五章 研磨の暴走 「研磨、お前……」 春樹が上擦った声を漏らした。そんな彼に銃口を向ける研磨の目には、それが冗談ではないと一目でわかるほどの殺気に満ちている。研磨ではない別の誰かをそこに見ているかのような錯覚に陥りながら、海は緊張で身体が強張るのを自覚した。 「おい、冗談はやめろよ。どうせおもちゃなのかもしれねえけど、おもちゃにしたってそんなもん向けられたら気分悪いよ。だから……さっさと下ろせ」 目の前の光景が冗談であってほしい。春樹の表情がそう言っている。海もそう思いたいが、あの鋭い目は本気だ。手に持っている銃もきっと本物で、彼が指を引けば春樹は一瞬で命を落とすだろう。 「春樹くん!」 海が咄嗟に春樹の腕を引っ張っていなければ、今頃彼の額には一つの穴が開いていただろう。耳をつんざくような銃声とともに吐き出された鉛玉は、春樹の真横を通過して壁に突き刺さる。 やっぱり銃も殺気も本物だ。けれどそんなことに衝撃を受けている暇などなかった。 「逃げよう!」 いま大事なのはこの部屋から出ることだ。自分たちの命を守るために素早く逃げなければならない。海は春樹の腕を掴んだまま駆け出した。 ◆◆◆ 「くっそー、船内設備の異常ってなんだよ。せっかく流れに乗ってきてたっつーのに」 突然の船内放送とスタッフの誘導によりカジノから追い出された鎌先は、ぶつくさと文句を言いながら自室に戻っている途中だった。昨日や一昨日のように上手く流れを掴み、勝ちが目前に迫ってきていた中でのゲーム中断は、腹立たしさばかりが募って仕方ない。 (ま、ゲームはちゃんとさっきの状態から再開するって言ってたし、ちょうど昼飯時だから我慢してやるか) そう呟いた瞬間だった。銃声のような音が聞こえたと思うと、いましも通りがかろうとした客室のドアが勢いよく開いた。飛び出してきたのは坊主頭が特徴的な青年と、小柄な少年の二人だ。 「って、信じゃねえか! 何してんだよ!?」 「靖志くん、その部屋から離れて!」 何が起こっているのか訊く間もなく、海は少年の腕を引いて走り去って行く。 「いったいなんだっていうんだ……?」 疑問を一人虚空に投げかけたとき、新たな影が開け放たれたドアの向こうから姿を現した。 それは肩より少し短い金髪をした青年――あるいは少年だった。顔はいかにも不健康そうな色を帯び、その顔立ちからして気弱な性格だと一目でわかるが、しかし彼の手には一丁の拳銃が握られている。さっきの銃声の正体はひょっとしたらあれなのかもしれない。 少年は鎌先と目が合うと、その銃口をゆっくりとこちらに向けてきた。 「もしかして、これってピンチなのか!?」 鎌先が焦りを言葉にした次の瞬間には、破裂音が廊下に響き渡っていた。放たれた銃弾はまっすぐに鎌先へと伸びていき、そして彼の右胸の辺りを貫く――はずだった。しかしその銃弾は鎌先の身体に接触する寸前に、突如出現した電撃によって撃ち落される。 「危ねえ、危ねえ。久々に使うから心配したけど、案外感覚は鈍ってねえのな」 鎌先は自分の手のひらを見つめながらそう呟いた。 “サンダー”――攻撃魔法の基礎中の基礎だ。魔法は鎌先の得意分野だが、魔物や盗賊なんかと縁のない平和なアカシア村にいる間、それを使う機会はほとんどなかった。本能的に唱えた割には思いどおりに使えたことに、思わずホッとする。 「ガキがそんなもん持ってると怪我するぜ?」 次の攻撃の準備に入っていた少年に向けて、鎌先は二発目のサンダーを放った。出現した電撃は上手く少年の手から拳銃を引き剥がし、鎌先は足元に転がってきたそれを拾い上げた。 獲物を失った少年は焦りを見せるかと思えば、表情も変えずに今度はポケットからナイフを取り出してこちらに近づいてくる。けれど鎌先は少しも焦ったりしない。 「少しの間寝ててくれな」 言い聞かせるように囁くと、指をパチンと鳴らす。