二章 聖トリフォニル教会


 聖彼に着いて二日目の朝、大地は一泊の寝床を提供してくれたトリフォニル教会の司教、長門とともに近くの役所を訪れていた。聖彼王との謁見の件は、すぐに聖彼城側と連絡がついたようだが、王の都合により今日中というわけにはいかないようだった。

(まあ、一国の王が俺みたいな一般人のためにわざわざ時間を割くなんてことはないか)

 とりあえず王の都合がつき次第教会に連絡をくれるということになり、大地は次に国籍取得の手続きをすることになった。これは聖彼城側からの要請だ。本来なら諸々の審査を受けてからの取得となるらしいのだが、大地の場合は手続きだけですぐに認可が下りた。
 王との謁見を果たすまでもそうだし、行方のわからない海との再会が叶うまで、大地はこの国で暮らさなければならない。差し当たって必要なのは生活するための家と金だ。虎宇都島を出発する際にチームから給料をもらったとはいえ、それも決して多いわけではないし、バイトでもいいから働く場所も探さなければならないだろう。

「それならうちの教会で働くか?」

 そう提言したのは一緒に来ていた長門だ。

「うちなら寝床もあるし、食事だって付いてる。給料はそれほど高くないけど、特別な資格もいらないし、いいと思うんだけど」
「いいんですか?」
「ああ。うちは規模の割に神父シスターの人数も少ないし、正直大地が入ってくれたほうが助かる。申請もすぐにできるしね」

 教会の仕事内容がどんなものなのかはよくわかっていないが、これから働く先や住む場所を探す労力を考えると、長門の提案は実に魅力的だった。

「じゃあお願いしてもいいですか? 何から何までお世話になって申し訳ないですけど……」
「いいって。そろそろ人を補充しないといけないと思ってたところだし。逆にありがたいくらいだよ」
「本当にありがとうございます」

 生活の拠点と働き先の問題はそれで一応解決し、大地たちは役所をあとにした。
 街の喧騒を眺めながら、教会への帰路を二人並んで歩く。長門は見れば見るほどに大地の父にそっくりだったが、細かい仕草や口癖には少し違いがあった。それと、親切で優しい人だということは、昨日から一緒に過ごしていてよくわかったけれど、父のような、包み込んでくれるような大きな温かさは感じられない。やはり偶然似ているだけの別人のようだ。

「早ければ明日にでも聖彼王にお会いできるだろうね」
「緊張するな〜」

 何せ大地が会うのは世界一の大国を治める王だ。緊張しないわけがない。

「大丈夫さ。いまの聖彼王は親しみやすいお人柄だから」
「長門さんは聖彼王に会ったことがあるんですか?」
「いまの教会ができたばかりの頃、王座に就いて間もない聖彼王が、忙しい中直々に挨拶に来てくださって、そのときに少しだけ話したんだ。あの方はうちのシスターの一人を可愛いとか美しいとか愛人にしたいとか言っておられた」
「なんか軽そうな人ですね……」
「まあそう言いたくなる気持ちはわからんでもないけどね。確かにそのシスターは当時から美人だったから。いまもうちの教会にいるから、あとで大地も会えると思うよ」

 ゲイだから性的な意味での興味は欠片もないけれど、聖彼王を唸らせた美女というのがどの程度の美女なのかは非常に興味がある。会うのが少し楽しみだ。
 昨日大地が散々迷った裏路地も、長門は何の迷いもなく歩みを進めてあっという間に教会に辿り着いた。やはり慣れている人間は違う。

「あ、司教さま! 大地さん! お帰りっす」

 中に入ると、二人が戻ってきたことに気づいた龍之介が声を上げた。
 昨日初めて入ったときと同じように、教会の中には長椅子に座って世間話をしている一般人の姿もちらほらとあった。その向こう、聖彼柳貴像の前に、祈りを捧げるシスター服の後姿を大地は見つける。ひょっとしてあれが長門の話していた美人シスターだろうか? 人知れずドキドキしながらその後姿を眺めていると、シスターはゆっくりとした所作で立ち上がり、ショートの金髪をたなびかせながらこちらを振り返った。
 意表と突かれた、と大地はまず思う。確かに振り返った顔は美人で間違いないのだが、想像していた美人とは系統が違った。どこか冷たさを感じさせる硬質の美貌に、鋭さを兼ね備えた勝気な瞳。まだ声も聞いてないのに、彼女が女性らしい柔らかさよりも、本来なら男性に感じるような勇ましさのようなものを持っていると一目でわかるオーラがある。しかし、そのスタイルはシスター服の上からでも女性らしく、また扇情的であることが見て取れた。

(確かに美人だけど……なんかどこかで見たことある目だな〜)

