六章 試合前夜


 入れ替え戦本番までの練習はたったの四回しかなかったが、それでも大地を絡めた攻撃はきちんと形になったと言えた。自分の実力が対戦相手にどの程度通用するかはまったく見当もつかない。けれどきっと大丈夫だと信じている。
 前日の練習は、翌日に疲労を残さないようにと軽めのメニューになっていた。時間も短く、午後はコンビ攻撃の確認をしただけで解散となった。
 いつものように更衣室のシャワーで身体を洗う。笹谷の背中を洗ってやるのもちゃっかり大地の仕事になっていて、今日もそれを嫌がらずにこなした。ちなみにあれから笹谷が大地の身体にいやらしい手つきで触ることはなくなった。触りたそうな顔はしているけれど、普通に背中を洗ってくれるだけに留まっている。

「明日、俺の分まで頑張ってくれよ」

 帰り際、笹谷にそう言われて大地は力強く頷いた。

「不安なところもあるけど、しっかりやるよ。ささやんは早く怪我治せよ」
「おう。でも結局、お前と一緒にバレーできる日は来なさそうだな。試合終わったらすぐに聖彼に行っちまうんだろ?」
「うん」

 正直に言えば、ここに残りたいという気持ちもある。けれど元の世界に帰りたい、その前に海を捜したいという思いのほうが強かった。

「そっか。じゃあ今日が大地のいる最後の練習になるかもだな。なんかすげえ寂しい」
「俺だって寂しいよ。ささやんと一緒にバレーしたかったな。どんなバレーをするのか見てみたかった」
「俺なんて全然大したことねえよ。あーあ、バレーもだけど、一回くらいお前とセックスしてみたかったな。それとも明日試合が終わったらやるか?」
「やらないよ! そりゃ、ささやんのことはやっぱカッコいいと思うし、し、してみたいって思わないこともないけど……この間も言ったように俺には好きな人がいる。叶わない恋かもしれないけど、ちゃんと告白して玉砕するまでは誰ともそういうことはしない。だからごめんな」
「謝ることなんかねえよ。そういう強い気持ちって大事だと思うぜ。その片想いの相手、早く見つかるといいな」
「うん。ありがとう」

 笹谷は最後に大地の頭をわしゃわしゃ撫でてから、じゃあなと手を振って帰って行った。

「大地、お待たせ」

 笹谷と入れ違いになるタイミングで、監督に呼ばれていた猛が戻って来た。

「明日のことで話があったのか?」
「うん。段取りとかいろいろな。よし、買い物して帰ろうぜ」
「おう」

 猛はいつも体育館の近くのスーパーで買い物をして帰る。家の近くにスーパーや商店がないからだ。買い物が終わると行きと違ってバスで家まで帰り、すぐに夕食の準備に取り掛かる。今日もそれは変わらなかった。

「今日の晩飯は何?」
「カツカレーだぜ。とりあえずカレーだけ先に作っとく。悪いんだけど、その間に大地は風呂洗ってくれねえか?」
「風呂? さっき体育館でシャワー浴びただろ?」
「いや、今日は湯船に浸かってゆっくりしたいなって思ってさ」
「そういうことか。わかった、じゃあ洗っとくよ」
「よろしく」

 浴室はここに来て目を覚ました初日に大地が使ったきりだ。猛も基本的には体育館のシャワーで済ませているようだし、だから念入りに掃除をしなければならないほど汚れてはいなかった。
 桜府の本土で出会った夏の家もそうだったが、猛の家も浴槽が少し広めでゆったりと浸かれそうだ。あとで自分も使わせてもらおうかなと、洗いながら考える。
 風呂掃除が終わると今度は今日の分の汚れ物を洗濯機にかける。洗濯機が回っている間に今朝干した昨日の洗濯物を取り込んで畳み、そうしている間に脱水まで終わった今日の洗濯物を、のんびりと外に干した。
 リビングに戻ると、奥のキッチンでは猛がまだ料理に勤しんでいる。エプロン姿もすっかり見慣れたものだが、何度見ても可愛かった。



