終章 大事な宝物 「大地ー、これお前にやるよ」 そう言って猛が渡してきたのは、大きなショルダーバッグだった。 「それ、猛がいつもバレーで使ってるやつだろ? ないと困るんじゃないのか?」 「新しいの買うからいい。あ、ちゃんと消臭剤とか使ったから臭くはないぜ」 「もらえるのはありがたいけど、やっぱり申し訳ないよ。愛着もあるだろうし」 「いいから持ってけって。大地に持ってて欲しいんだよ。逢えなくなっても、どっかで繋がってるって思いてえんだ」 「猛……」 入れ替え戦に勝利してから二日。大地は明日聖彼王国に向けて旅立つことになっていた。飛空艇の手配はいつの間にか辺南監督がしてくれていて、選手としてモッツァリーナに加入していた日数分の給料も彼女から受け取っている。 飛空艇のことを話す前に、辺南は大地を引き留めようとしてくれた。選手としてこれからもモッツァリーナにいてくれないかと懇願されたが、大地は丁重に断った。もちろん、そこに迷いがなかったわけではない。バレーは好きだし、モッツァリーナのチームメイトたちも大好きだ。後ろ髪を引かれる思いをしつつ、けれど元の世界を恋しく想う気持ちのほうが勝って、聖彼に向かうことを選んだのだった。 「わかった。じゃあ使わせてもらうな。ありがとう」 「大事に使えよ〜」 「もちろん。俺も何かあげられたらよかったんだけど、何も持ってないからな〜」 「そんなのいいって。それに大地が使ったものならここにいっぱい残ってるからな」 「それは俺のものじゃなくて、元々猛のものだろ」 「いいんだよ、それで」 もらったショルダーバッグに、さっそく自分の荷物を詰めていく。と言っても大地の私物と言えば衣類ぐらいのもので、それを全部詰めてもショルダーバッグにはまだずいぶんと余裕があった。 服は猛のだと少し小さいから、一番体格の近い茂庭に何着か譲ってもらった。さすがに下着は自分で買ったが、この先どんな出費が必要になるかわからないから三枚しか買っていない。 旅立ちの準備を終える頃には夕食の準備が整っていて、二人で談笑しながらそれを食べた。そしていつもどおりに風呂に入ったり、テレビを観たりしているうちに眠気がじんわりと全身に満ちてくる。 猛と過ごせる最後の夜。寝てしまうのは名残惜しいけれど、耐えられずに大地たちはベッドに入ることにした。 「なあ大地、今日はくっついて寝てもいいか?」 「うん、いいよ」 大地も今日は猛とくっついて寝たいと思っていた。やっぱり離れ離れになってしまうことが寂しくて、その寂しさを埋めるように、大地にピタリと身体を寄せてきた猛を抱きしめる。 「明日、マジで行っちまうんだな……」 寂しさを滲ませたような弱々しい声で、猛がそう呟いた。 「うん、行くよ。でも猛やモッツァリーナのみんなと別れるのはすごく寂しいな。この一週間、すごく楽しかった。たぶん俺の人生の中で一番」 「じゃあもうずっとここにいろよ。大地ならうちの選手として十分やってけるじゃん。チームのみんなだってお前のこと必要としてると思うぜ」 「それも悪くないなって正直思ったよ。やっぱりバレーは好きだし、みんなのことも好きだし、それで食っていけるなら幸せだろうなって思う」 「だったら……」 「でも俺にとってやっぱり故郷はイクシオンなんだ。家族も、友達も、大事な人たちも何もかも全部置いてこっちに来てしまった。会えないことが寂しいし、こっちの世界でどんなに幸せでも、あっちのことを恋しく思うよ」 あちらの世界の日常を、平和すぎて退屈だと感じないこともなかった。けれどそう感じることこそが幸せであり、自分にとってかけがえのないものなのだといまは思える。こちらの世界に飛ばされて、改めてそのことに気づかされた。 「そっか。やっぱそうだよな。なら仕方ねえや」 「ごめんな。世話になったのに希望に応えてあげられなくて」 「謝んなよ。そんなの初めからわかってたことじゃんか。俺が勝手に変な期待持っちまっただけだし」 どうして猛はこちらの世界の人間なのだろう。あちらの世界の人間で、もしも偶然巡り逢うことがあれば、きっと自分たちはいまみたいに親しくなれただろう。そして互いに尊重し合い、支え合いながらともに生きていけたはずだ。 けれど二人は、本来なら別々の世界に生きる人間だ。いつどこに出現するかわからない次元の狭間だけでしか繋がることのできない、あまりにも遠い世界に生きている。いまはこんなに、肌と肌が触れ合うほど近くても、いつかまた途方もなく遠い場所でそれぞれの人生を進むことになる。 「なあ、聞いてくれよ」 猛が静かに切り出した。 「いまの俺はまだひよっこも同然だけどさ、いつか世界中で知らないやつはいないってくらいのバレー選手になるのが夢なんだ。