六章 ハルモニアの闇


 それは鎌先が十一歳――聖彼の学校に通っているときのことだった。

「一喜!」

 家への帰り道、前を歩く友人の後姿を見つけて鎌先は呼びかける。振り返った彼――丸山一喜は、目が合うと弱々しいが確かに微笑んでくれた。

「鎌ち、家から迎えが来てるんじゃなかったのか?」
「たまには歩いて帰りたいんだよ」
「たまにはって……俺の記憶が正しければ、歩いて帰ってることのほうが多い気がするんだけど。家の人に怒られないのか?」
「怒られたって別にいいんだよ。どうやって帰ろうがオレの自由だ!」
「はあ……まあ、鎌ちがそれでいいならいいけどよ」

 呆れたように溜息をついてから、丸山は再び歩き出す。鎌先はその隣に並んだ。

「オレの家のことより、お前の家はどうなんだ? 父親とは相変わらずなのか?」

 丸山は父子家庭だ。兄弟もおらず、母親が亡くなってから三年も二人きりで生活しているのだが、その父親が丸山にずいぶんと冷たいと前に話していた。冷たくなったのは母親が亡くなってから。それまでは休日に遊びに連れて行ってくれる優しい父親だったのが、その日からまるで人が変わったように、丸山を突き放すような態度をとることが増えたらしい。
 丸山自身もここ三年で性格が変わってしまったと鎌先は思う。前はもっと明るくて、同級生たちを引っ張るリーダー的な素質も発揮していたのに、いまではすっかり大人しく、あまり自分の意見を言わない人間になってしまった。

「何も変わらないよ。最後にまともに話したのがもういつなのかわからないくらい、話してない」
「先生に相談してみたか?」
「したって無駄だよ。別に暴力を振るわれてるわけじゃないし、生活の面倒も見てくれてる。生きていくのには困ってないから」

 そう言いながらも、丸山の顔はどこか寂しげだった。けれどそれ以上鎌先も何を言えばいいのかわからなくて、黙ったまま彼の隣を歩いた。

「……鎌ち、俺最近さ、変な夢見るんだ」
「夢?」
「うん。ここ一週間くらいは毎日その夢を見てる。暗くて何もない場所で、遠くのほうは太陽が沈むときみたいなオレンジで、そんなとこに一人で立ってるんだ。どこなんだろうって周りを見てたら、声が話しかけてきた。お前は“極限の闇”だって。お前は人を殺さなきゃいけないんだって」
「それを毎日?」
「うん。最初は変な夢だな、くらいにしか思ってなかったけど、なんか段々夢の声が現実でも聞こえてくる気がして、恐いんだ。それになんか俺、本当に誰かを……父さんのこと殺さなきゃいけない気がしてきて……」

 丸山は何かに怯えるように自分の身体を両腕で押さえた。

「お前、疲れてるんだよ。つーかストレス? 父親とずっとよくねえ状態が続いてるし、最近勉強もかなり気合入れてやってるんだろ? たまには休憩しろよ。そういうの全部忘れて、パーっと遊んだりしたほうがいいぜ? むしろいまからオレと遊ぶんだ!」
「遊ぶって……今日は勉強するから駄目だよ。また今度……」
「お前に拒否権はねえ! もう使いすぎて持ってた回数全部なくなっちまったから!」
「あ、おい、鎌ち! お前だって自分の家のことがあるだろ!」
「んなもん今日はどうだっていいんだよ!」

 鎌先は丸山の手を引いて、夕刻の迫る街の中を走り出した。
 最初は何をするのもムスッとしていた丸山だったが、三十分もするとその顔にも笑みが浮かび始め、鎌先と遊ぶことを素直に楽しむことに決めたようだった。
 丸山のことはずっと心配だった。だからこうして楽しく遊べたことに鎌先は安堵する。こうしてたまに自分が連れ出してやれば、彼がいろいろ溜め込まずに済み、これ以上暗くなるようなこともないのかもしれない。ならばこれからも自分が彼を連れ出して、いろんなところに連れて行こう。丸山の穏やかな笑顔を見ながら、鎌先はひっそりとそう決意するのだった。



