終章 急襲


 辺りが薄暗くなってきた。それは決して夜が近づいてきたからではない。まるで闇が世界を飲み込んでいくかのように、黒くて厚い雲が空に広がってきている。
 間もなくして、滝のような大雨が降り始めた。大地たちに雨具の用意はなく、冷たくて少し痛ささえ感じる雨に容赦なく打たれてしまう。下着までびしょ濡れになってしまうまでさほど時間はかからなかった。

「ひどいな、これ」

 呟いた声は激しい雨に溶けていく。すぐ後ろにいるはずの岩泉の声も、張らないと大地に耳に届かないほどの強い雨だ。
 厄介なことに風まで吹いてきた。これもまたかなり激しく、雨が飛沫いて濃い霧のようになっている。視界はあっという間に閉ざされた。

「賢太郎、大丈夫か?」

 岩泉が声をかけると、大地たちを乗せた黒竜は頷くような仕草をした。

「一回どっかの島に上陸しろ。このままじゃお前もやべえだろ?」
『別に平気っすけど……』
「嘘つけ。安定感なくなってきてるじゃねえか。いいからどっか降りろよ。どこに島があるかお前ならわかるだろ?」
『……うっす』

 賢太郎が少しずつ降下を始める。この真っ白な世界でよくも島の位置がわかるものだ。見えるのは霧の壁ばかりで、下にあるはずの海は薄っすらとも見えない。天も地も大地の目には区別がつかないほどだ。
 しばらくして黒海の不気味な色が辛うじて見えてくる。ただ大穴が開いているように錯覚するせいで、海面との距離が近いのか遠いのかはイマイチわからない。

 ――大地が何か禍々しいような気配を感じ取ったのは、そのときだった。

 気づいたのは大地だけではない。後ろにいた岩泉も、そして大地たちを乗せた賢太郎もまた、同時に同じ方角に顔を向けた。
 あちらから何かが来る。それも自分たちにとってよくないものが。本能的に畏怖のようなものを感じて大地は思わず身体を震わせた。その背中を岩泉が安心させるように撫でてくれる。

「賢太郎、全速力で離脱しろ」

 岩泉の命令を受けて、賢太郎が滑空する速度を上げる。

「いったい何が来るんだ?」
「銀竜だ」
「銀竜って……あの、夏たちの村を襲った!? ってことは及川が!?」
「ああ、そのとおりだ。どうやら近くにいるらしい。本当なら偶然出会えたことを祝してぶっ叩きたいところだが、いまは賢太郎も弱ってるし、俺も万全じゃねえ。だから全力で逃げるぞ」

 視界が悪いせいで及川と銀竜の正確な位置はわからない。けれど身震いするような禍々しい気配はかなり近くから感じる。

「――久しぶりだね、岩ちゃん」

 その声は、唐突に辺りに響き渡った。男の声だがどちらかというと高いほうで、さらっと耳触りの良い柔らかさを持っている。声の主を探そうと大地が辺りを見回したとき、それは斜め上からぬっと浮き出るようにして出現した。
 目の前に現れたその生き物の姿かたちに、大地は思わず見惚れていた。大きな翼にたくましい躰。短い脚と鉤爪のついた太い腕、そして長い首の先には恐竜のような顔がある。これは賢太郎と同じ特徴の数々だが、その色はこの悪天候の中でも輝く銀色で、あまりの優美さに感嘆の溜息さえ零しそうだった。
 そしてその背に乗る青年もまた、美男子と呼ぶにふさわしい顔の持ち主だった。適度に中性的な要素を兼ね備えた顔立ちで、目鼻立ちははっきりしており、けれどしつこすぎない程度に収まっている。薄茶色の髪の毛はふわっとボリュームを持たせており、この雨の中でも軽そうに見える。美しい顔によく似合っていた。

(こいつが及川……)

 世界を滅そうと企み、宝玉を奪うために夏の家族や村人たちを殺した極悪人。しかし大地の目には、とても彼がそんな大罪を犯す人間には見えなかった。軽薄な雰囲気はあるけれど、優しくて穏やかな人格を想像させるような顔をしている。

「あれ? 一緒に乗ってるのはひょっとして岩ちゃんの彼氏かな?」

 揶揄するような声が訊ねてくる。

「ああ、まあそんなとこだ」
「えっ!?」

 事実とは異なる答えを返した岩泉を思わず振り返るが、彼の目は大地を見てはいなかった。敵意の宿った鋭い眼差しが、及川のほうに真っ直ぐ向けられている。

「やっぱりそうなんだ? 岩ちゃんって昔からそういう硬派な子が好きだよね〜。岩ちゃん自体もなかなかの硬派だけどさ」
「俺のことはどうだっていいだろ。それよりてめえ、“輝蒼石きそうせき”を盗んだな。それだけじゃねえ。盗むために村人を殺しやがって……」
「ああ、うん。そういえばそんなことしたっけな? あれはね、必要な犠牲だったんだよ。俺の目的を達成するためのね」
「てめえのくだらねえ目的なんぞ、クソっくらえだ。村のやつらの命はあいつら自身のもんであって、てめえが好き勝手に奪っていいもんじゃねえんだよ。必要な犠牲なんてもんは、人の命の中に存在しねえ。てめえが決めることでもねえんだよ、クソ川」
「あんなちっぽけな命にどんな価値があるって言うんだい? 彼らが死んだところで世界は何も変わらないじゃないか?」
「確かに世界は変わらねえよ。けど村人が死んで悲しむやつはいる。まだ小せえのに、家族を亡くして一人になっちまったやつがいるんだよ。そいつにとっちゃあ世界が変わったも同然だ。だからてめえが奪っていい命なんかどこにもねえんだよっ」
「あっそ。そんなの俺にとってはどうでもいいし」

