「海くん!!」
「澤村くん!!」

 繋がれていた二人の手は、その瞬間に離れてしまった。再び手を繋ぎ合うことは叶わないでいる。それどころか、毎日のように見ていた彼の顔を見ることさえ、海信行にはできなくなってしまった。
 闇の狭間を抜けて辿り着いたのは、この見たこともない世界だった。魔物や魔法といった不思議が当たり前のように存在し、元の世界の常識が通用しない、まるでおとぎ話に出てくるような世界。

 ハルモニア――それが、この世界の名前だった。

 ハルモニアに迷い込んだ海のそばに、一緒に闇の狭間に落ちたはずの想い人の姿はなかった。代わりにこの世界の住人が海を親切に介抱し、想い人が向かったかもしれないという国に連れて行ってもらえることになった。
 早く逢いたい。家族よりもずっと強く彼のことを求めていることに気づいて、海は一人苦笑する。でもそんなのは仕方ない。それくらい彼のことが好きなのだ。人を好きになるということは、そういうことだ。

(澤村くん……どうか無事でいてね)



 暗黒の海 黄昏の声 (Harmonia 第三部)


一章 船旅の始まり


 玄関を開けて外に出ると、眩いばかりの太陽の光が燦々と照りつけてくる。季節は元の世界と同じ、夏の只中らしい。吹きつける風は温かく、森のほうからは蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 森の反対側は広い海だ。白い砂浜に打ちつける波は澄んでいて透明なのに、遠くのほうは不気味なほど黒い。ものすごく深いからだと、海を助けてくれた恩人が教えてくれた。

「いい天気だな〜」

 噂をすればなんとやら。海を助けてくれた恩人――鎌先靖志が家から出てきて、晴れ空を仰ぎ見ていた。

「絶好の船出日和だぜ」
「そうだね。船のチケットはちゃんと持った?」
「おう。その辺は抜かりねえから安心しろ」

 玄関の鍵を閉めた鎌先は、背負っていた大きなリュックを海のそばに下ろした。

「ちょっとここで待ってろ。鍵を管理人に返してくっから」
「え、どうして? 遠出するときは返さないといけない決まりなの?」
「いや、この家出るからだよ。借家だから鍵は返さねえとな。言ってなかったか?」
「借家なのは知ってるけど、家出るなんて初めて聞いたよ。ひょっとしてここには戻らないつもりなのか?」
「ああ。聖彼せいかのほうが絶対にいい職があるからな。せっかく行くんならそのままあっちで再就職するぜ。だから仕事もきっぱりやめてきた」
「本当にいいのかい? 家も仕事も思い入れがあったんじゃないのか?」
「そんなもんないない。家はさておき、仕事は他になかったから仕方なくやってただけだしな。つーか聞いてくれよ! あいつら人が辞めるっつーのに、退職金くれなかったんだぜ? 五年も勤めてやったっつーのにひでえよな?」
「それ労基に駆け込んだほうがいいんじゃないかな?」

 めんどいからやめとく、と言いながら鎌先は近くの管理人の家に走って行った。
 鎌先は海と同じ十八歳で、元は聖彼の出身らしい。十二歳の頃に家出してここ蘭華で暮らし始めたという。十二歳にしてその行動力は、呆れるよりも素直に感心した。自分じゃとても考えられない。

「待たせたな! 船着き場に行くとすっか」

 聖彼王国に渡航する手段としては、船以外にも飛空艇というものがあるそうだ。そちらのほうが、所要時間が圧倒的に短くて済むのだが、金銭的な問題で選択肢から外れてしまった。
 船着き場は鎌先の家から歩いて十分ほどのところにあった。漁船らしきものが何隻か泊まっている中に、一隻だけ、一目で客船とわかるほどの豪奢な船が泊っている。あれがきっと海たちが乗る予定の船なのだろう。船というよりはもはや一つの巨大な建造物がそこに浮かんでいるかのようだ。全長は三百メートルくらいあるだろうか。高さもちょっとしたマンションほどありそうで、その圧倒的な景観に海はしばらく呆然となった。
 客室乗務員によるチケットの確認を済ませ、二人はさっそく船に乗り込む。中に入って最初に待ち構えていたのは、広いエントランスホールだ。高級ホテルのロビーを彷彿とさせる空間で、シックな壁紙やソファーが落ち着いた雰囲気を醸し出している。奥のほうに幅の広い階段があり、そこから客室やその他の施設に行けるようだ。
 天井には豪奢なシャンデリアがぶら下がり、まるでそれそのものが宝石のように上品な輝きを放っている。あれだけでもきっと、海が何十年と働いてようやく稼げるほどの値段がするのだろう。

