終章 ハルモニア 「――俺はちょっと疲れたから、王宮のほうはもう少しお前に任せていいか?」 <こっちは心配しなくても大丈夫よ。祐輔くんこそ、ゆっくり身体を休めてね> 「ありがとな。頼りになる妻を持てて俺は幸せだぜ」 <円卓の騎士討伐に比べれば、政なんて易しいものだと思うよ。それより、澤村くんたちはどうなったの?> 「あいつらはイクシオンに帰してやったぜ」 <……後悔してない?> 「後悔? そりゃ、二人ともなかなか魅力溢れるやつらだったけど、あっちがあいつらの世界だからな。――じゃあ、そろそろ切るぜ」 <わかった> 「うん。愛してるぜ、華」 聖彼王、滝ノ上祐輔は電話の受話器を置いて、愛用の煙草を口に咥えた。 ◆◆◆ 「なんか悪いな〜。ってか、王女に見舞われてる俺って幸せ者?」 「……もう元気そうなので明日からは来ません」 冗談だって、と慌てて弁解するベッドの上の男に対し、金髪の美少女――谷地仁花は一つ微笑む。 円卓の騎士討伐が終了して二日が経った。飛空艇の医務室で危篤に陥っていた黒尾はようやく目を覚まし、こうして会話できるほどまでに回復している。 「そういえば獅音はどうした?」 「彼ならあなたの食事を取りに行きましたよ」 「そっか」 仁花は持ってきた花束をベッドの脇に備え付けられた台の上に置き、手近の椅子に腰掛ける。 「……俺、生きてんだな」 黒尾は収まりの悪い黒髪を掻きながら、独りごちるようにそう言った。 「自分が騎士からはずれるなんて思ってもみなかった。妄想で自由は何度も見てたけど、いざ自由になってみると不思議な気分だな。嬉しいのは間違いないけど。――あんたのおかげだよ。ありがとな」 「感謝しないといけないのは私のほうです。あなたたちがいなければあの城で死んでいた身ですから」 「じゃあ駆け引きゼロってことで」 黒尾は意地悪げににやりと笑った。 「さて、傷も治りかけてるし、そろそろ今後のこと考えねえとな。つっても何もしたいことねえんだよな〜」 「なら、しばらく聖彼城で働きませんか? 私の秘書になるという手もあります」 「秘書かー。俺絶対似合ってないと思うけど? 他にはなんかあるかなー」 「あなたの能力を生かせる仕事はたくさんあると思います。まずは街に出てみて、それを探すことです。そのあとは……自由に生きてください。自分で手に入れたものですから、遊ぶなり、結婚するなり好きに使ってください」 「……結婚か。考えたこともなかったな。ならあんた俺と結婚してくれよ? そしたら俺は逆玉だ」 「わ、私ですか!? そういうのはちゃ、ちゃちゃちゃんと考えないと駄目ですよ!」 「動揺しすぎだろ!」 開け放たれた窓から風とともに潮の香りが入ってくる。その窓の向こうには広い世界が――ずっと円卓の騎士に縛られていた黒尾たちの、自由がある。 ◆◆◆ 「生きてるね……」 「そうだな……」 浜辺から目の前に広がる黒海を眺めながら、岩泉と及川は安堵の混じった溜息をついた。 アーサー王を完全に打ち滅ぼすために唱えた古代魔法“神々の歌”。詠唱の代償として自分たちの命が失われるはずだった二人だが、戦いが集結したあともこうして生きている。それは死ぬ直前に、アーサー王の息子である澤村大地が、回復系の古代魔法をかけてくれたからだ。 「大地様様だな。あいつになら抱かれたっていいわ」 「俺もー。むしろ結構タイプなんだけど、彼」 しかしその命の恩人は、すでに元の世界――イクシオンに帰ってしまっている。きっともう会うことは叶わないだろう。 「ねえ岩ちゃん、君はこれから何をして生きていくんだい?」 「俺はこれまでどおり、聖彼の大使としてやっていくつもりだよ。