 及川の自分勝手な言葉の数々に、大地はふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた。家族を亡くして泣いていた夏。一人になってしまった彼女を知っているだけに、及川の言葉は赦し難かった。そうしてその怒りの中で、冷静な部分が目の前に優男をこう判断する。

(こいつは……及川は俺たちだけの敵じゃない。世界の敵だ)

 こいつが生きていれば、きっとあの村で起きたような不幸がまたどこかで起きてしまう。だから倒ささなければ……けれど大地には彼を倒す術がなかった。空中では得意の肉弾戦も使えないし、そもそもただの人間である大地が通用するような相手にはとても思えなかった。優男のようでも、世界を滅ぼしたがっているようには見えなくても、この禍々しく黒々とした気配は、どう足掻いても敵う相手ではないことを如実に表していた。

「それよりもさ、岩ちゃん」

 及川の目が、どこか鋭さを灯したような気がした。

「君のバッグに入ってるそれ、渡してくれないかな?」
「……なんのことだよ?」

 岩泉の上擦ったような声が訊き返す。

「やだなー。とぼけるなんて岩ちゃんらしくないよ? その中に“聖白石せいはくせき”が入ってるの、知ってるんだからね。魔物の森から持ち出したでしょう? あれを簡単に持ち出せるのは召喚士しかいない。つまり、俺じゃなければ君ってこと――」

 及川の言及は半ばで中断を余儀なくされた。なぜなら彼の周りに突如として魔法陣が浮かび上がったからだ。次の瞬間、稲妻のような光が空を横に走り、及川の乗る銀竜を貫いた。

「逃げるぞ賢太郎!」

 そして彼らが怯んだ隙に、大地たちを乗せた賢太郎は戦闘範囲を離脱する。爆発的な加速は強烈な重力を伴い、大地は思わずハーネスを手放しそうになった。その手の上から岩泉の手が重なって、背中を彼の身体に支えられる。

「大丈夫だ。俺がお前を絶対に守る」

 力強い言葉だったが、いまはそれだけで安心できるような状況ではない。きっと及川たちはすぐに追いかけてくる。追いつかれたらきっと大変なことになるだろう。
 雨はまるで空の放浪者たちを迫害するかのような激しさを保ったままだ。けれどそのおかげで及川の視界からは離脱できたらしく、こちらからはもう彼らの姿を確認できない。

「島を見つけたらそこに隠れるぞ。態勢を整えてから再戦だ。そうなったら大地、お前は島で待っててくれ。俺らと一緒に戦うのは危険だ」
「けど、一は……」
「あいつと渡り合えるのなんて、たぶんこの世界じゃ俺くらいなもんだ。だから俺に任せとけ」

 岩泉と及川、どちらの戦闘能力もいかほどのものなのか大地は知らない。けれどきっとどちらも強くて、それは自分ごときが介入できるような簡単な戦いではないのだろう。いまの大地には見守ることしかできない。

「絶対に死ぬなよ。お前が死んだら、俺は泣くぞ」
「へえ、俺のために泣いてくれんのか? まだたった二日の付き合いだっつーのに」

 言われてみればそうだった。けれど二人で分かち合ったものはあまりにも大きく、それを通じて大地の中では岩泉の存在はかけがえのないものの一つになっていた。

「知り合ってからの日数なんて関係ないよ。俺は一のことを失いたくない。俺にとって一は聖彼王国まで連れて行ってくれる人じゃなくて、大事な人の一人だ」

 想いを素直に口にした瞬間に、大地は岩泉に強く抱きしめられた。

「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。こりゃあ意地でもあいつを倒さねえとな」
「無茶はしないでくれよ」

 大地は振り向いて、岩泉がどんな顔をしようとしているのか見ようとした。けれど彼の表情を確認するより先に、彼の背後に迫る強烈な光が視界に入った。

「一っ――!!」

 大地が警告するよりも、その光が大地たちの元に到達するほうが速かった。眩いばかりの輝きの包まれた刹那、凄まじい衝撃と耐え難いほどの熱が大地たちを襲った。
 身体がばらばらになる。骨まで焼ける。生まれて初めて味わうその感覚に、大地は声を上げることもできずただ苦しんだ。いっそ意識がなくなってしまえば楽なのに、気を失うこともできないまま灼熱に焼かれ続ける。
 そんな中で、抱きしめてくれていたはずの存在が背中から離れてしまうのを、大地はわずかに感じ取った。




続く……




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