 見覚えがある気がして記憶を探ってみるけれど、該当する人物を思い出すより先にシスターが大地たちのほうへ歩いてきた。

「あんたが大地?」

 シスターはまっすぐに大地の目を見て、顔に似合ったハスキーボイスで訊ねてくる。

「あ、はい。お世話になってます」
「噂どおりのいい男じゃないの。アタシ、龍の姉の冴子。よろしくね」
「え、龍之介のお姉さんなんですか?」
「そうよ。ほら、目とか似てない?」

 二人を見比べてみると、確かに目の形がよく似ている。見覚えがあると感じた要因はこれだ。

「二人ともいいタイミングで帰って来たわね。ついさっき昼飯の準備できたところよ。そろそろ人も来なくなる時間だし、ちゃっちゃと食べちゃいましょ。あ、もちろん大地の分もあるからね」



 冴子の用意してくれた昼食は、コッペパンにミネストローネスープのようなもの、玉ねぎとじゃがいものサラダに魚の塩焼きだった。一見シンプルだが、どれも味は美味しくて、食べているうちに顔が自然と綻びそうだった。

「うちの姉ちゃん、料理だけは上手いんっすよね」

 龍之介が自慢するような、あるいは揶揄するような口調でそう言った。そして言った途端に冴子に頭を叩かれた。

「料理だけとか言ってんじゃないよ。他にも裁縫とかDYIあるでしょ」
「DYIもできるんですか? 女性でできるって珍しいですね」
「工作的なことって昔から結構好きだったのよね。作るっていっても簡単なものばっかだけど、結構楽しいわよ?」
「俺はそういうのからっきしなんで、尊敬しちゃいますよ。あ、そうだ。聖彼王に言い寄られたことがあるっていうのは本当なんですか?」
「司教さまがばらしたのね?」

 冴子は静かに食事を進めていた長門を軽くねめつける。

「あの人の趣味が悪いのよ。アタシ、聖彼王ってもっと威厳があってすごいオーラなんか放ってる人だと思ってたけど、実物はなんかチャラそうな感じだったわ」
「チャラくてもすごい人なんですよね、聖彼王って」
「まあ、ね。彼が王座に就いたのって十代の頃なのよ。先代の王が病気で早くに亡くなっちゃったから。周りの大人たちはあんな若造にこの国を任せて大丈夫なのかって心配してたけど、最初だけだったね。他国と協定結んだり、イクシオン人の技術を取り入れることを提案したり、王自身があれこれ動いたの。元々栄えた国だったけど、そのおかげで更にいい国になったってアタシは思ってる」

 やっぱりすごい人なんだな、と大地は聖彼王と謁見することに増々緊張を覚える。

「王だけじゃなくて、王妃と王女もなかなか頭の切れる方らしいわよ。アタシ、一回だけ生で見たことあるんだけど、二人ともなかなかの美人だったわ。っていっても王女さまは美女っていうよりはまだ美少女って感じだったけど。それと王子が一人いるのよね。昔はテレビに出てたんだけど、最近――っていうかもう何年も前からだけど、王子だけめっきり出なくなったのよね」
「行方不明っつー噂もあるんっすよ」

 龍之介が神妙な顔つきで言った。

「そうそう。家出しただの、暗殺されただの、いろいろ噂があるのよ。ま、噂は噂だけどさ。けど誰もがここ数年王子の姿を見てないってのは確かよ」

 真相は誰も知らないけどね、と冴子はその話を締めくくった。

「そうだ大地、食べ終わったら一緒に街を歩いてみない? ここに住むんだったらこの辺の地理とかも覚えておかないといけないっしょ?」
「教会のお仕事はいいんですか?」
「忙しいのは朝と夕方から夜にかけてよ。昼間はあんまり人が来ないの。だから司教さまと龍の二人の任せて大丈夫」
「ずるいぞ姉ちゃん! オレだって大地さんとデートしてえよ!」
「あんたに道案内なんか任せられないわよ。今日はお留守番」
「道案内くらいオレにだってできるって! 男同士語り合いたいこともあるし、ここは姉ちゃんが留守番してろよ!」
「そういうことなら三人で行ってきなよ」

 いまにも姉弟喧嘩が始まりそうだった雰囲気をピタリと鎮めたのは、長門だった。

「午後なら俺一人でもたぶん大丈夫だし、せっかくだから三人で親睦を深めてきたら? あ、でも三時までには帰って来てくれよ」
「さっすが司教さま! 話がわかるっす!」

 龍之介が嬉しそうに顔を歪め、残りのパンを急いだように口に詰め込み始めた。

「龍、あんたが急いだってどうしようもないでしょうが。アタシと大地が食べ終わるの待たなきゃいけなくなるわよ」
「いや、ほら、出かけるってなったらいろいろ準備しなきゃいけないだろ? 髪もセットしてえし」
「その髪をどうセットするつもりなのよ……」

