十八章 破壊の王が愛するもの



 大地はひまわり畑を駆ける。足の踏み場もないほど詰めて咲いているにも拘らず、不思議とひまわりに接触している感覚はしなかった。
 目指す枯れ木の下では短い黒髪の男が優しく微笑んでいる。だが、その手には忌々しい凶器――“湖の剣”が握られていた。

 ――両者、交わす言葉はない。

 大地が高々と跳躍したとき、アーサー王の姿は残像だけを残して掻き消えている。そうかと思えば白昼夢のような唐突さで空中に出現し、“湖の剣”を旋回させた。

「はっ!」

 気合の声とともに繰り出された一振りは、アーサー王の身体を弾き返す。態勢が崩れたところに更に一太刀、その一撃はアーサー王の左肩に命中した。

「くっ」

 背中から地面に叩きつけられた男は小さく呻く。
 ここで更に攻撃を浴びさせれば、確実に敵の息の根を止めることができるだろう。しかし、大地は着地してもすぐには攻撃に出なかった。なぜか足が止まってしまう。一瞬だが、大地の心に生まれた何かが父を傷つけることを躊躇わせたのだ。

(あの人はもう、父さんなんかじゃない)

 そう自分に言い聞かせ、ソロモンソードの柄を強く握り締め直すと再び走る。――だが、先ほどの一瞬がすべてを決めた。大地が剣を振り下ろしたとき、そこに呻くアーサー王の姿はない。一瞬のうちに起き上がったらしい男は、すでに離れたところに佇んでいる。

「そう簡単にはやられないさ」

 再びアーサー王の姿が掻き消える。その音速に迫るスピードは人間の動体視力では捕捉できない――大地を除いては。
 視線の端でこちらに迫ってくる影に神経を集中させ、それが間接距離に入ったところで剣を振る。
 重い衝撃が白刃を通して大地の腕に伝わり、一瞬だけソロモンソードを落としそうになった。そして、またしてもその一瞬がすべてを決めた。
 下から掬い上げるようにして振り上げられた剣が大地の剣を弾き飛ばしたのだ。慌ててそちらに跳躍するが、アーサー王がそれを見逃すはずがない。空中であっという間に直接距離に入ってくると、白刃を旋回させている。
 赤い花弁――鮮血が飛び散ると同時に大地の胸に鈍い痛みが走った。

「ぐっ……」

 バランスを失って地面に落下し、そこで大地は血の溢れ出る胸を押さえる。

「一つだけ選択肢を増やしてあげよう」

 その温かみの欠片もない声は、すぐ近くから聞こえた。大地の正面、大地によく似た容姿の男が、その男らしく精悍な顔に邪悪な微笑みを貼り付けている。

「俺と一緒に破壊の道を歩む、というのはどうだ?」

 その一言は、大地の神経を逆撫でするに充分すぎるほどだった。

「俺は、あなたとは違う」

 ただならぬ憤怒が大地に我を忘れさせた。気がついたときには身を起こして、アーサー王に飛び掛ろうとしている。

「残念だ」

“湖の剣”は容赦なく振り下ろされた。我を忘れ、武器を持たぬ大地にこれは防げまい。煌いた白刃は大地の太ももを深く抉る。

「っ!」

 激痛に大地の口から奇声が零れた。この傷では、もう立つこともできまい。

「終わりだな。それじゃあもう戦えないだろう」

 淡々と真実を告げるアーサー王は、その黒い瞳に少しだけ悲しそうな色を浮かべている。

「この世界は終わる。そして、大地も」

 もう大地には動く気力も体力も残っていない。胸と太ももに深い傷を負い、いまもそこからは鮮血が溢れ出ている。頼みの武器も明後日のほうへ飛ばされて、まさに絶体絶命だった。
 大地が死ねばこの世界はアーサー王の手に落ちるだろう。大地は世界が残す最後の希望だったのだから。それを失った世界の行く末は目に見えている。

(もう、どうすることもできないのか?)

 このまま死んで、すべてが終わってしまうのだろうか?
 虚空に高々と上げられた白刃が煌く。わずかに朱に染まった先端のほうから赤い露が滴っていた。
 それが振り下ろされたとき、自分はもうこの世にいない。もう、何もかも終わってしまう。

「――何してるの?」

 済んだ女性の声がしたのは、大地が死を覚悟したときだった。


 ◆◆◆


「俺がこういうこと言っちゃいけないってことは重々わかってるんだけど、死ぬのってやっぱり恐いね」

キャメロット城の庭園に降り立った及川が、独りごちるように言葉を漏らす。

「そう思ってたやつらをお前は散々殺してきたんだ。しっかり反省しながらその命を投げ捨てろ」
「投げ捨てろって……もっとましな言い方はなかったのかな、岩ちゃん。まあいいけどさ」

岩泉は及川の隣に並んで、月明かりに照らされたひまわり畑を見渡す。破壊の王が暮らす城には似つかわしくない、美しく生命感の溢れる景色だ。こうやって自分の庭を大切にすることはできるのに、どうして彼らは人間を滅ぼそうとするのだろう?

