十三章 唯一の同胞



 夜の闇が空に広がりつつあった。幾数もの星が飾りのように点在し、東の空では満月が、明日への希望を象徴するかのように輝いている。――あるいは明日の絶望を祝うかのように。
 あれ、と岩泉は心の中で疑問符を上げた。さっきまで黒海に向かって落下していたはずなのに、岩泉の身体は海面に到達することなくなぜだか空中で静止している。
 誰かが腕を掴んでいた。その腕を辿っていくと、美男子と呼ぶにふさわしい端正な顔立ちに辿り着く。

「何やってんの、お前?」

 思わず疑問を投げかけると、岩泉の腕を掴んだ青年――及川はその美しい顔に困ったような笑みを浮かべた。

「どうしてかな? よくわからないけど、急に岩ちゃんに死んでほしくなくなった」
「生かしてもっと痛めつけようってか? 悪趣味だな」
「そうじゃない! 俺は……もしも岩ちゃんが死んじゃったら、俺は本当に一人になる。このムカつく世界で、仲間の一人も見つけられないまま生きていかなきゃいけなくなる」
「急にどうした? お前、そんなこと言うキャラじゃねえだろ?」
「わかんないよ! 自分でもどうしてこんなことしてるのか、わからないんだっ」

 及川の急な変化に岩泉は動揺したが、それ以上に及川本人は困惑しているようだった。けれど岩泉を捕まえた手だけは離さない。絶対に離さないという意志が、力になって岩泉の腕に伝わってくる。――及川の身体から靄のようなものが滲み出てきたのはそのときだった。
 岩泉はその靄のようなものに見覚えがあった。先日黒海のど真ん中に浮いていた海とその友達の少年を助けたとき、少年の身体から同じようなものが勢いよく飛び出してきたのを覚えている。それは魔物の一種で、弱い人間の心に住み着き、そしてその人間を操ろうとする。名前は――

「ハルモニアの闇!」

 岩泉は咄嗟に魔法を唱えていた。ファントム系の魔物の弱点である、聖属性魔法。魔法はすぐに発動し、及川の身体から完全に剥離した靄を光が包み込む。光と靄は完全に混ざり合うと、音もなく目の前から消えてなくなった。その途端、及川の身体が銀竜の背から滑り落ちた。もちろん、彼に腕を掴まれていた岩泉も一緒に空中に投げ出される。
 今度こそ海面に叩きつけられるだろうか。予想される痛みに岩泉は歯を食いしばる。
 しかし、待ち構えた衝撃が岩泉たちを襲うことはなかった。何か大きなものに包まれたかと思うと、再び上空へと身体が舞い戻っていく。頭が少し落ち着いてきたところで自分の状況を確認すると、岩泉は及川もろとも、自分の召喚獣である黒竜の腕に抱かれていた。

「賢太郎!」
『さっきはすんません……』
「いや、いい。マジで助かった」

 賢太郎はそのまま一番近い海岸まで飛翔し、砂浜に岩泉と及川を下ろした。

「おい、起きろよ及川」

 気を失ったままの及川の頬を岩泉は軽く叩いた。何回か繰り返しているうちに瞼が震え始め、その目がゆっくりと開かれる。

「岩ちゃん……」
「お前、ハルモニアの闇に憑かれてたんだな。いままでずっとそうだったのか?」
「……はっきりとは覚えてないけど、小さい頃にはもう俺の中にいたと思う。人を殺せ、世界を壊せ、そんな声がずっと俺の中に響いてた」

 どうして自分はいままでそのことに気づかなかったのだろう。己の未熟さ、観察力の低さに自分で腹が立ち、思わず砂浜に拳を叩きつけていた。

「俺はとんでもないことをしちゃった……。たくさん人を殺して、いろんなものを奪って……最悪だ。これじゃまるで円卓の騎士じゃないかっ」
「それはお前だけのせいじゃねえよ」

 ハルモニアの闇は弱い心に棲みつく。もしも子どもの頃、岩泉がもっと及川の話を聞いてあげていたら――もしも岩泉がもっと及川のことを偏見の目から守っていたら、彼が数え切れないほどの人間を殺めるようなことはなかったかもしれない。どうしてもっとちゃんと関わろうとしなかったんだ。どうしてもっと彼をわかろうとしなかったんだ。今更遅い後悔が、波のように絶え間なく押し寄せて岩泉を苦しめる。

「どうしたらいい? どうしたらこの罪を償えるかな? 死ねばいいの?」

 及川の質問に、岩泉は答えを探すべく頭をフル回転させる。死んでしまった人間を生き返らせることはできない。それはどんなに悔いてもどうしようもできないことだ。ならば他に、せめてこれからの世界に役立てるようなことはできないかと模索する。そして答えはすぐに見つかった。

「あいつらを倒すぞ」

 そう言って岩泉が指差したのは、遠くの空に浮かぶ巨大な城だ。

「円卓の騎士……あいつらを倒すんだ。それもただ倒すってだけじゃなく、封印なんて生温いもんでもなく、二度と目覚めねえように完全に破壊するんだ」
「……ってことはもしかして、あれを使うのかい?」
「ああ。古代魔法“神々の歌”」