「無断欠席?」

 隣のクラス――丸山のクラスに在籍する友人から知らされた言葉を、鎌先はもう一度繰り返す。

「そう。先生が朝、おれらに丸山の休みについて何か聞いてる人はいないかって訊いてきてさ。家に電話しても出なかったらしいよ」
「え……」

 寒気のようなものが背筋を通り過ぎる。同時に数日前に丸山が話していた夢の話を思い出し、鎌先は慌てて学校を飛び出した。
 あのときの丸山の怯えた様子や疲れ切った表情――そして言葉の数々が頭の中に甦る。

『なんか俺、本当に誰かを……父さんのこと殺さなきゃいけない気がしてきて……』

 鎌先の記憶に強く残ったその言葉が、嫌な予感に変わって胸の中に渦巻いていた。その言葉が現実になってはいないだろうか? ストレスに耐え兼ねて暴走してはいないだろうか? ネガティヴな想像ばかりが浮かんできて、慌ててそれを振り払おうとするが上手くいかない。そうこうしているうちに丸山の家に辿り着いていた。
 一応呼び鈴を鳴らしてみるが、やはり応答はなかった。玄関のドアには鍵がかかっている。勝手口はどうだろう? 不躾ながらも庭先に侵入し、家の裏に回ってみる。
 勝手口のドアノブを捻ると、いとも簡単にドアは開いた。中は洗面室になっており、洗面台の鏡には顔色の悪い鎌先自身の顔が映っていた。洗面室を出ると広い廊下があり、右に曲がった突き当りがリビングのはずだ。丸山の家に入るのはかなり久しぶりだったが、その構造はなんとなく覚えている。
 この中に丸山はいるだろうか? 何も起きていないだろうか? ドアノブに触れた手が不安に震えていた。けれどここまで来て何も確かめずに帰るわけにはいかない。鎌先は思い切ってリビングのドアを開けた。

 その瞬間、錆びた鉄のような独特の臭いが鎌先の鼻腔を刺激した。

 不快なそれに一瞬咽かけながら視線を巡らせた先に、床に倒れた男の姿を見つけた。この顔は知っている。丸山の父親だ。飛び出そうなくらいに見開かれた目と、口。その口がもう呼吸をしていないことを、鎌先は一瞬で悟った。なぜなら丸山の父親の額に、小銭ほどのサイズの穴が開いていたからだ。床はおびただしい量の血で汚れており、彼の生死をはっきりと物語っている。

「嘘だろ……」

 恐れていた最悪の事態がすでに起こっていた。――いや、違う。まだ丸山がやったと決まったわけじゃない。強盗の類が押し入ったという可能性も考えられる。それならそれで丸山の身が心配だ。

「――鎌ち」

 突然降りかかった声に、鎌先は文字どおり跳び上がった。おそるおそるといった感じで声のしたほうに視線を向けると、ソファーの上で丸山が膝を抱えていた。いつもは鋭さを感じさせる吊り気味の目からは、涙がボロボロを零れ落ちていた。

「一喜! いったい何があったんだよ!?」
「おれ……本当に父さんを殺してしまった。あの声が呼びかけてきて、それで……」

 涙に震える声で事実を告げた丸山の手には、小さな拳銃が握られている。小さくても人を殺すには十分な役割を果たすだろう。

「馬鹿野郎! なんでこうなる前にここから逃げなかったんだよ! 辛くて苦しいなら逃げりゃよかったんだ! オレんちでも、先生のとこでも、行くとこはあっただろ?」
「そんなことはできないよ。そんな迷惑はかけられないし、声は……あいつは、どこにいたって呼びかけてくる。家にいても、学校にいても、道を歩いているときだって、いつもいつもついてくるんだ」
「そんなの幻聴だ!」
「違うっ、違うんだっ。本当にいるんだよっ。いまだっておれのそばで囁いてる。鎌ちを殺せってさっきから何回も、何回も言ってるんだっ」
「な、なんでオレを……? オレ、お前に何かしたか?」
「鎌ちは何もしてない。むしろいつもおれのこと心配してくれて、遊びに連れ出してくれて、すげえ嬉しかったし、大好きだよ。けど声にとっておれの感情なんか全然関係ないんだ。全部、おれの周りの人間全部を殺そうとしてる。たぶん全部殺し尽くすまで言ってくるつもりなんだ」