 見上げた空はすっかり夜の景色へと変わっている。無限に広がる闇の中にちりばめられた、数え切れないほどの星々。月はそんな小さな光たちを横目に、まるで自らの存在をアピールするかのようにオレンジ色に輝いていた。
 綺麗な夜空だ。元の世界の夜空も綺麗だったけど、いま目にしているそれはもっと幻想的で、感嘆の息さえついてしまうほどに美しい眺めだった。

「大地ー、風呂湧いたぜ」

 そんな夜の景色に見惚れていると、玄関のほうから猛が呼ぶ声がした。

「わかった。もう戻るよ」

 流れ星でも観られないかと待っていたが、さすがに退屈になりつつあったので大人しく家の中に戻る。

「大地、先に風呂行けよ。俺はあとでゆっくり浸かりたいからさ」
「どうせなら一緒に入らないか? 広いから二人で入っても足伸ばせるだろ?」

 大地としては何の下心もない誘いだったのだが、猛は言われた瞬間に変な表情をしたまま固まっていた。そしてあどけなさの抜けきらない顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。

「あ、ごめん。やっぱり一緒は嫌だったよな。別にささやんみたいに変なことするつもりなんてないんだけど」
「あ、いや、別にそういう心配はしてねえよ。大地がそんなことするわけないってわかってるし。ちょっとびっくりしただけだ。でも急にどうしたんだよ?」
「一緒に風呂に入る機会なんてもうないかもしれないからさ。記念……って言い方は変だけど、え〜と……そうだ、思い出づくり。一緒にいられる日もたぶん残り少ないだろうし、できるだけ猛と話してたいなって思って」
「……そっか。そういや大地、聖彼に行っちゃうんだったな。なんか俺、そのこと忘れかけてたよ」

 猛の顔に、寂しそうな表情が浮かぶ。それを見て大地の胸はちくりと痛んだ。

「よし、じゃあ一緒に入ろうぜ。でも喋りすぎてのぼせないように気をつけねえとな」
「そうだな」

 さっき一瞬見せた表情が嘘のように、今度はいつもの眩しいような笑顔を猛は見せる。無理をさせてしまっただろうか。けれど無理をしてでも猛には笑っていてほしかった。そうでなければ、ここを離れなければならない日が来るのが辛くなってしまう。
 脱衣所でそれぞれ着ていたものを全部脱ぎ、特に恥ずかしさもなく裸体を晒す。そういえば猛の全裸を見るのは初めてだ。猛の身体はしなやかという言葉をそのままに表現したような、均等のとれた綺麗なものだった。大地や笹谷ほどの筋肉量ではないが、無駄は一切なく、逆に素早い動きやジャンプに特化したつくりだと感じた。

(猛、すごく綺麗な桃尻だな。撫で回したい……ってこれじゃささやんじゃん!)

 身体の奥底から湧き上がりそうだった欲望を大地はすぐに振り払い、猛に続いて浴槽に入る。
 二人横並びになるような形で座ったが、それでもスペース的にはまだ少し余裕があった。足もちゃんと伸ばせるし、一人で使うのは逆にもったいない気さえする。その代わり掃除するのには少し時間がかかったが。

「お湯熱くなかったか?」
「うん。ちょうどいいくらいだよ。猛はどう?」
「俺もこんくらいがちょうどいい」

 入浴剤を使ったのか、湯は乳白色に染まっており、いい香りがした。

「前から訊いてみたかったんだけどさ、大地ってささやんのこと好きなのか?」
「え、俺ってそういうふうに見える?」
「いや、ほら、いつも背中洗ってあげたりしてるからさ。ひょっとしてそうなのかなって思ってたんだ。大地もゲイなわけだし」

 確かに冷静に考えてみれば、シャワーブースでの大地と笹谷はゲイカップルがイチャついているように見えなくもない。いままでそういうふうに意識したことはなかったが、言われてみればそうだ。

「ささやんのことはカッコいいと思ってるし、好きだとも思ってるけど、それは恋愛感情とは違うよ。ほら、俺クラスメイトに好きな人がいるって話したことあっただろ?」
「うん」
「その気持ちはいまも変わってないよ。早く逢いたいし、ずっと心配してる」

