四章 黄昏の声 薄暗い闇が辺りを支配している。研磨はその闇の中に独りぽつんと佇んでいた。 遠くのほうは夕刻を迎えた西の空のように紅蓮色に染まっており、何もない空間には飛空艇が飛ぶ様子を連想させる、重く暗い音が響き渡っていた。 (ここは……) 研磨はここを知っていた。ずっと昔、自分がまだ幼い頃に来た覚えがある。けれどここがどこで、どんな目的でやってきたのかは思い出せない。いまだってなぜここにいるのかわからないでいる。 『――研磨』 声がした。どこから聞こえたのかはわからないが、確かに誰かが自分の名を呼んだ。 『研磨よ。私の忠告に耳を貸すがよい』 無機質だが男の声だと認識できる声である。しかし声の主は依然として見当たらない。 『いい加減目を覚ませ。いつまで“弱々しい少年”を演じているつもりだ』 「え……?」 『……本当の自分を見失ってしまったか。まあよい。そうなってしまったのなら私が汝の真実の姿を教えてやろう』 この人は何を言っているのだろう。姿のない声に心中で疑問をぶつける。 『汝は“極限の闇”だ』 「はい?」 『“極限の闇”。闇に自分の心を差し出し、代わりに特別な力を得た。汝は幼い頃、ここで私に心を渡した』 「そ、そんなことおれは知らない……」 意味不明な言葉に研磨は困惑した。 『汝が知らなくても私は知っている』 無機質な声は調子を変えずに続ける。 『幼くしてお前はここに迷い込み、自らの意思で心を売ったんだ。私はお前から心を抽出して瞬時にそれを闇色に染めた。そうして極限の闇……いまのお前が生まれた』 意味不明意味不明意味不明意味不明意味不明意味不明。 次から次へと訳の分からないことを言う“声”に、研磨は怒りを通り越して呆れを感じていた。 (そうだ、これは夢だ) 夢夢夢夢夢夢夢夢夢。 夢だから“声”に耳を貸す必要なんてない。極限の闇だとかなんだとか、そういうのは軽くスルーすればよい。けれど研磨に語りかける声はまるで心を鷲掴みにするように、重い響きを持たせて内耳に入り込んでくる。 『極限の闇として生まれたお前の使命は人間を抹殺することだ。すべての者に死を与え、その死玉をエネルギーにして力を強める。そして最終的には闇を倒して自らが次の闇となるのだ』 「あなたはいったい誰?」 『それを知る必要はない。研磨よ、その船に乗っている人間をすべて殺せ』 「おれにできるわけがない」 『お前にはできる。――さあ、一人残らずあの世へと送ってあげるがよい。そうだ、これを使うとよい』 突然眼前に出現したのは、一丁の拳銃だった。 「おれにはでき……る。おれにはできる」 研磨の意思とは裏腹に、口はとんでもないことを口走っている。そして自らの手が、出現した拳銃を勝手に掴み取ろうとしていた。 「い、嫌だ!」 見えない力に逆らおうと手をめちゃくちゃに振るが、その拍子に指が拳銃の引き金に引っかかり、見事にそれをすくい上げてしまった。 『さあ、やるのだ。己の使命を全うするのだ』 ◆◆◆ 船旅が始まって三日目の朝。起床してから部屋で朝食を済ませ、こうして甲板に出て潮風に当たる。それがこの船に乗ってからの海の日課になっていた。 広い甲板には大きなプールがあるが、朝の間は人の姿も疎らだ。初日からいろいろ娯楽施設を巡ってきたが、プールではまだ一度も遊んでいない。だから今日はここでのんびりしようと春樹と約束していた。 「信、おはよう」 そうして昨日と同じように、春樹も甲板にやって来た。その隣には昨日船酔いしていた金髪の少年の姿もあり、海は二人に向かってにこりと微笑む。 「おはよう。えっと、研磨くんだったよね? 体調はよくなった?」 「うん。心配かけてごめんね」 「ううん。元気なら何よりだよ。あ、春樹くんから聞いてるかもしれないけど、俺は海信行って言います。よろしくね」 「こちらこそ」 研磨はぺこりと頭を下げた。 「なあ信、ちょっと訊きたいんだけどさあ」 春樹がプールを横目に言ってくる。 「鎌先靖志って人知ってる?」 「え、靖志くん? それなら知ってるよ。ほら、俺と一緒に船に乗ってる人がいるって言っただろ? その人だよ。靖志くんがどうかした?」 