聖彼王にはいろいろ恩があるし、いまは靖志もいて賑やかだからな、あそこは。そういうお前はどうすんだよ?」 「う〜ん……とりあえず世界を回って来ようかな。俺、いままでいろんな人を殺してしまったり、いろんな町を壊したりしてきただろ? そこに直接顔を出すわけにはいかないけど、残された人たちのために何か役に立つことをしたいんだ。もちろん、そんなことをして俺の罪が晴れるわけじゃないけどさ」 「そっか……。ま、精々追い立てられねえように気をつけろよ」 「ありそうで恐いなあ、それ。まあ仕方のないことだけど……」 死んだ人は、どんなことをしても生き返ったりしない。だから及川のしたことが赦されることもないだろうし、その罪を背負って生きていくことが及川に与えられた義務だろう。 「ま、たまには顔見せろよ。暇だったら相手してやるから」 「何目線だよ! まあ、岩ちゃんらしい台詞だけどね……」 ◆◆◆ 「鎌ち……だよな?」 話しかけてきた青年の顔は、六年ぶりでも誰だかすぐにわかった。 「久しぶりだな、一喜」 内心ドキドキしながら、鎌先靖志は青年――友人の丸山一喜に微笑みかける。 「いままでどこに行ってたんだよ? マジで心配してたんだぜ」 「悪かった。ちょっと聖彼じゃないどっかに行きたくなったんだよ」 「つーかデカくなったよな。ゴリラっぽいとこは昔と変わんねえから、すぐに鎌ちだってわかったけど」 「ゴリラっぽいとか言うなよ! お前も似たようなもんだろうが!」 「いや、確かに俺もゴリラ系かもしれねえけど、鎌ちには負けるよ」 「こいつめー」 ツンツンした一喜の頭を、靖志はでたらめに撫で回す。そうしたあとに、堪らない気持ちになって彼をそっと抱きしめた。 「……なんだよ?」 「久々に会えて嬉しいんだよ。そういえばお前、結婚するんだって? 一から聞いたぜ」 「ああ、そうだった。式にお前を招待したいんだけど、立場的に大丈夫なのか?」 「ダチの結婚式に出るくらい大丈夫だって。いつ頃やるんだ?」 「もう来月だよ。ぎりぎり鎌ちが帰って来てくれてよかったよ。子どもの頃鎌ちにはいろいろ世話になったから、式には絶対来てほしかったんだ」 同じ学校に通い、毎日のように一緒に遊んでいたあの頃が懐かしく思い出される。ある日から一喜は学校に来なくなり、靖志が心配して家を訪ねると、“ハルモニアの闇”に憑りつかれた彼を見つけた。 あの事件のことはいまも記憶に強く焼きついている。こうして一喜が元気に生きている未来など、あのときは想像もできないほどだった。 「結婚おめでとうな。幸せになれよ」 彼が幸せになれたなら、それは靖志にとっても嬉しいことである。けれど心の隅っこのほうでは、それを寂しく思う自分がいた。 「ありがとな。鎌ちはそういう相手いないのか?」 「いまのところはいねえよ。――なあ、時間あったらいまからそこのカフェ行かねえか? お前に聞いてほしい話があるんだ」 「なんだよ? 旅の話か?」 「それもあるけど、もっと聞いてほしいことがあるんだよ。――オレの初恋の話」 ◆◆◆ 「よし、これで十人抜き! さあ、次は誰? どこの誰でも相手になってあげる!」 地面に転がる――決して死んではいない――属庭軍の兵士たちを見下ろしながら、木刀を握った美人シスターは声高らかに挑発する。けれどその挑発に答えてくれる兵士はおらず、シスター――田中冴子は呆れて溜息をついた。 「何よ、もう終わりなの? 戦争がないからってあんたたちちょっと弛んでるんじゃない? 弱いったらありゃしない」 「姉ちゃん、もうその辺にしとけよ。属庭軍の兵士だって人間なんだからな」 そんな高飛車な冴子を諌めたのは、彼女の弟である龍之介だ。 