「まあ、もうなんでもいいけどな」
「なんの話?」
「独り言だ。ケリを着けるぞ」
「彼にはちゃんと話したの?」
「彼? 靖志のことか?」
「違うよ。ほら、前に会ったときに狂犬ちゃんの背中の一緒に乗ってた」
「ああ、大地のことか」

 世界の命運を背負った青年は、いまこの中で自分の父親と戦っているのだろうか? 彼に託されたものはあまりにも大きく、あまりにも重い。けれどそれを嫌と言わずに引き受けた優しさには心の底から尊敬している。もちろん彼の中で様々な葛藤があっただろう。いまだって迷いながら戦っているのかもしれない。その助けになりたいと、岩泉は心に決めていまここに立っていた。

「岩ちゃんの彼氏なんでしょ?」
「彼氏じゃねえよ。あのときのあれは冗談だ」
「でも岩ちゃん、彼のこと好きだったでしょ? 見ててそんな感じがした」

 確かに岩泉の中には、大地に対する恋愛感情がわずかながらに残っている。海の登場で諦めようとしていたけれど、そう簡単に気持ちを消すことなんてできなかった。

「……好きだよ。けどあいつには大事なやつがいる。残念ながら俺とあいつが結ばれるような未来はねえよ」
「ちゃんと気持ちは伝えたの?」
「いや。世の中には言わなくていいことだってあるんだよ。それにいまの俺には他に気になるやつもできたしな」
「へえ……あ、もしかしてそれって俺だったりして!?」
「は? 妄想も大概にしろよ変態ナルシスト」
「ひどい! 人生で最後の会話かもしれないんだから、冗談でもロマンチック感出していこうよ!」
「お前とロマンチックな雰囲気なんてごめんだわ。まだ賢太郎のほうがいい」
「えっ……岩ちゃんって獣フェチだったの!?」
「たとえの話だよ! つーかそろそろ始めんぞ! 馬鹿なこと言ってる場合じゃねえ!」

 これから二人は、召喚士である自分たちにしかできないことをするつもりだった。究極の古代魔法の一つ“神々の歌”の詠唱。召喚士の記憶によれば、アーサー王を完全に破壊することのできる唯一の方法らしい。無論、そんな強力な古代魔法の詠唱にリスクを伴わないわけがなく、おそらく自らの命が代償となることが予想される。さっき及川が人生で最後の会話と言ったのは、そういうことだ。

「よし、やるぞ。俺らの人生最後にして最大の仕事だ」
「はあ……。ま、これもハルモニアの闇に好き勝手させた罰だよね。甘んじて受け入れるよ」

 二人の顔が真剣なそれに変わる。互いに向き合うような形になり、左右それぞれの手を握り合った。
 及川の体温がじんわりと伝わってくる。同じ召喚士として生まれ、同じように普通の人間たちに差別を受けたこともある。楽天的な岩泉はそんなものまったく気にしなかったが、及川はぶつけられた言葉の数々に傷ついていた。そしてその心は弱り、憎しみに濁り、ついにハルモニアの闇に支配されてしまったのだ。
 もっと彼を庇ってやればよかった、と今更ながら思う。そうすれば彼が人を殺すようなことはなかったかもしれないし、唯一の同胞として互いを大事にし合えたかもしれない。もしももう一度人生をやり直すことができたなら、そのときはちゃんと及川のことを助けてやろう。もっと彼の声に耳を傾けてやろう。岩泉はそう決意する。

「準備はいいか?」
「うん。やろう」

 同時に息を吸い込み、そして言葉を吐き出す。破壊の迫るこの世界を救うための言葉が、夜のひまわり畑に響き渡った。

「「我は汝を召喚する」」


 ◆◆◆


「何してるの?」

 背後からした女性の声に、澤村大輔は振り返る。こんなときに乱入してきたボンクラはどこのどいつだろう? そう思いながら視線を上げた刹那、男らしい精悍な顔立ちが凍りつく。

「どうして……」

 そこにいたのは、肩ほどまでに黒髪を伸ばした女――髪の色に調和した薄茶色の瞳をしており、その美しい顔に微笑みを浮かべている。
 それは、大輔のよく知る人物だった。いや、それどころかよく知りすぎていると言っても過言ではない。

「母さん」

 大輔が呼ぶよりも早く息子の大地が声を漏らした。その表情は自分同様、驚愕の色をしている。

「二人ともどうしちゃったの? 変よ」

 一方の女――大輔の妻であるその者は、のんきな様子で首を傾げている。

「どうして君がここに?」
「何変なこと言ってるのよ。さ、帰りましょ」

 いま自分が目にしているものは何だろう? 幻?
 最初、大地が見せている幻想だと思ったが、その当事者であるはずの大地が驚きを見せているので、どうやら違うらしい。
 では夢か? ――いや、もしかしたらこれまで見てきたものが夢で、いま体感しているものが現実なのかもしれない。自分が世界を破壊しようなど、そして自分が息子と戦うなど、ありえないのだから。
 そう思うとひどく安心した。悪夢から目覚めて、これからまともな人生を送ることができる。そして、すべてを愛し続けることができるのだ。

「お父さん!」

 背後から黄色い声がした。振り返ると、ひまわりを掻き分けて出てくる短い髪の少年の姿がある。年の頃はまだ六歳にもならぬ純粋な息子――剣を持って走ってくる大人びた姿はどこにもない。やはりあれは夢だったのだ。

「大地、いいことを教えてあげよう」

 そうだ。せっかくだから息子に教えておこう。悪夢から学んだ大切なことを。

「この世界に大切じゃないものなんかない。人も花も木も、みんな生きていて、みんな大切にしないといけないんだ」
「うん! 俺、みんな大切にするよ!」

 無邪気に微笑む息子に微笑み返し、大輔はそばに佇む妻に視線を転じる。
 彼女も屈託のない微笑みを浮かべていた。それもまた大輔にとって大切なものであり、一生守っていきたいものの一つである。

「――我は汝を召喚する」

 その妻の口から意味を持たぬ文字の羅列が飛び出したのはそのときだった。







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