「なんかすごい船だね。本当に高くなかったの?」
「おう。豪華に見えるけど型落ちで結構古いから、よく見りゃ傷とか汚れがあるんだぜ。だから信が思ってるほど高くはねえよ」
「そうなのかい? ならいいんだけど……」

 どう見てもセレブ御用達と言った雰囲気だが、どう見てもセレブじゃない鎌先が高くないと言っているのだから、きっとそのとおりなのだろう。

「とりあえず客室に荷物置きに行こうぜ」
「うん、そうだね」

 荷物は着替えだけでバッグもそれほど大きくない海に対し、家を引っ越すとあってか、鎌先のスーツケースはずいぶんと大きい。それに加えてこれまた大きなリュックも背負っており、さっきからずっと身動きがとり辛そうだった。
 部屋は上の階の奥まった場所にあり、ドアを開けると中は想像していたよりもずっと広かった。入ってすぐのところには三人掛けのソファーと小さなテーブル、壁掛けのテレビがあり、ゆっくりくつろげそうなリビングになっている。正面の壁際は掃出し窓、その向こうはベランダになっていて、そこから外の景色を見渡せそうだった。
 右奥はベッドルーム、その脇のドアを開けると洗面室とバスルームがある。どこもかしこも高級ホテルのような佇まいで、休むための空間なのに逆に落ち着かなくなりそうだった。

「ツインが空いてなくてよ、またダブルになっちまうけど堪えてくれよ」
「ううん。こんな部屋に泊まれるだけでもありがたいよ。それにベッド広そうだし、いいんじゃないかな?」

 鎌先の家にいる間は、二人で鎌先のセミダブルベッドを使っていた。海は最初、床でもいいと言って遠慮したのだが、予備の布団もないし、床は不衛生だろうと却下され、結局一緒に寝ていたのだった。
 二人ともそれなりの体格をしているせいで、同じベッドで寝るのは少し窮屈に感じられた。けれどどちらも寝相がよく、いびきも掻かないから寝苦しいことはなかったし、すぐ慣れた。

「鍵二つもらったから、一個はお前に渡しとくな」

 差し出されたカードキーを海は丁寧に両手で受け取る。

「俺はカジノに入り浸る予定だけど、お前も来るか?」
「え、こんな真昼間からカジノに行くの!?」
「おう。安心しろ、金はちゃんと大事に使うし、無茶なことは絶対しねえよ。それにオレって結構運がいいんだぜ? がっぽり稼いでお前にもなんか奢ってやる!」
「期待しないで待ってるよ。俺はとりあえず船の中を散策してみようかな」
「了解。飯も自分のタイミングで行けよ。一人が寂しけりゃ呼んでくれ」
「わかった」

 行ってくるぜ、と鎌先は元気に部屋を飛び出していく。汽笛の音がけたたましく鳴り響いたのはそのときだった。一瞬の間を置いて船全体が揺れ動く。
 ベランダに出ると、海たちを乗せた船は岸からゆっくりと離れ始めていた。出港の時間になったようだ。果てしなく広がる未知の世界への旅が、いよいよ始まる。



 甲板には心地よい潮風が吹きつける。船が立てる水飛沫の音を聞きながら、海はついさっきまで足をついていた陸が遠くなっていくのを眺めていた。
 船の向かう先に島や陸らしきものは見えない。ただただ闇色をした水の世界が彼方まで広がっているだけだ。墨汁を垂らしたような色をしていても、それは決して海水自体に着色があるわけではなく、逆に驚くほどに澄んでいる。手すりから下を覗き込めば、海の中を忙しそうに泳ぐ魚の群れを容易に見ることができた。

(それにしても澤村くん、無事でいるだろうか……)

 こうして落ち着いてみると、胸にしまっていた心配事が浮き出てくる。
 ともに次元の狭間に巻き込まれ、この世界に飛ばされてきたはずの大切な人は、いまどうしているだろう? 危険な目に遭ってはいないだろうか? 自分のように親切な人に助けられているならいいが、一人でこの知らない世界を彷徨っているなら早くなんとかしてあげたい。けれど海には彼を捜す術がなかった。世界中を探し歩いたとしても、一人の人間を見つけることはあまりにも難しい。
 ならばやはり、自分たちのようなイクシオン人に国籍を与えてくれ、生活の支援までしてくれるという聖彼王国に彼が行き着いていてくれることを信じるしかない。信じたから、こうして聖彼行きに船に乗ったのだ。

「――お兄さん」

 突然声をかけられたのは、海が想い人の顔を思い浮かべていたときだった。







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