もっといっぱい練習して、いっぱい技術を身に着けて、“世界を脅かす小さな巨人、中島猛”なんて呼ばれるようなビッグスターになりたい」 「俺は、猛なら絶対になれると思うよ。猛は努力家だし、やっぱり才能もあると思うから」 「ありがとな。でもそうなったときの俺を大地に見せられないのが残念だよ。大地にすげえなって言われたかった」 「俺にしてみれば猛はいまでも十分にすごいけどな」 猛はそれきり静かになった。眠ったんだろうかと思って大地も目を閉じるが、しばらくすると抱きしめた背中が震え出し、腕の中で猛が鼻を啜り始める。 「猛……泣いてるの?」 「だって俺っ……やっぱ大地と離れるの嫌だっ……せっかく逢えたのになんで離れなきゃいけねえんだよっ……なんでっ」 「猛……」 大地だってできることなら猛と離れたくない。けれどどちらか一つしか選択できないなら、やはり元の世界を選ぶ。そのほうが味わう後悔が小さくて済むとわかっているからだ。 子どものように手放しで泣きじゃくる猛を抱きしめながら、大地も無性に泣きたくなった。けれどなんとか堪える。ここで自分まで泣いてしまったら、絶対に収拾がつかなくなる。せめて猛が存分に甘えられるように、いまは強い人でいようと思った。 「俺っ……大地のこと好きだよ。すげえ好きだっ。初めて誰かのこと、そういうふうに思えた」 涙に震える声で、猛は懸命に自分の気持ちを伝えてくれた。胸に染み渡るその言葉を、大地は奥のほうにそっとしまい込む。 「ありがとう。俺も猛が大好きだ」 一筋の熱い情が、心から流れ出て抱きしめる腕に優しさを与える。こんなに愛おしくて、大事だと想える存在と明日別れなければならないなんて、嘘みたいだ。けれどそれは現実として大地の元に訪れる。眠りに就いて次に目を覚ましたときには、それはもう目の前まで来ているだろう。 虎宇都島唯一の空港は、想像していたよりもずっと広い。けれど平日ということもあってか人の姿はそれほど多くなく、待合の椅子も空いているところが多かった。 大地が乗る予定の便の出発までもうすぐだ。名残惜しいけれど、もう行かなければと椅子から立ち上がる。 「そろそろ行くよ。みんな見送りにまで来てくれてありがとう」 大地の見送りにはモッツァリーナのチームメイト全員が来てくれた。監督の辺南とコーチの直井も一緒で、空港までの移動にはわざわざチームが所有するマイクロバスを出してくれたのだった。 「あ、やば、忘れるところだった」 茂庭が焦った様子で自分のバッグから何かを取り出し、それを大地に差し出した。 「これ、この間みんなで撮った写真。大地くんに一枚上げるね」 「ありがとう。大事にするよ」 写真の中にはいまここにいるメンバー全員が写っている。皆いい笑顔をしていた。 「大地さん、これ」 今度は金田一が何かを手渡してくれる。掲げてみるとそれは青い鳥のようなキャラクターのキーホルダーだった。 「あ、これモッツァリーナのマスコットの……」 「モッツくんっす。俺たちのこと忘れないでほしくって、これにしました」 「これをもらわなくたって、みんなのことは忘れないよ。忘れられるわけないだろう。楽しい思い出をいっぱいくれたんだから」 虎宇都島の皆とはたった一週間の付き合いだった。けれどその間にいろんなものを共有できたし、非常に密度の濃い一週間だったと感じている。写真やキーホルダーも大事だが、何よりも一緒にいられた時間――形には残らないそれこそが、大地にとっての一番大事な宝物だった。 「大地」 この一週間で一番耳にした声が、優しく大地を呼んだ。 「猛……本当にいろいろありがとう。何もお礼ができなくてごめんな」 朝起きたとき、寝る前に泣きじゃくっていた猛の瞼はまだ赤く腫れていたが、いまはもうだいぶ引いている。 「そんなのいいって! あ、でも、そうだな……最後に一つだけ頼みがあるんだけど、聞いてくれるか?」 「なんだよ?」 「その……あのな……大地とキ、キスしたい……」 台詞の最後の辺りは尻すぼみ気味になっていたが、それでも大地の耳にはしっかり聞こえていた。 「あ、やっぱいまのなし! 聞かなかったことにしてくれ!」 「もう聞いちゃったけど! それに、俺はしてもいいんだけど」 猛とはきっともう、二度と逢えない。ならキスの一つくらいしたって赦されるのではないか。この別れを受け入れる代わりに、何か特別なものをもらえるのだとしたら、大地もキスがよかった。 「ほら、猛」 両手を広げると、猛は素直に大地の胸に身体を預ける。昨日だって寝ている間ずっと抱きしめていたけど、どれだけ抱きしめてもまだ足りなかった。 「本当にしてもいいのか? 嫌だったら別に断ってもいいんだぜ?」 「嫌なわけないだろう。俺も猛とキスしたいよ」 「じゃあ、するぞ」 猛が両手を大地の頬に添える。見つめ合った彼の瞳が一瞬だけ泣きそうに潤んだあと、そっと唇が重なった。