二章 果てない世界


 大地が目を覚ましたときにはすでに夕刻を迎えていたらしく、すぐに夜の帳が下り始めた。
 寝室を出るとそこはLDKになっていて、奥のキッチンでは猛が野菜を切っているところだった。ちゃんとエプロンを着て料理をする姿はなんだか可愛らしくて、スマホがあれば写真を一枚撮りたかった。

「何か手伝おうか?」
「いや、いいって。病み上がりなんだからじっとしてろよ」
「病み上がりって言ったってもうほとんど元気だよ。片づけくらいはやらせてくれよな」
「じゃああとで食器洗いは任せるわ。準備のほうは何も気にしなくていいぜ」

 わかった、と大地は頷いてからソファーに腰かけた。ずいぶんと使い古した感のあるソファーだ。ところどころ布が破れているところもあるし、染みも付いている。

「猛って学校は行ってないのか?」

 猛の年齢だと、大地の元いた世界ではまだ高校生だ。けれどさっき猛は仕事の話しかしなかった。元の世界でも国によって教育制度は異なっていたし、こちらも何か違うのだろうかと疑問に思って訊ねてみた。

「学校は飛び級で卒業したぜ。つっても頭で飛び級したんじゃなくて、俺の場合はバレーの特別飛び級だったけどな」
「特別飛び級?」
「ああ。スポーツとかで優れた選手は早くプロになれるように飛び級させてくれるんだ。俺の場合は運がよかったのもあって、ちょうどこの地区のバレーチームが世代交代で若い選手を探してたんだよ。たまたまそこの監督の目に入って、特別飛び級の対象になったってわけ」
「そうなんだ。本当なら何歳で学校を卒業するんだ?」
「ハイスクールは十八歳だよ。だから本当だったら今年……つーか、来年に卒業だったんだ。そこを二年飛ばしたわけ。大地は元の世界じゃ学生だったのか?」
「ああ。あっちも十八で卒業だから、来年の春には就職するか大学に進学することになる」

 そういえばまだ進路をはっきりと決めていなかったな。大地はそれを思い出して憂鬱になる。
 烏野高校は普通科高校だが、バリバリの進学校というわけではないし、就職のほうにもそれなりに力を入れている。だから余計に迷っていた。一応進学に備えて受験勉強もほどほどにしているけれど、はっきりと決断できていないだけにいまいち身が入っていない。

(まあ、いまここで悩んだって仕方ないけどな……)

 異世界に迷い込んでしまった大地に、元の世界での将来のことを悩む余裕なんてない。いま一番大事なのは一刻も早く聖彼王国に渡ることで、元の世界に帰ることも、この世界に一緒に飛ばされてしまった海を探し出すことも、そこからようやく前に進むのだと信じている。

「そうだ猛。世界地図ってこの家にある?」
「確か地図帳ならそこの棚の中に入ってるぜ。自由に使えよ」
「ありがとう」

 さっそく棚から地図帳を探し出し、楽しみなような、あるいは不安にも似た気持ちになりながらそれを開く。
 最初のページにあったのは世界地図と思われるものだった。元の世界とは大陸の形や配置がまったく違うせいですぐにそれだとはわからなかったが、よく見ると右下に“世界地図”と表記されている。

「えっと、確かいまいるのが虎……なんだっけ?」
虎宇都島とらうどとうな。桜府おうふ王国の炉環那ろわな州、虎宇都島。その地図で見たら真ん中よりちょっと左に行ったところにあるだろ?」
「あ、本当だ」

 世界地図で見ると島の大きさは米粒にも満たないくらい小さいが、名前はちゃんと記されていた。次のページからは各国の詳細地図と紹介文が載っており、大地はそれぞれ確認してみる。
 地図によるとこの世界に国家は六つしか存在しないようだ。それぞれの国の領土が広大で、その中でも最も大きな国が聖彼王国だった。
 聖彼王国はここ桜府王国の北西に位置し、その間には黒海が広がっている。商工業が盛んな国で、特に科学分野においては他国に追随を許さないほどの優れた発明や開発の数々を生み出しているという。

「そういえば、聖彼王国だと俺みたいな異世界人でも国籍をもらえるって聞いたんだけど」
「国籍は桜府でももらえるんだぜ。ただ、桜府は与えるだけ与えてあとは放置だからな。その点、聖彼は仕事が見つかるまでちゃんと援助してくれるんだ。学校に通うのもある程度の授業料の免除があったり、斡旋もしてくれるらしいぜ」
「そこまでしてくれるなんて、夢みたいな国だな」
「その代わり税金はちょっと高いぞ。それでも国民から不満は出てないみたいだけどな。たぶん全体的に所得が高いんだろう」

