十九章 神々の歌



「我は汝を召喚する」

 意味を持たぬ文字の羅列を口走る天使のような優しい声は、確かに大輔の妻のものだった。

「主の力を信じ、主の力によって天の裁きを下さん」

 なぜだろう? その声は愛しい人のもののはずなのに、大輔の神経にひどく障る。そして、胸の奥から湧き上がるこの衝動は――

「我は破壊の神たる汝を召喚する」

 大輔がその呪文を唱えたのはほぼ無意識のうちのことだった。それを唱えなければ自分の身によからぬことが起きる、という本能的なものがそうさせたのである。

「紅蓮の炎に祝杯を捧げし汝に我の意思を授けん」
「白光に包まれし汝の力 我の力と共鳴せん」

 澄んだ女性の声と、憎しみのこもった男の声が重なった。いずれの声も喋るのは意味を持たぬ文字の羅列である。
 そこに立っているのは確かに大輔の愛した女性だった。いまだって感情が溢れ出んばかりに愛しているのに……。なのに、この湧き上がってくる衝動はあらゆるものを破壊したがっている。

(夢じゃなかったのか?)

 大輔は絶望した。自覚した途端に、破壊の先にあるものを知ってしまったからだ。
 破壊の先にあるのは失った悲しみだ。そして、失ったものはもう二度と戻ってこない。そこには悲しみと絶望、そして大きな後悔しかない。それがわかっても、零れ出る呪文を止めることはできなかった。

「呪詛による赤い輝きによりてすべてを討ち滅ぼせ ――来たれ “滅びの炎”」

 その古代魔法は、この世のすべてを滅ぼすことができる。だが、その得体の知れぬものに恐怖していままで一度も使ったことはない。果たして何が起きるというのだろうか?
“滅びの炎”を唱えたことに後悔と少しばかりの期待を抱いたとき、大輔の身体がくの字に曲がった。

「!?」

 胸が締めつけられるような感覚が襲った。息が苦しい。堪らず膝をついて、吐血してしまう。

「そうか……」

 視界が徐々に霞んでいく中、大輔は古代魔法の限界を――ひいては自分自身の力の限界がきたことを悟る。
 古代魔法は、その威力や効果が大きければ大きいほど身体に負担がかかるし、自分の持つ魔力が釣り合わなければ詠唱に失敗することもある。大輔の持ちうる魔力では、その究極の破壊魔法を唱えることはできないのだ。
 だが、それでいいと思う。これで何も破壊されずに済むのだから。自分が死ねば世界は――妻と息子は救われる。

「汝は光 時の果てより現れし者なり ――来たれ “神々の歌”」

 天使の声が魔法の詠唱を完了した刹那――世界が発光した。


 ◆◆◆


「何かしら?」

 夜の浜辺で犬の散歩をしていた若い女は、暗黒の海に目を向ける。遥か遠くの海上で何かが光っていた。最初、月かと思ったが、本物の月はいま彼女の真上で輝いている。
 あの大きさからして、船のライトやその類のものではない。では何か――そう思ったとき、女はその光が徐々に大きくなっていることに気がついた。――いや、違う。大きくなっているのではなく、こちらに迫ってきているのだ。

「ひ……」

 女が逃げようと足を踏み出したとき、その光はもうかなり近いところまで迫っていた。闇の色をした海が一気に漂白されたように白く染まる。
 次の瞬間には浜辺もろとも女を包み込み、更に街のほうへと伸びていく。
 その光は、ひどく温かかった。そしてなぜか懐かしい気がした。遥か昔の楽しかった思い出を呼び覚ますような、不思議な感覚をもたらした。

 ――数分後、全世界がその白い輝きに包まれた。


◆◆◆


「――大地」

 優しい男の声に導かれ、大地はゆっくりと目を覚ます。
 最初に目に飛び込んできたのは、晴天の夏空。巨大な積乱雲が青空の半分近くを覆っている。そして、その空の景観をわずかに遮る黄色の花弁は――

「ひまわり……」

 大地はゆっくりと身体を起こした。
 そこは一面のひまわり畑だった。そよ風に吹かれて黄色い花びらが舞い、数え切れぬほどのひまわりはいっせいに揺れる。

「大地」

 眠っているときに聞いた声と同じ声に呼ばれ、大地はそっと背後を振り返った。
 短い黒髪が風に揺れている。その主、一本の枯れ木の下で優しく微笑んでいる彼は――

「父さん」

 それはもう、“湖の剣”を持つ破壊神ではない。父の温かさがこの離れたところからでも感じられる。
 大地は走った。あのとき――幼い頃に同じ場所で走ったときのように。そして、父の温かい胸に飛び込んだ。

「父さん……」

 なんて温かいのだろう。その温もりはまるですべての生命の親であるかのように優しかった。
 大地はそっと顔を上げる。父の優しい瞳と視線が交わって、微笑んだ。

「大切じゃないものなんかないんだよね?」

 うん、と父は頷く。

「母さんを守ってあげて。守れるのはもう大地しかいないから」
「……父さんは?」
「俺は……もう行かないといけない」

 大きな温もりがふっと離れる。すがるものがなくなった身体は急に寒くなったような気がした。

「空から大地たちのことを見守っているよ」

 その優しい言葉は、実はとても残酷なものである。二人の永遠の別れを証明しているから。

「俺――」

 胸の奥から熱いものが込み上げてくる。それは一筋の涙となって大地の頬を滑り落ちた。

「父さんの息子でよかった」
「俺も、大地みたいな息子を持ててよかった」

 父はいつもの優しい微笑みを浮かべて、大地の頭を撫でる。

「元気で」
「うん」

 大地は涙を拭い、最後に決意したように口を開いた。

「ありがとう」

 その一言は、これまでに口にしたどんな言葉よりも感情がこもっていた。千の言葉を並べるよりもずっと大きく、切なく、穢れのない純粋な言葉だ。
 徐々に薄らいでいく父の姿が完全に消えてしまうまで、大地は微笑みを絶やさなかった。







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