれならこちらの世界の人間だけが、あちらの世界の情報を持つことが可能だ。

「ちなみにこっちの人間は、あっちの世界のことを“イクシオン”って呼んでる」
「じゃあ、自分たちの世界のことはなんて呼んでるんだ?」
「“ハルモニア”――それがこの世界の名前だ」







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