「研磨が探してるって言うからさ」 「え、そうなのかい?」 どうして研磨が鎌先のことを知っているのだろう? そう思いながら視線を送ると、研磨はその猫のような瞳を海から逸らした。 「……探してるわけじゃないよ。ただ、噂でそういう名前の人がいるって聞いただけ。特に用があるわけじゃないよ」 「ああ、ひょっとしてカジノで二日連続の儲けを出してるから噂になったのかな?」 「え、その人また勝ったのか?」 「初日ほどじゃないけど、昨日もそれなりに稼いできたみたい。そのうち二人にも紹介するよ」 楽しみだな〜、とはしゃぐ春樹に対し、研磨は自分から話題を出しながら、すでに興味のなさそうな顔をしていた。 「とりあえず水着買いに行こうぜ」 「あ、うん。そうだね」 「信はブーメランタイプのが似合いそうだな〜」 「それは喜んでいいのかな? どっちにしても恥ずかしいから絶対嫌だよ」 ◆◆◆ 向こうのほうで楽しそうに会話している男女がいた。恋人同士だろうか? それともただの友人? いずれにしても“彼”にとってはどうでもいいことだった。 “彼”の手には一丁の拳銃が握られていた。弱々しい容貌とは不釣合いだが、いまの彼の周囲には、その凶器の禍々しさに似合う重々しい殺気が取り巻いている。 “彼”はゆっくり、まるで老人の歩調のようにゆっくり――だが確実に、笑い合う男女に近づいていく。射程内に入ったところで拳銃の照準を、まずは男の額に合わせた。 ――殺せ。 闇からの無感情な声を聞いて、“彼”はゆっくりと――しかし躊躇いはなく引き金を引いた。 ◆◆◆ 「研磨のやつ遅いな」 プールサイドの、海の隣の椅子で横になっていた春樹が、身体を起こしてそう言った。 トイレに行くと言って研磨が席を離れてからもう十五分くらい経っただろうか。海もさっきトイレに行ったが、ここからそんなに遠い距離ではない。せいぜい一、二分といったところである。行き帰りに時間はかからないから、研磨の身に何かあったのだろうかと心配した。 「また体調悪くなっちゃったのかな?」 「もしかしたらそうかも。ちょっと様子見て来るよ」 「俺も行く」 二人して椅子から立ち上がり、プールから一番近いトイレに向かって歩き出す。――何かの破裂音のようなものが鼓膜を叩いたのは、まさにそのときだった。 「なんだ!?」 海も春樹も驚いて足を止め、周りの乗客たちも何事かと騒ぎ出す。少しの間を置いて中のほうから悲鳴のような声と慌しい足音が聞こえ始めた。 「なあ、いまの銃声っぽくなかったか?」 「言われてみれば確かにそうだったかもしれない……」 「ひょっとして誰か撃たれたのかな?」 「ま、まさか、そんな……」 平和な日本の、ましてや地方で育った海に銃撃なんてものは無縁だった。けれどこの世界ではそうじゃないんだと、鎌先がいつか教えてくれたことがある。もし本当に銃撃なのだとしたらどうしよう……。一抹の不安が海の心に渦巻いた。 「ちょっと見て来る。もしかしたら研磨が何かに巻き込まれてるかもしれないし」 「え、でも危ないよ」 「大丈夫だって。逃げ足にだけは自信あるから。信は待ってていいよ」 「い、いや、俺も行くよ」 本当は危険に近づきたくはないけれど、春樹を一人で行かせるのは心配だったし、戻って来ない研磨のこともそうだ。 建物の中に入ると、すぐに人垣に出くわした。何かを囲うようにして人々が集まり、その輪の中から担架を担いだ船員が急ぎ足に出てくる。 「人が撃たれたんですって」 「まあ、恐い」 「犯人は捕まったのか?」 「いや、わからん。人が倒れてるのしか見てない」 周りの野次馬たちの話声から察するに、さっきの音は銃声で間違いないようだった。そして男女二人が血を流してここに倒れていたという。海は自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。恐い。こんなことが現実にあるなんて、恐い。こんなに近くで事件が起こるなんて恐い。恐い。ただひたすらに恐い。 「撃たれたの、研磨じゃないよな?」 顔を青くした春樹が救いを求めるように海の腕を握ってきた。それで海は現実に引き戻される。 