 海を想うあまり、夢に彼が出てきたことも一度や二度の話ではない。むしろこの世界に来てからはほぼ毎日、夢の中で彼の姿を見ていた。

「そっか。なんかちょっと安心した」
「なんでだよ? あ、ひょっとして猛、ささやんのこと好きなのか?」
「なんでそうなるんだよっ。俺は……いや、なんでもないや。この話はおしまい!」
「なんだよ、気になるな〜」

 猛はそれ以上そのことについては話したくないというように、口をつぐんでツンとしていた。大地も深く追求するような意地悪はせず、話したかった別の話題に切り替えることにした。

「明日対戦するチームって強いのか?」

 大地は対戦相手の情報を何一つ知らなかった。だから心積もりをしようにもいま一つ気持ちが固まらず、不安ばかりが膨れる一方だった。

「正直、すげえ強いってことはないぜ。でも俺らよりも上のリーグでやってるから、やっぱ違うなって思う部分はあるけどな。去年当たったときは負けたけどフルセットまでは行けたから、やっぱ勝てねえってことはないと思う」
「どういうバレーをするチームなんだ?」
「そうだな〜……複雑なコンビとか、早い攻撃を使うようなチームじゃあないな。どっちかっつーと高さとかパワーで押してくるチームだぜ」

 モッツァリーナのレギュラーメンバーは身長がそれほど高いわけじゃない。ミドルブロッカーの青根と金田一こそ百九十センチ前後あるが、それ以外はバレー選手として平均以下の身長と言っていいだろう。特にレフトの大地と猛は百七十センチ台と、体格的にはなかなか不利である。ブロックの上から打ち込まれたりしないかと心配だった。

「確かに上から打たれることもあるけど、俺らの後ろ守ってるのっていつも親治だろ? だからどうにかなるって。あいつがすげえのは大地だって知ってるだろ?」

 確かにリベロの渡の守備力は、並みのリベロとは訳が違うように見える。強打はほとんど綺麗なAパスに変えているし、フェイントにも素早く反応していた。

「完全にシャットアウトすんのは難しいかもしんねえけど、ワンタッチ取れりゃあこっちのもんだよ。それ意識してブロック飛んでみようぜ」
「そうだな」

 背が低いやつにはそれなりの戦い方がある。猛はいつもそう言っているし、練習中も持ちうるテクニックを駆使してそれを体現していた。

「大地、緊張してんのか?」
「まあな。試合なんて久しぶりだし、本当に俺の実力が通用するのか心配だよ」
「大丈夫だって。大地はすげえ上手いと思うぜ。コースの打ち分けもめっちゃ上達してたじゃんか。それになんっつってもパワーがすげえよ。あれならブロック押し切れるぜ」
「だといいんだけど……。猛は緊張してないのか?」
「そりゃ、ちょっとくらいはしてるけど、楽しみな気持ちのほうがデカいよ。俺、試合ってすげえ楽しくて好きなんだ。だからいますげえワクワクしてる」
「その気持ちを少しだけでいいから分けてほしいよ」
「そうか? じゃあ注入してやる」

 そう言って猛はおもむろに大地の手を取った。それを自分の額に押し当てると、目を閉じてしばらくそうしていた。

「よし、これで俺の元気を注入できたぜ! 明日は絶対上手くいく!」
「猛……いまの可愛いすぎだろ。なんなの? ひょっとして天使なのか?」
「か、可愛いとか言うなよっ。お前の不安をちょっとでも和らげてやろうと思ってやったんだよっ」
「すげえありがたいけど、そういうことされると別のところが元気になっちゃいそうだよ」
「別のところ……?」
「なんでもない。でもおかげでなんか頑張れそうな気がしてきたよ。明日、絶対勝とうな」
「おう。いつまでも下部リーグで燻ってるのなんて嫌だからな!」

 きっと明日は猛たちと挑める最初で最後の試合だ。だからこそ勝たせてやりたいし、大地自身、勝利の喜びを味わいたいと心の底から思う。自分の持っている力、それをすべてぶつけよう。悔いの残らないように、そして猛たちを笑顔にしてやれるように。

 運命の入れ替え戦が、いよいよ始まる。







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