十五章 天使の刻印 ジュウ、という肉の焼ける音がした。同時に辺りに肉が焼け焦げたような臭いが広がる。 仁花は目の前の首のない死体から慌てて顔を背け、手で鼻を覆った。 「終わった……んですよね?」 必要のなくなった扇子を閉じ、安堵の息をつく。――隣に立っていた男が膝を突いたのはそのときだった。 「どうしました?」 仁花の問いに収まりの悪い黒髪の男は答えない。苦しそうに左胸を抑えながらその場に伏せた。 「く、黒尾さん!?」 長身でしなやかな身体の周りに、徐々に血溜りが広がっていく。 「なんか……刺さってたみたいだ」 苦し紛れに発せられた声は寝起きのときのような――あるいは死に際の人間のような弱々しいものだった。 「――始末したぞ……って黒尾!?」 敵の処理を終えたらしい大平が異常に気づいて声を上げる。 「せっかく明るい未来が待ってると思ってたのに、これじゃ駄目だな」 「喋らないで!」 「だっていまのうちに言っとかないとさ。もう、言えねえかもしんねえじゃん」 「そんなことないです!」 仁花はすでに血の気を失っている黒尾の手を握る 「俺が死んだら獅音のこと頼んだぜ……。あんたの城の警備員か何かにしてやってくれよ」 「言われなくてもそうするつもりです! だから……死なないで」 彼は今日出会ったばかりの人間で、しかも本来なら敵同士のはずだった。それでも仁花に協力することを惜しまなかったし、仁花のことを守ろうともしてくれた。破壊とともに生きるという、円卓の騎士の固定概念を一掃し、手を取り合う未来を見せてくれた大切な人だ。 死んでほしくない、と本気で思う。自由な未来を夢見ていた彼をここで死なせたくない。未来を生きてほしい。 しかし、血溜りの量からして生死は鮮明だった。不死身を誇る円卓の騎士といえど、同じ円卓の騎士による攻撃や、膨大な魔力の込められた武器による攻撃を受けると無事では済まない。けれど自分に何ができるだろう? 回復魔法など心得ていない仁花にできることといえば、無事を祈ることだけだった。 「我は天使たる汝の力を召喚する」 唐突に響き渡った声は、天国から届いたように思えた。確固たる意志を滲ませた男の声で、まるで神が語りかけているかのような響きを持っている。 「すべてを守る者よ すべてを愛する者よ 汝の癒しを我に与えたまえ その白き輝きによりてすべての生を助く ――来たれ“天使の刻印”」 天使の声が魔法の詠唱を完了した刹那、漂白されたように辺りが白く染まった。だが、それも一瞬のこと。景色はすぐに元どおりになり、灰色の床や壁が目に入る。 「いまのは……」 仁花は背後を振り返る。 そこにいたのは、神父服に身を包んだ青年と、黒に近い灰色の毛並みを持つ大きな狼だった。一瞬本当に神が降臨したのかと信じかけたが、よく見ればそれは仁花の知っている顔だった。 「澤村さん!」 仁花は世界の“希望の星”の名を口にした。 「一応、回復魔法をかけておきました。でも“天使の刻印”は生命を維持するだけみたいだから、早く医者に診てもらったほうがいいです」 「わ、わかりました。あの、他の人たちは無事なんですか?」 「みんな無事みたいですよ。飛空艇で待ってるから、王女さまも」 「あなたは?」 「俺は……あの人を倒さないといけない」 あの人、とはこの先にいる最強の円卓の騎士――アーサー王のことだろう。そして、その者こそが眼前に佇む青年の父であり、絶対に始末しておかなければならぬ人物だ。 「私も一緒に行きます!」 王女たる者がここで引き下がるわけにはいかない。すべてをこの青年一人に託すわけにはいかない。世界のために戦う覚悟はある。 「駄目です」 だが、仁花の申し出は呆気なく拒否された。 「俺一人で戦わないと、決着がつかないんだと思います。それに王女さまは生きてないと駄目です。聖彼王国にも」 「でもこれであなたが死んだら意味がありません」 「大丈夫。俺は絶対に死なない」 澤村はすべての生命の父のような優しい微笑みを浮かべる。 「あとは俺に任せてください。その怪我人を助けてあげて。――若利、この人たちを飛空艇まで乗せて行ってくれ」 若利と呼ばれた灰色の毛並みの狼は、ゆっくりとした足取りで血溜りに顔を浸している黒尾のところまで歩く。すぐそばにいた大平が黒尾の身体を持ち上げ、若利の背に乗せた。 「無事を祈ってます、澤村さん」 仁花は最後に、一本の剣を掲げる神父に一礼して踵を返す。 他の者がすでに飛空艇に戻っているということは、おそらく先ほど倒した大将ともう一人の男で、アーサー王以外の円卓の騎士は最後だったのだろう。若干二名ほど残っているが討伐の必要はない。――もう敵ではないから。 そして、この世界を守るための計画もいよいよ佳境を迎えようとしている。強い決意を瞳に秘めた青年は、果たして破壊の悪魔を打つことができるのだろうか……。 ◆◆◆ 「おえっ……マジで気分悪いわ」 神に祈りを捧げつつ、気持ち悪そうに手で口を押さえたのは、アロハシャツを着た男である。本来ならなかなかのいい男であろうその顔は少し青ざめ、短い金髪は少し逆立っていて、とても健康的とは思えぬ様子だった。 「飛空艇動いてねえのに酔ってんじゃねえよ」 その男の背後から蹴り上げんばかりの痛い突っ込みをかましたのは、よく見れば船酔いをした男によく似た青年だ。この二人が一国の王と王子であるとは、一目では誰も思わないだろう。 「つーかさ、ホントにオレらはノコノコ戻ってきてよかったのかよ? 大勢でかかったほうが早いんじゃねえのか?」 若いほうの男――聖彼王国王子、鎌先靖志は、とても王子とは思えぬ砕けた口調で言った。 「お前はホントにわかってねえな〜」 面倒のかかる学生を相手する教授のように溜息をついたのは、聖彼王、滝ノ上祐輔である 「あいつがここで一人で戦わねえと、自分の心に決着がつけられないだろ? 自分の手で微妙な親子関係に終止符を打ちてえんだよ。そうすれば、楽になれる」 「でもここで大地が負けたら意味ねえじゃん」 「それでもあいつは戦うさ。息子の義務ってやつだ。もしも俺が破壊を企んでいたとしたら、お前ならどうする?」 「ぶっ殺す」 何の迷いもなくさらりと暴言を吐いた息子に、父は片眉を少し吊り上げた。 「お前がいま言ったのと同じで、大地も自分の父を諌めたいと思ってる。父親を大事だと思ってるからこそな。つまり、お前も俺のことを愛してるってことだ!」 「なんでだろう、いま無性に父さんをここから突き落としたい……」 |