冷たい雨が大地の全身に容赦なく打ちつける。
 そういえば、この世界で初めて目を覚ましたときも同じように雨が降っていた。そしてまたあのときと同じように大地はいま森の中に転がっており、一瞬過去にタイムスリップしたのかと錯覚してしまいそうになる。
 見上げた空はどんよりとした灰色だ。雨粒が目の中に入るのも構わずそれを眺めていると、向こうのほうから足音が聞こえた。人の足音だ。助けを求めようと喉の奥から声を絞り出そうとしたが、力が入らなくて息が零れるだけに留まった。しかし、その足音は駆けるそれに変わって大地のほうに急速に近づいてくる。幸いにもあちらのほうが大地に気づいてくれたようだ。

「おい、大丈夫か!?」

 空を眺めていた大地の目に、一人の青年の顔が映る。坊主に近い短髪に、男らしいがどこか幼さの残る顔立ちが心配そうに大地を見下ろした。

「どっか痛いのか? 自分で動けるか?」

 痛いところはないが、それでも思うように身体が動かせない。大地はなんとか首を横に振ってそれを伝えた。

「わかった。すぐそこに俺んちがあるから、そこまで運んでやる。いいか?」

 今度は頷いて答えた。すると青年の腕が大地の背中に差し込まれ、優しく抱き起される。そのまま大地の腕を引っ張って上手いこと背中に背負い、森の中をゆっくりと歩き出した。
 決して広い背中ではない。けれどそれはとても温かくて、雨に打たれて冷え切った大地の身体にはとても心地よく感じられた。



 風の音色 (Harmonia 第二部)


一章 バレー青年との出逢い


 青年の背負われて小さな家に辿り着いたのは辛うじて覚えているが、そのあとの記憶は曖昧だ。何度か目を覚まして何かを見たような気もするが、それが何だったかは思い出せない。
 深い眠りと浅い眠りを交互に繰り返し、ようやく目覚めると大地は狭い部屋の中にいて、ベッドの上に横になっていた。
 ぼんやりと部屋の風景を眺める。ずいぶんとシンプルな部屋で、家具らしい家具といえばベッドとそのそばの年期の入ったような箪笥しかない。大きな窓が一つあるが、カーテンが閉じられていて外の景色はわからなかった。
 今度はゆっくりと身体を起こしてみる。森の中に倒れていたときは頷く動作さえ辛かったが、眠ったおかげかもう平気になっていた。声も出せそうな気がして試してみると、こちらも同様に問題なかった。

「――うわ、びびった」

 ドアが開いたかと思うと、驚いたような声が大地の耳に届いた。見れば記憶に新しい青年の姿がそこにあり、彼は驚いた顔を優しい微笑みに変えてベッドに歩み寄って来る。

「目、覚めたんだな。よかった。熱は下がったか?」

 青年の手が大地の額に触れてくる。冷たくて気持ちいい。

「まだちょっとあるなー。気分はどうだ? どっか痛いところはあるか?」
「……大丈夫。その、水があればもらえないかな? 喉がカラカラで……」
「よしわかった。すぐ持ってくるから待ってろよ」

 部屋を出て行った青年は、三十秒ほどでコップ一杯の水を手に戻って来た。

「ほら、どうぞ」
「ありがとう」

 コップを受け取って、大地はそれを一気に呷った。水分が抜けて乾いていた身体に、冷たい水がじんわりと染み渡る。けれど一杯だけでは足りなくて、青年に頼んでもう一杯持って来てもらった。

「はあ……」

 二杯目を飲み干してから、大地は安堵の息にも似たそれを漏らした。

「本当にありがとう。水だけじゃなくて、ここに運んできてくれたことも」
「よかった、ちゃんと覚えてるんだな。あのときはいまにも死にそうな顔してたから、意識も怪しいもんだと思ってたぜ」
「ここに着いてからのことは全然覚えてないよ。俺はどれくらい寝てたんだ?」
「え〜と、丸二日だな。病院に連れて行こうかとも思ったけど、寝息は安定してたし怪我とかもなさそうだったから、そのまま寝かしておいた。ただ熱があったな。時々水飲ませてたから、脱水にはならなかったけど」
「本当に何から何までありがとう」

 どういたしまして、と青年は笑う。笑うと幼さが少し増して、少し可愛いな、なんて大地は思った。

「俺は中島猛っていうんだ。そっちは?」
「澤村大地」
「大地かー。男らしくてカッコいい名前だな」
「それなら猛のほうがずっと男らしいと思うけど。いいなあ、猛。大地ってなんか普通っぽくて微妙なんだよな……」
「そうか? 俺は大地っていうと、勇ましくて頼れる兄貴分な感じするけどな。お前はまさにそんな雰囲気じゃん? カッコいいと思うぜ」
「そ、そうかな? なんかありがとう」

