「この子の名前は“大地”。どんな地でも強く生きていけるように、その名前にするよ」

 夜を迎えた静かな病室の中に、女性の透き通った声が響き渡る。
 カーテンの開け放たれた窓の外では、大きな満月が上品な輝きを放っていた。それを眺める女性の腕の中には、生まれて間もない赤ん坊が抱かれている。いまは静かに眠っているようだ。

「もちろん、あなたの名前の頭文字を取ったっていうのもあるのよ?」
「君の名前からは取らなくてよかったのかい?」

 ベッドのそばに立っていた彼女の夫が、優しい笑みを湛えて問いかける。

「私の名前から取ろうと思ったら、どうしても女の子の名前になっちゃうんだもん。だからいいの」
「君がいいならいいけどさ。大地か〜。いい名前だな」
「この子はきっと、顔はあなたに似るわ。すでに目元がそんな感じだもの」
「そうかい? 赤ん坊のうちはまだわからないと思うよ」
「絶対似るわよ。できれば中身もあなたに似てほしいな。しっかり者で、優しくて……あなたのそういうところを全部もらってほしい」
「そうなるように育てるのが僕たちの役割だと思うよ。これから一緒にこの子を――大地を育てていくんだ」
「うん、そうだね。大事にしていこうね」
「君は自分のこともちゃんと大事にするんだよ。お母さんが無理して倒れてちゃ、赤ちゃんに心配されちゃうよ」
「私はそんなにか弱くありません」

 出産という一大イベントを乗り越えて、二人の間には束の間の平和な時間が舞い降りる。これからきっともっと大変なことが待ち受けているだろう。子育ての大変さは身内からよく聞かされているけれど、実際に体験するそれは想像以上に辛く、苦しいことに違いない。けれどそれがちゃんと幸せに繋がっていると信じている。だからこの子を――家族を守っていくのだと改めて強く決意する。

 大きな満月は、そんな夫婦と赤ん坊を空の上から優しく見守っていた。





 天空の微笑み 大地の怒り (Harmonia 第四部)




一章 聖彼王国


 着陸態勢に入った飛空艇から見えた眼下の景色に、大地は思わず呆然となった。
 まず一番に目に入ったのは、広い街の中心に聳え立つ巨大な城だ。サグラダファミリアを彷彿とさせる複雑な造形だが、色は眩しいくらいに白く、造形の優美さを一層引き立てている。あれがおそらく聖彼せいか城。この世界で一番強大な国を守る国王の住まいだろう。
 城を囲うようにして広がる街の建物も立派なものが多く、どれも西洋風のデザインでまとめられている。道路も綺麗に整備されているようで、上空から見るとその道路に沿って綺麗にまっすぐ建物が並んでいるのが見て取れた。
 聖彼王国王都、聖庭せいてい市。聖彼王国の中心――いや、ハルモニアの中心とも言える場所に大地は足を踏み入れていた。
 空港を出て街に入ると、道路は人でごった返している。バレーの試合をした虎宇都島とらうどとうの体育館でさえこんなにも人はいなかったし、大地の故郷でもなかなか見られない光景だ。
 猛にもらったスポーツバッグを肩にかけ直して、大地は聖彼城を目指して雑踏の中を進んでいく。見た感じ城までの距離はそう遠くなさそうだ。バスや電車もあるようだけど、歩きでもそれほど時間はかからないだろう。

 その判断が間違いだったことを、大地は三十分後に思い知ることになる。

「疲れた……」

 大地はその場に座り込んで、額からとめどなく流れ出る汗を服の袖で拭った。
 歩いても、歩いても、一向に聖彼城に辿り着かない。いまもこうして視界にあるし、決して遠く離れているようには見えないのに、さっきから全然近づいている気がしなかった。
 炎天下の中ということもあって、体力には自信のある大地も三十分歩いただけでずいぶんと疲れた。空港を出てすぐに買った飲み物も、すでに底を尽きそうだ。