すると少年の周りに白い靄のようなものが発生し、それを吸い込んだ彼の目がとろんと垂れてくる。やがて糸の切れた人形のように、パタリと床に倒れ込んだ。 「マジでなんなんだよ……」 その答えを知るために、鎌先は少年を抱えて歩き出した。 ◆◆◆ 自室に逃げ込んだ海は、引っ張ってきた春樹がちゃんと中に入っているのを確認してからドアの鍵を閉めた。チェーンロックも掛けたところで、ようやく安堵の息が零れる。 「春樹くん、怪我してない?」 床に座り込んだ春樹に訊ねると、彼は肩で息をしながら頷いた。 「信は?」 「俺も大丈夫だよ。でも心臓がやばい。走ったせいもあるけど、それよりも研磨くんがあんなことをしてきたっていうのが……ね」 「ああ、マジですげえショックだった。いい感じに仲良くなれてたし、結構なついてくれてると思ってたのに……」 春樹は俯いたまま、沈鬱な気分を隠さずそのまま声にする。 「きっと何か事情があるんだよ。それに研磨くんはすぐに部屋を出ていくように警告してくれた。もし本当に春樹くんや俺に危害を加えるつもりでいたなら、何も言わずに撃つほうがずっと確実だと思う。ひょっとしたら誰かに脅されてるのかもしれないよ」 その言葉はあくまで海の願望だったが、可能性がないわけじゃない。やはりあの気弱な少年が自分の意志で人を殺そうとするようにはとても思えなかった。 コンコン、とノックの音がして海は思わず飛び上がる。研磨がここまで追ってきたのだろうか? ドアはちゃんと施錠したし、離れているからドア越しに撃ってきても大丈夫だろうが、身体は緊張に強張った。 「おい、信! いねえのか?」 ドアの向こうから聞こえてきたのは、同室の鎌先の声だった。さっき研磨の部屋の前に置いてきてしまって不安だったが、どうやら無事だったようだ。 「靖志くん、いま開けるよ。というか鍵持ってるんじゃなかったのか?」 「いま両手が塞がってんだよ」 海は素早く鍵を開け、鎌先が入れるようにドアを引く。 入ってきた鎌先の姿を見て、海だけじゃなく春樹も驚いた。なぜなら彼の腕には、さっき自分たちを追いかけようとしていた研磨の華奢な身体が抱えられていたからだ。 鎌先は研磨の身体を奥のベッドに下ろし、こちらに戻ってきてソファーにどっかと腰を下ろした。 「研磨くん、寝てるだけ……だよね?」 「おう。魔法で眠らせた。こいつはいったいなんなんだ? どうして信やそこのもう一人のを追いかけてたんだ?」 「それが……俺たちにもよくわからないんだ。彼を怒らせるようなことをした覚えもないし、そもそもそういうことをするような子じゃないんだけどな……」 「もしかして夢遊病とかかな?」 そう言ったのは春樹だった。 「……それならいいけど、でもきっとそうじゃないよ。研磨くんはちゃんと起きてた。だって俺たちに部屋を出ていくよう警告しただろ?」 「部屋に見られたくねえもんでもあったのか?」 鎌先の質問に、海は首を横に振って答える。 「そういうニュアンスには聞こえなかったな。なんというか、逃げたほうがいい、って言いたそうな感じだった。俺の勘違いかもしれないけど……」 「逃げたほうがいい、か……。お前らを撃とうとしたのは自分の意思じゃなかったってことか?」 「そうだと思う……いや、俺はそう思いたいな。だってそのつい数十分前まで、普通に仲良くしてたんだよ? 口数の多い子じゃなかったけど、俺たちといて楽しそうに見えた」 もしも彼を操っている誰かがいるなら、そいつがどんな目的を持ってそういうことをしているのであろうと赦さない。こんな気弱な子に人を殺させようとするなんて絶対に間違っている。 「もしかしたら……」 鎌先が神妙な表情で口を開いた。 「あ、いや、あとでいいや」 「なんだよ? 気になるじゃないか」 「推理してるよりも本人に直接訊いたほうが早いだろ? ほら、お目覚めだ」 鎌先の視線を辿ると、ベッドの上でもぞもぞと動き始めた研磨の姿に行き当たる。