 ごもっともな突っ込みである。

「あ、準備っていえば、アタシと龍と一緒じゃ大地のその服は浮いちゃうわよね? 龍、あんたの僧衣貸してやりなよ」



「なあ龍之介、本当にこれおかしくないか?」

 初めて身に着ける神父の僧衣に戸惑いながら、隣を歩く龍之介に大地は思わず訊ねる。

「全然変じゃないっすよ! むしろ超カッコイイっす! な、姉ちゃん?」
「そうね。龍よりもだいぶ神父らしいわよ」

 教会で働いていくと決めた以上は、これからも僧衣を着る機会は多いだろう。むしろ一日のうち私服でいるよりも僧衣でいることのほうが多いかもしれない。ならいまから着慣れておくのも悪くないが、やはり縁のない服装なだけにコスプレしているような感覚が拭えなかった。

(海くんならすごく似合いそうだな……)

 物静かで煩悩のなさそうな海には、こういうお堅い感じの服装はよく似合う気がする。再会できたら試しに着てもらおうかと思いついた。
 教会の近くのスーパーや薬局、その他の日常生活に関わりそうな店を案内してもらってから、帰る前に喫茶店に寄ることになった。大地は冴子のお勧めだというパンケーキとダージリンティーを注文する。パンケーキは想像していたよりもずっと大きく、食べきれるか一瞬心配になったが、一口食べると程よい甘さとふわっとしたパンの触感の虜になり、あっという間に皿は空っぽになった。
 冴子と龍之介に元の世界のことを話したり、逆にこちらの世界のことを聞いたりしながら、ふと大地は窓の外の景色を見やる。相変わらず通りは多くの人々が行き交っている。風景はまさにヨーロッパの街並みなのに、歩く人間のほとんどが日本人の顔をしているというのがなんともアンバランスで、不思議な光景だなと思う。
 観察するように窓の外を眺めていた大地の視線が、何か見覚えのあるものを捉えたような気がしてハッとした。自分でも何を見つけたのかわからないままに、もう一度視線を逡巡させる。

(なんだろう? なんか、見落としちゃいけないものを見つけた気がしたんだけど……)

 答えはわからないのに、それが大事な何かであることだけは本能的に理解した。見間違いじゃない。確かに自分はいまそれを見つけたのだ。自分の心を掴んで離さない、大事な何かを……。
 そして答えはすぐに見つかった。多くの人々が行き交う中、まるで視線が吸い寄せられるようにしてそこに辿り着く。綺麗な丸みを帯びた坊主頭に、堀の深い男らしい顔立ち。大地がそれを他の誰かと見間違うことはなかった。

「大地さん、どうかしたっすか?」

 龍之介の問いかけに頷きもせず、大地は慌てて店を飛び出した。
 外に出た頃にはすでに彼の姿を見失っていたが、歩いて行った方向はちゃんと見ていたのでそちらに向かって走る。

(海くん……!)

 心の中で、愛しい人の名前を叫ぶ。この世界に来る直前に離れ離れになり、ずっと再会を願って止まなかった大好きな人。そんな彼が確かに窓の外にいた。牛島の背中に乗って魔物の森を駆けていたときも、そして虎宇都島でバレーに熱中していたときも、彼を想わない日は一日だってなかった。

(やっと……やっと逢えるんだ!)

 嬉しさが込み上げてきて、大地は走りながら泣きそうになる。駄目だ。泣くのはまだ早い。だってまだ彼に触れられたわけじゃない。彼の声を聞いたわけじゃない。あと少し、ほんの少しの距離を縮められてないんだ。

『澤村くんはなんの楽器をやるの?』
『自分で歌うなら、シンガソングライターだね』
『それでも、作れるってだけで俺はすごいと思うよ。だからもっと自信を持っていいんじゃないかな』

 元の世界で彼にもらった言葉の数々が思い起こされる。その優しくて柔らかい声を、もう二週間以上も聞いていない。記憶の中の声じゃなくて、本物の彼の声が聞きたかった。
 必死になって走っているうちに、大地は大通りからはずれて人気のない公園に辿り着いていた。確かに海はこっちのほうに来たはずだが、その姿は見当たらない。
 大通りから一歩はずれれば、王都に来て間もない大地には未知の世界だ。とりあえず公園の周りを一周歩き、海の行き先の手掛かりになりそうなものを探してみる。そうして間もなくスタート地点に戻ろうかというときに、視線の端で何かを捉えた気がして、大地はそちらに視線を転じる。

「あっ!」

 声を上げた瞬間には、大地はすでに走り出していた。ようやく見つけた愛しい人の元に――イクシオンとハルモニア、どちらの世界にいても大地にとって一番大事な存在である彼に向かって。
 深く繋がった絆が勢いよく手繰り寄せられる。次元の狭間を超えても、そして別々の場所に落ちても切れることのなかったその繋がりが、いま再び二人を強く結びつけようとしていた。

「海くん!」

 そうして大地の手はようやく、想い人の身体に触れることが叶った。







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