「というか、ここはどこなんだ?」

 城を正面に捉えるようにして進んでいるうちに、複雑な裏路地に入り込んでしまったらしい。ゴールはどこにあるのだろう? すでに表通りへの戻り方もわからなくなっているし、とにかく先に進むしかない。
 何度か行き止まりに阻まれたり、分岐路の選択に迷ったりしているうちに、壁に空いた、人ひとりが通れるほどの大きさの穴を見つけ、そこをくぐると急に拓けた場所に出た。
 石畳の広いスペースの先には建物がある。出入り口と思われる両開きの扉からまっすぐ上に視線を上げると、十字架と人を象った彫刻が屋根の上に飾られている。

「もしかして教会……?」

 元の世界でも時々見かける建物に、大地はなんとなくホッとする。教会なら誰か人がいるだろうし、聖彼城までの道順を教えてもらえるかもしれない。ようやく見つけた希望に期待を滲ませながら、教会に向かって歩き出す。そして――扉の目の前まで来た瞬間に、その扉が中から急に開いて大地は額をぶつけてしまった。

「いでっ!」

 勢いこそそれほどではなかったものの、開いた扉が顔面にクリーンヒットしてはさすがに痛い。大地は涙目になりながら、じんじんと痛む額を押さえる。

「す、すんません! 大丈夫っすか!?」

 謝る声は若い男のものだった。顔を上げると、綺麗に刈り上げた坊主頭と僧衣がまず目に入る。こちらを心配そうに見つめる瞳は鋭さを兼ね備えているが、顔立ちは大地とそう歳が変わらなさそうだった。

「け、怪我とかはないっすか!? 病院行きます!?」
「あ、いや、大丈夫です。ちょっとぶつけただけなんで……」

 安心させるように笑うと、坊主頭の神父はホッとしたように表情を緩めた。

「ホント、すんませんっした。あ、教会まだ開いてるんで、どうぞ入ってください」

 坊主頭に促され、大地は開いた扉から建物の中に入る。中も大地の知っている教会とほとんど変わらない。扉から真一文字に通路が伸び、その先に祭壇と銅像が祀られている。通路の両サイドには木製の長椅子が何列か並べられていて、そこに座って世間話をしている人の姿も見受けられた。

「ひょっとしてこの辺の教会に来るのは初めてっすか?」

 いつの間にか隣に並んでいたさっきの坊主頭が、不思議そうな顔をして訊ねてくる。キョロキョロと無遠慮に辺りを見回していた大地が珍しかったのかもしれない。

「まあ……あの銅像はどなたなんですか?」
聖彼柳貴せいかりゅうき――大昔、円卓の騎士を封じたっていう召喚士さまっすよ。ほら、聖守せいしゅ戦争に出てくる、あの」
「すいません。俺、イクシオンから来たからあまりそういうのには詳しくなくて……」
「そうだったんっすね。聖彼には最近来たんっすか?」

 イクシオン人だと打ち明けても、坊主頭は虎宇都島で出逢った猛たちのような驚いた様子は見せなかった。イクシオン人は聖彼王国を頼ることが多いとよく聞いていたし、ひょっとしたら聖彼の人たちにとってはイクシオン人など珍しくないのかもしれない。

「実は今日着いたばっかで、道に迷った末にここに辿り着いたんです。あなたはここの神父さん……でいいんですよね?」
「そうっす。僧衣が似合ってねえかもしれねえけど、ここの神父で間違いないっすよ。あ、名前は田中龍之介っていいます。そっちは?」
「澤村大地です。歳も近そうですよね?」
「華の十六歳っすよ!」
「じゃあ俺の一つ下だ」

 出会ったのが歳の近い彼でよかった。聖彼城までの道順を訊くにしても、やはり歳の離れた大人だとなんとなく訊き辛く感じる部分があったし、龍之介は人懐っこくて訊ねるには打ってつけの相手だった。