しばらくすると固く閉じられていた彼の目が、ゆっくりと開き始めた。 「研磨くん!」 海はベッドに歩み寄る。一度彼に拳銃を向けられたけれど、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。 「俺がわかる?」 猫のような目が海のほうをまっすぐに見つめる。じっと見ていると吸い込まれそうな、不思議な輝きを持っていた。 「信行くん……」 「そう。よかった、ちゃんと覚えてるんだね」 「ここはおれの部屋……じゃない。どこ?」 「俺の部屋だよ。何があったかは覚えてる?」 「何が……? 確か春樹くんと信行くんと一緒にプールに行って、遊んでいたらトイレに行きたくなって、それで……あっ」 何かを思い出したように、研磨の表情が固まった。それは見る見るうちに青く染まっていき、やがてこの世のすべてに絶望したような、あるいは救いようのない不幸に襲われたような顔で震えだした。 「おれ……人を撃ったんだ。あの人たちだけじゃない。信行くんや春樹くんのことまで……」 「そうだよ。お前は俺たちを殺そうとした。ちゃんと覚えてるんだな」 いつの間にかベッドのそばに来ていた春樹が、声を荒げて研磨を非難する。 「信が腕を引いてくれなきゃ、おれはたぶん撃たれて死んでた。お前に殺されてたんだっ。なあ、なんで撃とうとしたんだよ? おれがお前に何かしたのか!? なあ!?」 「ち、違うっ。おれは人を撃ちたくなんか……殺したりなんかしたくないっ」 「でもお前はあのときおれらを殺そうとしたじゃねえか!」 「その辺にしとけ」 いまにも研磨に飛びかかろうとしていた春樹を制したのは、意外にも鎌先だった。 「そいつを責めたってどうしようもねえよ。たぶん、信の推理は当たってんだ。撃ったのはそいつの意思じゃねえってやつ」 「え、そうなのか!?」 「おう。でもまだ確信があるわけじゃねえ。だから、え〜と……研磨だっけ? 俺の質問に答えてくれ。あ、俺は信の連れの鎌先な」 鎌先は人の好さそうな笑みを浮かべてみせるが、それでも研磨は少し怯えていた。 「お前さ、変な夢を見なかったか?」 「変な夢……?」 「そうだ。周りは真っ暗で、けど遠くのほうは夕方の空みてえなオレンジ色で、その中に一人ぽつんと立ってるんだ。そんで声が話しかけてくる」 「ど、どうしてそれを知ってるの……?」 「やっぱりあれを見たんだな」 夢? 声? 鎌先の言っていることは、海にはさっぱりわからなかったが、どうやら研磨には通じているようだった。 「信、やっぱお前らを撃とうとしたのはこいつの意思じゃねえよ」 「え、本当に!? どうしてわかったの? というか研磨くんの意思じゃないなら、いったい誰が研磨くんにそんなことを?」 夢がどうとか言っているということは、ひょっとして研磨は薬物でも投与されたのだろうか? だとしたらいったい誰が? この船に一緒に乗っているのだろうか? 気になること、知りたいことがたくさん湧き出してきて、海は思わず鎌先に詰め寄る。 「この世界には盗賊だの魔物だの、一般人とって危ねえ存在が数え切れねえほどいる。けど盗賊も魔物も姿かたちが見えるだけまだわかりやすいし、どうにかできねえこともねえ。問題はそうじゃねえやつらだ。人間の目には映らねえ、けど確実に存在する脅威。魔物よりもずっと質が悪いやつらだ」 「ファントム……」 春樹が固い声で、鎌先の言葉が指すものの名を口にした。 「そう、ファントム。そんで研磨に憑りついたのはその中でも最悪なやつ。人間の心を支配して、思うように宿主を操る憎悪の塊」 そして鎌先が、この事態をもたらした諸悪の根源を――研磨を操り、人を殺させようとした悪の正体を、重々しい声で二人に告げる。 「“ハルモニアの闇”――それが研磨を操っていたものの正体だ」 |