 夢の話やその声のことは、最初父親に対するストレスが原因で起こった一種の病気のようなものだと思っていた。けれどいまの丸山の様子を見ていると違う気がしてくる。本気で怯えているその様は、声が実在し本当に丸山を操って人を殺させようとしているのではないかと信じたくなる。

「鎌ち、すぐにこの家から出て。できるだけおれから離れろ。鎌ちだけは絶対に殺したくない。大事な友達、殺したくないんだ。だから早く行けよ」
「行けるわけねえだろ! そんな状態のお前放っといて逃げて、何が友達だよ! そんな意味わかんねえ声なんぞ、オレが追い払ってやる!」
「鎌ち……」

 丸山は嬉しさと絶望をない交ぜにしたような瞳を鎌先に向けた。しばらく見つめ合ったまま、二人の間に気の遠くなるような沈黙が舞い降りる。
 やがて丸山が手に握ったピストルをゆっくりと持ち上げ始めた。このままこちらを撃つ気だろうか。もしそうだとしても、魔法を使えばなんとか切り抜けられるだろう。正直ナイフや鈍器じゃなくてよかったと心底思う。
 いつでも銃弾を弾き返せるように魔法を発動させる準備を整えたが、その銃口が鎌先に向けられることはなかった。銃口が向けられた先は――丸山自身の頭だった。

「おい、一喜っ!」
「鎌ちを殺すくらいならおれが死んだほうがましだ。それに死ねば声からも解放される。だからこれでいいんだ」
「馬鹿な真似はやめろ! お前が死ぬ必要なんかねえよ! それに、声かなんか知らねえけど、オレが追い払ってやるって言ったじゃねえか!」
「追い払うなんて無理だよ。あいつはもうおれと一体なんだ。何をしたって離れねえんだよ」

 魔法で丸山の手からピストルだけを引きはがすという手もないことはない。けれどコントロールに失敗して丸山に命中すれば、ケガどころでは済まないだろう。かといって力づくでピストルを奪いに行こうとしても、きっと鎌先の手が届くよりも彼が引き金を引くほうが早い。

(じゃあ、どうすりゃいいんだよっ)

 このまま目の前で丸山が自らの頭を撃ち抜くのを見ているしかできなのだろうか? 彼を助けることはできないのだろうか? 考えても、考えても、状況を打破する手段が出てこない。

「鎌ち、本当にありがとう。死んでも鎌ちのことは忘れねえから。だから……元気でね」
「一喜っ!」

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中に、耳を劈くような鋭い銃声が響き渡った。


 ◆◆◆


「そ、その人、死んじゃったのか……?」

 話の結末を吐露する直前で黙ってしまった鎌先に、海は堪らず訊ねていた。

「……いや、生きてるぜ」

意地悪げな笑みとともに告げられた答えに、海はホッと胸を撫で下ろす。

「引き金を引く寸前に魔法を使って、なんとか銃口の向きを変えることに成功したんだ。ただ、一喜にもちょっと当たっちまったから気絶させちまったけどな。けど逆にそのおかげでなんの造作もなく一喜をオレの実家に運ぶことができた。親父に声のことや一喜の様子を話したら、“ハルモニアの闇”の仕業だって教えてくれた」

 いま現在研磨を苦しめている諸悪の根源。おぞましいものだということを、鎌先の話を聞いて改めて認識させられる。

「そのあと、そういうのを専門にした魔道士に一喜を見せたんだけど、ハルモニアの闇はもういなかった。あれは基本的に弱い心に住み着くけど、自殺しようとするような弱すぎる心とは相性が悪いらしい。そんで一度入り込んだことがある宿主には二度と憑りつけない。だから一喜の件は一応それで解決した」
「研磨の場合はどうすりゃいいんだ?」