「あら、その言い方だとアタシがまるで人間じゃないみたいじゃん?」 「半分そうだろ……」 「失礼ね。一応人間の範囲内のはずよ、ぎりぎり。ねえ、本当にもう終わりなの? 準備運動にもなってないわよ?」 「――ヘイヘイ! じゃあ俺が相手になるぜ、姐さんよう」 誰も名乗り出ようとしない中、向こうから堂々とした歩みでこちらに近づいてくる者がいた。長身で逆立てた白髪が特徴的な、若い男だ。自信ありげな笑顔はどこか軽薄そうだが、その佇まいや身体のつくりはここまで冴子に挑んできたそこらの兵士たちとは一線を臥している。 「あんたは確か……」 「属庭軍総隊長、木兎光太郎! よろしく頼むぜ」 「へえ、隊長さんね〜。いままでの雑魚どもとは一味違うってわけね。これは楽しめそうだわ」 「期待してくれて嬉しいぜ。んじゃ、さっそく行くぜ」 総隊長が地面に落ちていた木刀を拾い、隙のない構えを見せる。いつ始まっても問題がないといった様相だ。 「こちらこそよろしく、総隊長さん。楽しく遊びましょ」 言葉が途切れ、二人の間に沈黙が舞い降りる。だがそれは一瞬のことだった。次に呼吸をしたときにはどちらも亜音速に迫るスピードで駆け出しており、それぞれの武器がぶつかり合って激しい音を立てた。 ◆◆◆ もう何度眺めたかわからないその写真を、中島猛は今日もまた飽きずに眺めていた。写真の中で満面の笑みを浮かべる猛の隣に、同じように笑う同い年の青年がいる。指先で触れてもそれはフォト用紙のさらりとした感触しかしない。 「またそれ見てんのか?」 声をかけてきたのは、モッツァリーナのチームメイト、笹谷武仁だった。彼は猛の隣に座り、猛の手にある写真を覗き込んだ。 「あいつが聖彼に行ってからもう一カ月近く経つんだな。入れ替え戦なんてつい昨日のことだと思ってたのに」 「大地、無事に聖彼に着いたかな? もうイクシオンに帰ったかな?」 「さあ、どうだろうな。どっちにしても俺らがあいつの恋人になれた確率は限りなくゼロだったと思うぜ。海ってやつのこと、本気で好きみたいだったからな」 「そうだな……」 猛も笹谷も、イクシオンから来た彼に本気で恋をしていた。残念ながら実ることはなかったけれど、あの出逢いは自分の中で大切な思い出の一つとして心に残っている。 もちろん、いまも逢いたいと思うことがないわけじゃない。ふとした瞬間に彼と過ごした日々を思い出し、泣きたくなるくらいの切ない想いに駆られる。それは一度や二度のことじゃなかった。 「もう逢えないってんなら、せめてあいつの幸せを祈ってやろうぜ。それにお前はスター選手になるんだろ? いつまでも失恋に浸ってないで、やることやってこうぜ」 「それはささやんもだろ。ささやん、怪我する前より明らかに下手になってんじゃん」 「安心しろ、すぐに追いつく」 バレーボール界で誰もがその名を知っている。猛はそんな選手になりたかった。そうなったときの自分を彼に見せることはできないかもしれないけど、自分の確固たる夢は実現したいと心の底から思っている。それにもしかしたら、いつかハルモニアとイクシオンを一般人が自由に行き来できる時代が来るかもしれない。もしもそうなって彼と再会できたとき、胸を張って彼の前に立てる立派な人間になりたかった。 (大地、俺絶対に夢を叶えるよ。だから、顔が見えなくてもいいからさ……俺のこと応援しててくれよ。俺のこと、忘れないでくれよ。俺も絶対お前のこと忘れないからさ) この世界のどこかで――あるいは遠い世界で生きる彼に、猛は心の中で語りかける。そしてどうか幸せに生きてくれと、切ない想いを滲ませた祈りをひっそりと捧げた。 |