 聖彼王国の西にあるのが羅馬らま公国。聖彼と同じ大陸にあり、二国の間には海や山などの障害物はないようだった。
 羅馬には鉱山が多く、そこから採れる鉄鉱石などの鉱物を主力として国を成り立たせているという。逆に聖彼には鉱物の採掘場がかなり少ないため、聖彼相手だけでもかなりの儲けを出しているらしい。
 桜府から海を跨いで北東にあるのが、蘭華らんかという他国に比べると比較的小さな国だった。蘭華は農業が盛んで、農地の面積が人の居住区の二十倍ほどもあるという。収穫した農産物は諸外国にも出荷されており、そのことから“世界の畑”とも呼ばれているようだ。
 その蘭華の東、テグラス海峡の向こうにあるのが龍渡りゅうど帝国である。龍渡は衣料品や化粧品、あるいは医療品といった分野に長けている。

「龍渡って女帝なんだな」
「そうそう。これがすんげえスキャンダラスな人でさ〜。不純異性交遊とか不純同性交遊とかとにかく話題に事欠かないんだよ。けど政治には長けてて頭もいいから、批判してるのはごく一部に留まってるらしいけどな」
「まあ、確かに結果がちゃんと出せてるなら国民的には別にいいよな。それに噂は噂だし」
「まあ、そういうことだな。俺もその人のことは嫌いじゃないぜ。結構美人だし」
「そうなんだ」

 龍渡帝国から更に東に行くと、大小様々な島が寄り集まった海域があり、これが來府らいふ公国である。來府にはリゾート地が多く、世界各地から年中観光客が訪れるという。また、広い領海を生かした漁業が盛んで、水産物の出荷量は世界一らしい。
 最後はここ桜府王国である。桜府は石油の産出国だ。本土のほうでは油田が多いらしく、石油を蒸留する施設も数え切れないほどあるそうだ。

「大地の国は何が有名だったんだ?」
「う〜ん……やっぱり一番は車かな〜。あとは細かい部品とか。品質の面じゃ一応世界一だからな」
「バレーはどうなんだ? プロリーグとかあるのか?」
「俺の国はなかったよ。どこも実業団チームだった。猛のとこはプロなのか?」
「一応そうだぜ。ま、弱小チームだから給料は少ないけどな。最下部のリーグん中じゃ一応トップ二には入れるんだけど、そっからがなかなか上がれないんだよな。一つでも上のリーグに行けりゃ給料も変わってくるんだろうけど。実はこの週末に上のリーグとの入れ替え戦があるんだ。ただ、いま俺の対角のやつが怪我しててさ、本来リベロやってるやつにレフトに入ってもらってるんだよ」
「それって大丈夫なのか?」
「いや、やっぱかなりきついぜ。去年は惜しいとこまで行けてたんだけど、今回は無理だろうな。替えの選手もいねえし、仕方ねえけど。それでも精一杯やってみるつもりだよ。――よし、できた! 大地、皿運ぶのだけ手伝ってくれよ」

 大地と会話をしながらも猛の手はしっかりと料理をこなしていたらしく、キッチン台に完成したものがいくつか並んでいる。大地は言われたとおりにそれらをダイニングテーブルに運び、猛が椅子に座るとそれに倣って正面の席にかける。

「なんか豪華だな」
「そうか? 二人分ならこんなもんだろ。これがギョニっていう魚のムニエルで、これがトマトスープ。こっちが茄子と豚の味噌炒め、それとほうれん草の胡麻和えにきゅうりとわかめの酢の物、あとこれはバルタルって果物だ。食えないものがあったら遠慮せずに残せよ」

 ギョニとバルタル以外は大地の世界にもありがちな料理だ。そういえば村娘の夏も大地の知っている料理ばかり作っていたし、食べ物はあちらもこちらも共通しているものが多いようだ。

「いただきます」
「おう」

 大地はまず、まったく未知の食べ物であるギョニのムニエルに箸を伸ばした。身を割ってみると、ふんわりとした綺麗な白身が現れる。

「これ美味いな! 柔らかいし、味付けもちょうどいい感じで俺すごく好きだよ」
「本当か!? よかった〜。口に合うかどうかちょっと心配だったんだよな〜。イクシオン人の知り合いなんていないから、味覚もわからなかったし」
「こっちも美味い。猛は料理上手だな」
「こんくらい、一人暮らししてりゃあ当たり前にできるって」