「さっきちらっと担架が見えたけど、違うみたいだったよ。でも研磨くんのことは心配だな。トイレにいないか探しに行こう」 「わかった」 トイレに向かう前に二人はロッカールームで水着から私服に着替えた。急ぎ足でトイレに向かう途中で、船内放送が流れ始める。 『ご乗船の皆様にお知らせします。ただいま船内設備に異常が発生し、乗員による安全点検を行っております。つきましては、スムーズに点検作業を行うため、ご乗船の皆様には一度ご自分の客室に戻っていただきたいと思います。突然のことでご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。点検が終わりましたら、皆様のお部屋にお詫びの品をお持ち致しますので、船員が伺うまでいましばらくお待ちください。なお、航海上の安全に影響を及ぶすようなトラブルではございませんので、当艦は予定通りに聖彼王国への航海を続行致します。御心配並びにご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありません。繰り返します……』 船内設備の異常なんて嘘だ。銃による殺人、あるいは殺人未遂事件が起こったのだと海たちも含めた甲板付近の乗客は知っている。けれどこれは必要な嘘だ。本当のことを言えば船内はパニックに陥るだろうし、海が船員だとしても同じような内容の放送を流しただろう。 甲板付近にいた乗客は事実を知っているだけに、客室への退避が早いようだった。ロッカールームにはどっと人が押し寄せていたし、ちらっと見えたプールサイドには人の姿はすでになかった。 トイレに辿り着くと、中に入って個室を一つ一つ確かめる。どこも空っぽだ。多目的トイレも覗いてみたが、研磨の姿はなかった。 「ひょっとしたらもう部屋に戻ったのかもしれないね」 「あ、おれあいつの部屋番知ってるぜ」 「じゃあ一応様子見てみようか? 一人で不安になってるかもしれないし」 「そうだな」 今度は客室を目指して歩き始める。途中銃撃の犯人と出くわさないだろうかと内心でひやひやしていたが、それは杞憂に終わった。 「研磨ー! 俺だけど、中にいるのか?」 研磨の部屋のドアをノックしながら、春樹が中に呼びかける。しかしそれに対する応答はなかった。代わりに海の耳がわずかに捉えたのは、小さな、消え入りそうな悲鳴だった。 ドアに触れた手に力を込めると、それはいとも簡単に開いた。一瞬春樹と顔を見合わせたあと、躊躇いがちに部屋の中へと入る。 「研磨くん、いるの?」 奥に配置されたベッドの上で、シーツに包まった何かが動いた。おそらく研磨だ。 「大丈夫?」 声をかけるが、研磨はシーツの中から出てこようとはしなかった。 「研磨、鍵かけねえなんて不用心だぞ。不審者が入ってきたらどうすんだよ」 「えっ……? さっきちゃんとかけたはずなのに……」 やっと研磨の声が返ってくる。彼が無事でいることに海は安堵し、思わず溜息を零した。 「心配したんだぜ。トイレ行ったまま帰ってこないからさー。つーかなんでさっきから布団被ったままなんだよ? 顔くらい見せろよな〜」 「来ないでっ!」 普段の弱々しい研磨からは想像もつかないような鋭い声が、ベッドに近づこうとした春樹の足を止めた。 「ど、どうしたんだよ? なんか怒ってんのか?」 「なんでもいいから、二人とも早く部屋から出て行って! 早く!」 さっき一緒にいたときの大人しい様子とはまるで違った研磨の態度に、海はかなり困惑していた。それは春樹も同様だったが、彼の場合はそれがすぐに怒りに変化して、ズカズカとわざと足音を立てながらベッドに近づいて行った。海が制止する間もなく、春樹は研磨の布団を引き剥がしにかかる。 「人が心配してたってのに、なんだよその態度は! 出て行けってなんだよっ! おれらがお前に何かしたってのか? 理由を――」 激しく捲し立てる春樹だったが、布団を引き剥がすのに成功した瞬間にその声が急に止まった。後ろで春樹を落ち着かせることを考えていた海も、眼前の光景に思わず息を飲む。 なぜなら布団から出てきた研磨が、呆然と立ち尽くす春樹に拳銃の銃口を向けていたからだ。 |