 春樹が真剣な面持ちで鎌先に訊ねた。

「専門の魔道士に魔法で引き剥がしてもらうしか方法はねえな。オレは魔道士だけどそっち系じゃねえし、この船にたまたま同乗してるなんてこともまあねえだろう。だから聖彼に着くまではどうしようもできねえ。ただ、事情は船長に話とかねえといけねえだろうな。銃撃の犯人探しに躍起になってるみてえだし」
「もし船長に言ったとして、研磨くんはどうなるんだ? やっぱり捕まっちゃうのか?」

 海と春樹は危ないところでなんとか逃げ切れたけど、それ以前に研磨は甲板で男女を撃っている。事情を話すということは、同時にそのことも明るみになるということだ。

「一時的に拘束はされるかもな。船側には他の乗客を守る義務があるだろうし。けど罪に問われることはないぜ? ファントムに憑りつかれてる間に犯した罪は、本人に責任なしだって国際的に法で決まってるんだ。ただ憑りつかれていたことを証明できなきゃいけねえけどな。お、そういや甲板で撃たれたってカップル、両方とも命に別状はなかったらしいぜ。だから研磨、お前も安心して……って、ありゃ!?」
「えっ!?」

 いきなり驚いた顔をした鎌先の視線を辿って、海もまた驚いて声を上げる。なぜならさっきまでベッドに横たわっていたはずの研磨が、いつの間にかいなくなっていたからだ。

「おい、研磨!」

 一番に見つけたのは春樹だった。見れば研磨が部屋のドアから外へ出ようとしている。春樹の呼ぶ声に一瞬だけこちらを振り返ったが、そのまま急ぎ足に部屋を出て行った。

「追いかけるぞ!」

 鎌先の鋭い声に海も春樹も素早く反応し、身を翻して研磨を追いかける。
 逃げ出した研磨は、きっとよくないことを考えている。それだけは海にもわかった。たとえば再び声に呼びかけられることを恐れて自殺を考えているとか。あるいは人を撃ってしまったことへの自責の念から、その罪を自分の命をもって償おうとしているとか。さっき鎌先のあんな話を聞いたばかりなだけに、そういう心配ばかりが浮かんでくるし、その想像が間違っているとも思えない。
 廊下の先に研磨の背中が見えた。逃げる研磨の足は意外と速く、海たちが全力で走ってもなかなか追いつけない。そうこうしているうちに甲板まで出てきて、止める間もなく研磨が先端部の縁に上がっていた。

「研磨……」

 春樹は声に絶望を滲ませていた。研磨が何をするつもりかなんて、誰に聞かなくてもわかる。

「春樹くん、おれと遊んでくれてありがとう。信行くんも、優しくしてくれてありがとう。二人のおかげでこの船にいるの、楽しかった。最後に、おれの意思じゃなかったけど、それでも銃で撃ってごめん……」

 研磨が謝罪の言葉を口にした瞬間に、目も開けられないほどの強い風が甲板に吹きつけた。その風が止んで再び目を開いたとき、縁に立っていたはずの研磨の姿は文字どおり、消えてなくなっていた。

「研磨くん!」
「研磨!」

 海と春樹は慌てて甲板の先に駆け寄った。眼下を確認すると、斜め後ろのほうで船の立てる飛沫に巻き込まれて溺れかけている研磨の姿を見つけた。
 研磨はあっという間に船の後ろのほうに流されていく。何とかして彼を救いたい。すぐに助けに行かないと研磨は溺れ死んでしまう。海は辺りを見回した。するとすぐ近くに救命用の浮輪を見つけ、慌ててそれを掴み取る。
 決意なんか固めている暇はない。とにかくすぐに助けに行くんだ。そんな強い思いを胸に抱えて、海は仄暗い海の中に飛び込んだ。







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