「実は俺、聖彼城に行きたいんだけど――」
「龍、まだ買い出しに行ってなかったのか?」

 龍之介に事情を説明しようとした瞬間に、離れたところから別の声が割って入った。

「司教さま! いまから行くとこっすよ。教会に来るの初めてって人がいたんで、ちょっと説明したたんす」
「そうだったのか。じゃあそれは俺が引き継ぐよ。暗くなる前に買い出し行っておいで」
「了解っす。じゃあ、そういうことなんで大地さん、何か聞きたいこととかあったら司教さまにお願いします」
「あ、うん。いってらっしゃい」

 行ってきます、と元気よく手を振って龍之介は教会を出て行った。

「慌しくて申し訳ない」

 謝りながらこちらに近づいてくる神父の顔を改めて見て、大地は驚きのあまり心臓が止まりそうになった。
 神父は大地よりも少し背が高く、龍之介と同じように僧衣に身を包んでいる。髪の毛はちょうど大地と同じくらいの短髪だ。そしてその下の顔は――
(父さん……?)

 元の世界では毎日顔を合わせ、話をした父。いつも優しく微笑んでいた父。そしてもう二週間以上も顔を見ていない父。いま目の前にいる神父はそんな父とそっくりな――いや、まったく同じと言ってもいい顔をしていた。

「俺はこの教会を仕切っている長門慶喜っていいます」

 声だって父とそっくりなのに、その声が告げた名前は父とは別人のものだった。

(やっぱり似ているだけ、だよな? こんなところに父さんがいるわけないし……)

 別の世界で生きる父に、こんな異世界のど真ん中で出逢うなんてことはあり得ない。

「俺の顔に何か付いるかい?」

 神父――長門の顔に見入っていた大地は、慌てて首を横に振った。

「すいません、知り合いに似ていたのでつい……」
「へえ」

 長門はにこりと微笑む。その笑顔もやはり父によく似ていた。

「君の名前は?」
「澤村大地です。龍之介くんにはさっき話したんですけど、イクシオンから来ました」
「そうだったのか。聖彼にはやっぱり国籍をもらいに? 最近来たのか?」
「実は今日来たばっかです。国籍もらいに来たのもあるんですけど、一緒にこっちに来た友達を捜したくて……。あ、それとなんか俺、聖彼王に呼び出されてるみたいなんです。けどここに来る途中で使者の人とはぐれちゃって……」

 使者というのは、大地を魔物の森まで迎えに来てくれた岩泉のことだ。及川の襲撃を受けて以来、安否の確認が取れていない。

「聖彼王に呼び出されるなんてただ事じゃない。大地は何者なんだ?」
「ただのイクシオン人のはずなんですけど……。詳しいことは何も聞かされてません」
「う〜ん……まあ、どのみち謁見したほうがよさそうだね。とりあえず近くの役所に連絡を入れて、聖彼城に取り次いでもらおう……と言いたいところだけど、今日は祝日だから役所は休みなんだ。だから早くても明日まで待ってくれ」
「役所の場所を教えてもらえれば、自分で行きますよ?」
「大地がぱっと行くよりも、だぶん教会を通してからのほうが話が早いと思うよ。だから遠慮せずに俺に任せてくれ。それともし今日の宿が決まってないなら、ここに泊まるといいよ。寝床の一つくらいすぐに用意できるから」
「え、でも迷惑なんじゃ……」
「全然。それに困ってる人を助けるのも教会の役目だからね。ホント、遠慮なんかしなくていいから」

 思えば今日の宿のことなんて何も考えてなかった。聖彼城に行くことだけを考えていて、他のことなど頭の端にもなかったのだ。だから長門の申し出は非常にありがたいし、役所に連絡をとってくれるのも非常に助かる。何せ右も左もわからない都市だ。さっきみたいに彷徨わなくて済むのならそれに越したことはなかった。







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