とても優しくて、とても穏やかで、お互いの温かな熱が混ざり合い、また新しい優しさを生む。そんなキスだった。 唇が離れた途端、猛の顔が急速に赤く染まった。大地もなんだか顔が熱くなってきて、その熱を冷まそうと手で顔を扇いだ。 「猛だけずるいよ。俺も大地くんにキスしよっと」 そう言いだしたのは茂庭だった。 「だ、駄目に決まってんだろ! 絶対駄目!」 猛が阻止しようと声を荒げる。 「頬っぺたならいいだろ? そのくらい挨拶みたいなもんだし」 「で、でもっ……あ、こら高伸! 何すんだよ!」 ぶりぶり文句を言う猛を青根が背中から羽交い絞めにし、その隙に茂庭たちが大地のそばにやって来る。 「頬っぺただからいいよね?」 「いいけど、みんなするのか?」 「みんな大地くんのこと大好きだからな。変な意味じゃなくて、チームメイトとして」 結局、茂庭と小原、渡の三人には頬に、金田一と青根には額にキスをされた。猛は諦めたのか、不満そうな顔をしながらもそれ以上文句を言うことはなかった。 「よし、最後は俺の番だな」 ずい、と前に出てきたのは笹谷だった。 「猛、悪いけど俺は口にするぜ。大地とキスできるのなんてこれが最初で最後だからな」 「……好きにしろよ。けどエロいのは駄目だからな」 「わかってるって」 笹谷の切れ長の瞳が大地の目をじっと見つめてくる。相変わらずの男前だ。言い寄ってくる人間もきっと少なくはないだろう。 ふっと笑ったかと思うと、笹谷は大地を強く抱きしめた。 「俺さ、すげえ軽いように見えるかもしんねえけど、お前を好きって言ったのはマジだからな。一目惚れってやつ。けど猛もお前のこと好きっぽかったから、言うのが今頃になっちまった」 「俺なんかのどこがよかったんだよ? 結構地味だと思うんだけど」 「そんなことねえよ。お前はすげえ男前だと思うぞ。もっと自信持て」 「……ありがとう」 優しく頭を撫でられる。それは何度か練習中にもされたことがあるけど、決して嫌じゃなかった。 「俺のこと忘れんなよ」 「ささやんのことは忘れたくても忘れられないと思うよ。インパクト強かったし」 「そうかよ。なら安心だな。んじゃ、そろそろ大地の唇をいただくとすっか。いいだろ?」 「うん」 笹谷の唇が大地に唇に触れてくる。一度離れたと思ったらすぐにまた重なり、何度かそれを繰り返しているうちに舌で唇をこじ開けられた。 「んっ!?」 「あ、こらささやん! エロいのは駄目だって言っただろ!」 「うるせえ! お子さまどもは黙って大人のキスを見学してろよ!」 「お子さま言うな! 歳同じだろうが! みんなあいつを引き剥がすぞ!」 「了解!」 いつものように、モッツァリーナはまたギャーギャーと騒がしくなる。大地はその騒がしさが嫌いじゃなかった。それはどこか温かくて、楽しくて、その輪の中にいると不思議と心が安らいだ。 まだこの中にいたい。まだみんなと笑っていたい。そう思うほどに大地はこのチームメイトたちのことを好きになっていた。 窓の外の虎宇都島がどんどん遠くなっていく。もう二度と訪れることのできないその島を、大地は見えなくなるまでずっと眺めていた。 「いろいろあったな……」 森の中で倒れていたところを猛に助けられ、モッツァリーナに入団し、そして入れ替え戦に出場し、勝利を収めた。激動のように過ぎた一週間の出来事が、順番に大地の頭にフラッシュバックされる。 茂庭にもらった写真を取り出し、一人一人の顔を確かめていく。最後に一番長く一緒にいた猛の顔で視線が止まり、しばらく見つめていた。 「猛っ……」 名前を呟いた瞬間、ぽろっと涙が零れた。続けざまにボロボロと瞳から溢れ出して、大地の頬を玉のようなそれが滑り落ちていく。 さっき別れたばかりなのに、大地はもう猛に逢いたくなっていた。抱きしめて、またあの森の中の家に帰って、昨日までと同じように一緒に御飯を食べたい。けれどそれはもう、二度とできないのだ。自分は元の世界に帰ることを選んだ。だからもう、二度と猛には逢えない。 寂しさと切なさに胸が締め付けられ、止まらない涙はやがて嗚咽へと変わった。こんなに辛い別れがあるなんて知らなかった。こんなにも寂しさに苦しめられることがあるなんて知らなかった。それでもこの飛空艇に乗った以上は別れを受け入れ、寂しさを乗り越えていかなければならない。 「さようなら、猛っ……」 きっと元の世界で海よりも先に出逢っていたら、自分は猛のことを好きになっていただろう。明るくて優しくて、頑張り屋で可愛い彼に、どうしようもなく恋い焦がれていたに違いない。 窓の外で風の音がしている。その風を受けたプロペラが立てる音は、まるで何かの音色のようだった。 この風が猛の声を届けてくれないだろうか? そんなありもしないことを願いながら、大地は風の音色にじっと耳を澄ませていた。 |