 あまりそういう褒められ方をされたことがない大地は、猛の言葉に素直に照れてしまう。

「猛は何歳なんだ?」

 少なくとも自分より上には見えないが、かと言ってそんなに離れているようにも見えない。

「来月で十八になるよ。大地は何歳?」
「俺も五ヵ月後に十八になるから、同い年だな」
「そうだったのか。あんま離れてはないだろうと思ってたけど、まさか同い年とはな〜。そういえば大地はなんで森の中に倒れてたんだ? ひょっとして魔物にでも襲われたのか?」
「あ、いや……たぶん空から落ちたんだと思う」
「空から落ちた!?」

 猛は素っ頓狂な声を上げた。

「どういうことだ!? 飛空艇から落ちたとか、そういうことなのか!?」
「あ、いや、そうじゃない。賢太郎……ドラゴンの背中から落ちたんだ。他のドラゴンに襲われて……」
「ドラゴンって……ひょっとして大地は召喚士なのか!?」
「違う、違う。召喚士の人に連れられて聖彼せいか王国に向かってたところだったんだよ。そうだ、その召喚士の人もきっとひどい怪我をしているはずなんだけど、何か知らないか?」
「いや、そういう話は聞いたことない。つーか、召喚士と知り合いってどういうことなんだ? 大地はいったい何者?」
「えっと……確かこっちの人はイクシオンって呼んでるんだっけ? 俺はそこから来たんだ」
「次元の狭間に巻き込まれたのか!? そりゃ、大変だったな」
「大変だったけど、さっき言った召喚士の人とかいろんな人が助けてくれたから、大丈夫だったよ」

 岩泉の顔を思い浮かべたあとに、この世界で初めて出逢った人――正確には召喚獣だが――牛島若利の姿が思い起こされる。別れてからまだそれほど日数は経っていないはずだが、牛島との旅がずいぶんと昔のことのように感じる。
 大地はこれまでの経緯を猛に包み隠さずすべて話した。岩泉が聖彼王国の大使であることも話したが、猛は彼のことを知らないらしい。大地だって元の世界の、自国以外の大使の名前なんて全然知らないし、そんなものなのかもしれない。
 猛の話によると、ここは虎宇都島とらうどとう――黒海に浮かぶ島の一つで、魔物の森や夏のいた村と同じ、桜府おうふ王国に属するらしい。虎宇都島周辺の海域は潮の流れが複雑で、船ではある程度の距離までしか行けないらしく、島外への渡航手段は飛空艇しかないそうだ。つまり聖彼王国に渡るのにも飛空艇を使う他に方法がないということになる。

「金貸して聖彼に行かせてやりたいのは山々だけど、飛空艇って結構高いんだよな。それに見てのとおり俺は貧乏だし、パッと出してやれそうにないんだ。ごめんな」
「いや、いいって! 俺だって借りても返す当てがないから、借りられないよ。それよりも何かバイトを紹介してもらえると助かるよ。できれば短期で給料がもらえるやつ。自分で稼いで、そのお金で聖彼に行くからさ」
「よしわかった。明日、知り合いたちに当たってみるよ。たぶんすぐ見つかると思うぜ。ま、金が貯まるまではここにいろよ。住むとこまで探してたら貯まるもんも貯まらないだろ?」
「それはとてもありがたいんだけど、猛の両親は許してくれるのか?」
「ああ、俺一人暮らしだからそこんとこは心配しなくていいぜ。母さんは小さい頃に亡くしちゃって、父さんは出て行ったきり戻って来ない」
「それは……すごく大変だな」
「こんなの、大地みたいに異世界からいきなり飛ばされてくることに比べればなんてことねえよ。いまはもう一人でも寂しいなんて思わないし、仕事も楽しいからさ」
「そうなんだ。仕事はどんなことを?」
「俺、こう見えてバレー選手なんだ」

 元の世界でも聞いたことのある単語に、大地は思わず身を乗り出した。

「こっちの世界にもバレーってあるのか!?」
「え、ってことはイクシオンにもバレーが!?」

 二人そろって興奮したように声を大きくする。

「あるよ! まったく同じものかどうかはわからないけど、あっちではまあまあ人気のスポーツだよ。俺、実はバレーしてたことあるんだ」
「え、そうなのか!? ポジションはどこだったんだ?」
「一応レフトだよ。猛は?」
「俺もレフト! こんな偶然ってあるんだな! つーかイクシオンにもバレーがあるってことにまずびっくりだよ」
「俺もまさかこっちにバレーがあるなんて思いもしなかったな」

 猛はこの世界のバレーボールのルールについて話してくれた。細かい部分に多少の違いはあったものの、ほとんどは大地の世界のバレーボールと同じだった。

「そうだ、明日練習あるから見に来いよ! さっきのバイトのこともチームメイトに訊いてみるからさ。つーか一緒にバレーやってみようぜ!」
「やりたいけど、部外者がポンと入っていいもんなのか? それに俺シューズ持ってないし……」
「練習前にちょこっとやるだけだよ。シューズは体育館でレンタルしてるから大丈夫」
「そっか、ならやってみようかな。久々だから絶対鈍ってると思うけど」

 熱はまだあるようだけど、この分だときっと明日までには治っているだろう。他に身体に異常はないようだし、むしろいまは身体を動かしたい。何より大地は、目の前の猛がどんなバレーをするのか非常に興味があった。







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