“神々の歌”――召喚士に伝わる最強の浄化魔法だ。先祖から分け与えられた記憶によると、その古代魔法は円卓の騎士たちを完全に打ち滅ぼすことができるという。しかし発動させることが極めて難しく、聖守戦争で活躍したかつての召喚士たちも、結局諦めて封印魔法に切り替えていた。

「そんなの、俺たち二人でできるわけ?」
「やってみねえとわかんねえよ。けどいまの俺たちには助けになるものがあるだろ?」
「え、何それ?」
「バーカ、人を殺してまで奪ったもんを忘れてんじゃねえよ。お前には輝蒼石、俺には聖白石があるだろうが」

 輝蒼石や聖白石は、膨大な魔力を秘めた魔石だ。それを補助として使えば、大掛かりな古代魔法も二人だけで発動させることができるかもしれない。

「ま、魔石を用いたって俺らの命はねえだろうけどな。けどそうでもしねえと俺たちの罪は晴れねえよ」
「俺たちのって……岩ちゃんが責任感じる必要なんてないだろ? 人を殺したのは俺だし」
「連帯責任ってやつだ。この世で唯一の同胞のために一肌脱いでやるよ」
「岩ちゃん……ごめんね」
「謝んなよ。お前が謝ったら不気味だろうが」
「ひどい!」


 ◆◆◆


“汝、破壊を誓う者ならば、その先にある神たる存在に服さん”
 理解しかねる文字の羅列が漆黒の壁に刻み込まれていた。この通路をまっすぐに進んでいくとじきにアーサー王の部屋に着くという。
 それにしてもこの組み合わせはいかなるものだろうか、と仁花は今更ながら思う。一国の王女である自分と、殺戮神とも言える円卓の騎士が二人。だが、いまの仁花は決して彼らに拘束されているわけではない。むしろ彼らと協力して辺りの様子を窺がっているくらいだ。

「結局、王女さま側の味方には会えずじまいになりそうだな」

 円卓の騎士の一人、黒尾が収まりの悪い黒髪を弄りながらそう言った。

「あんたのお仲間は大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思います。私でさえもさっき互角に戦えたほどですから」
「……あんた、ホントに王女なのか? 箱入りだと思ってたけど、強すぎだぜ」
「一応、戦闘訓練を受けたので」

 本来なら王女たる自分が戦闘訓練など受ける必要はないのだが、有事のときに備えて、仁花自身が望んで受けたのである。結果的にそれは役に立った。円卓の騎士広尾の討伐に成功し、こちらは暗殺だが別の円卓の騎士も一人倒している。

「おい獅音! 行くぞ」

 黒尾の呼びかけに、背後で辺りの様子を見回していた偉丈夫――大平が振り返る。まだ若い顔は一つ頷いて、重々しい鎧の音を立てながらこちらに走ってきた。

「やっぱなんか作戦練っとかないとやばいかな」

 黒尾が手の指を複雑に動かしながら言う。

「一筋縄じゃいかないだろうからさ、アーサー王は。三人いたってたぶん無理だ」
「やっぱり応援を待つべきですよね」
「そうだな。負けのわかってる勝負に突っ込むほど俺は馬鹿じゃないんでね。とりあえず時が来るまでどっか目立たないところに待機しとこうぜ」
「――どこへ行くって?」

 急に会話に割って入ってきた男の声は、もちろん仁花のものではない。また、背後にじっと佇んでいた大平のものでもなかった。その更に後ろ、一つ目の曲がり角から二人の男が訝しげな表情で歩いてくる。いずれも長身で、一人は年齢不詳の爬虫類めいた顔立ち、もう一人は仁花以外は長身が集まるこの中でも、一番体格のいい強面の男だ

「これはこれは、円卓の騎士のオネエ担当の大将さんじゃないっすか」
「そうなの、今日も乙女全開で行くわよ……って何やらすんだ馬鹿!」
「いいノリ突込みだ」
「で、王女さまを連れ出してどうしたんだ?」
「ああ、いまからアーサー王のところに連れていくつもりだったんだよ。こいつを利用するときがついに来たみたいだから」

 咄嗟に黒尾が仁花の腕を掴んで最もらしい理由を告げる。男たちは疑う様子もなくそうか、と素っ気のない返事を返した。

「ってことは、あの方もついに行動に出られるのか」

 爬虫類めいた顔立ちのほう――大将は何かおもしろいことでも始まろうとしているかのように笑う。

「早く連れて行け。楽しみは後にとっておきたくないんでね」

 はいはい、と黒尾は適当に返事をして歩き出す。どうやら上手く誤魔化せたらしい。――足を踏み込む音がしたのはそのときだった。
 もしも反射的に身を屈めていなければ、仁花の身体は飛んできた幾数ものナイフに八つ裂きにされていただろう。頭上を通り過ぎたナイフは通路の奥へと姿を消した。

「何すんだよ!?」

 仁花同様、あと少しで八つ裂きにされるところだった黒尾は、いきなりの攻撃に憤怒を散らす。

「残念だけど黒尾、お前が俺たちを裏切ったことくらい知ってるんだよ」

 大将はその年齢不詳な顔立ちを心底残念そうに歪めて真実を口にした。

「いまから王女たちと協力して、あの方を倒すんだろう?」
「…………そうだけど?」

 黒尾は大将の指摘をあっさり認める。では、と大将は腰に納めていた剣を抜いた。

「じゃあお前らはここで殺しておかないとな。もちろん獅音、お前もだ」







inserted by FC2 system