 そう言いながら照れたようにはにかむ顔は、あどけなさが残るのも手伝って可愛く映る。思わず頭を撫でてやりたい衝動に駆られながら、それを振り払って大地は食事の続きに戻った。
 猛の料理はどれも文句のつけようもないくらいの出来で、どんどん箸が進んであっという間に皿は空になった。さっきの提言どおり片づけは大地がやり、それが終わるとシャワーを借りた。猛のほうは体育館でシャワーを浴びて帰ったらしい。
 そのあとはソファーに並んで座って互いの世界の話をしていたのだが、途中で猛が舟をこぎ始めたため、その日は就寝することになった。

「ごめんな、ベッド一つしかなくて」
「いや、謝るのは俺のほうだよ。ごめんな、図々しくベッド使わせてもらうことになって。本当にソファーでもよかったんだぞ?」
「いいって。ベッド広いし、俺寝相は悪くないはずだから」

 先に猛がベッドに入って、その隣に後から大地が入る。確かに二人一緒に寝ても十分に広いようだ。

「なあ大地、海ってのは大地の友達なのか?」

 この世界に来る経緯を話す中で、一緒にこちらに渡ったはずの海のことも大地は猛に話していた。岩泉のことと同様に、彼の情報もまた猛は知らないようだった。

「友達……って言っていいのかよくわかんないな。同じクラスだけど話したことってあまりないんだ」
「ひょっとして大地は海のことが好きなのか?」
「えっ!?」

 いきなり話が飛躍したのと図星を突かれたのとで、大地は思わず声を裏返らせた。

「な、なんでそう思ったんだ……?」
「さっき海のこと話すとき、大地すげえ優しそうな顔してたからさ。なんとなく気があるんじゃないかって思ったんだ」
「そ、そっか……。ごめん、その通りなんだ。一方的に海くんに片想いしてて……やっぱ気持ち悪いよな?」
「え、なんでだよ? 別に何も気持ち悪いことなんてないだろ?」
「でも、男同士ってやっぱりこっちでも変に思われるもんなんじゃないのか?」
「そんなこと全然ねえけど? そりゃ、異性愛者に比べたら少数派かもしれないけどさ、偏見とかそういうのはまったくないし、どこの国も男同士で結婚できるしな」
「そうなのか!?」
「そうだぜ。大地の世界は違うのか?」
「ほとんどの国じゃ男同士で結婚なんてできないよ。むしろ偏見されたり、気持ち悪がられたりすることもある。俺の国じゃ多少マシにはなってきたけど、それでも普通のことっていう扱いじゃない」
「そうなのか……それはなんか生き辛いな」

 大地の友人たち――菅原や東峰はたまたまゲイであることを受け入れてくれたが、親や他の人たちに打ち明ける勇気はない。隠しながら生き続けることは猛の言うとおり確かに辛いだろうけど、それはもう仕方がないことだと諦めている。

「なあ、猛。俺と一緒に寝るの不安だったら遠慮せずに言ってくれよ。ソファーでも十分だからさ」
「なんだよ? 大地もしかして俺のこと襲うつもりなのか?」
「そんなことしないけど、やっぱり恐いんじゃないかと思って……」
「別に恐くなんかねえよ。それに俺は大地だったら襲われても全然オッケーだけどな。お前って結構男前だし」
「な、何言ってるんだよっ」

 ずい、と猛が大地のほうに身体を寄せてくる。背中を向けていた大地の肩の辺りに猛は額をくっつけて、おもしろそうにクツクツと笑った。

「からかうなよ……」
「からかってるわけじゃねえよ。なあ大地、あんま卑屈になる必要なんかないって。俺もそうだし、他のやつだってお前がゲイでもなんでも受け入れてくれるからさ」
「そうかな……」
「そうだって。だから何も隠さなくていいし、遠慮もしなくていいんだよ」
「……猛もひょっとしてゲイなのか?」
「う〜ん……わかんねえ。俺、誰かのこと好きになったりってまだなんだ。でもこうやって大地にくっつくの、全然嫌じゃないな。むしろなんか楽しいくらいだぜ」
「楽しいもん……なのか?」
「うん。それになんだか落ち着くな〜。このまま寝れそうな気がする」

 それきり猛は静かになった。背中に触れ合っている部分が妙に熱いように感じる。けれどそれは決して不快じゃなくて、どことなく愛おしいような、あるいは守ってあげたくなるような優しい気持ちにさせられる。
 やがて規則正しい寝息が聞こえ始め、それを確認してから大地は猛のほうに身体を向けた。
 暗がりの中でも、猛が無防備な寝顔を晒しているのがわかる。だらしなく口を半開きにした顔がなんだかおもしろくて、大地は猛を起こさないようにこっそりと笑った。







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