『――大地』

 誰かの声が名前を呼んでいた。それは大地の知っている声のはずだが、まだ覚醒していない不鮮明な意識の中では、それが誰のものなのか判別できなかった。

『大地』

 もう一度呼ぶ。内耳に滑り込んでくるそれをひどく懐かしいと感じながら、声の主を捜そうと辺りを見回した。
 大地がいたのは誰もいない砂浜で、数十メートル先には墨汁を垂らしたような暗い色の海が果てしなく広がっている。この景色も声と同様に懐かしく、同時に寂しさや切なさを大地の胸に湧き上がらせた。

『大地、俺絶対に夢を叶えるよ。だから、顔が見えなくてもいいからさ……俺のこと応援しててくれよ。俺のこと、忘れないでくれよ。俺も絶対お前のこと忘れないからさ』

 空から降ってくるようにして聞こえてくる声。目の前に広がる海の名前を思い出すと同時に、声の主の顔が頭の中にはっきりと浮かんできた。

(そっか、この声は猛の……)

 逢いたい、と唐突に思う。いまは写真の中でしか逢えないバレーボール青年に、無性に逢いたくて心が震える。近くにいるのだろうか? 森の中の家? それとも体育館? 彼と過ごした思い出の場所をいくつか頭の中に挙げながら、大地は砂浜を走り出していた。
 けれど砂浜を脱する前に、何かの機械音のようなものが聞こえてきて大地は足を止めた。これは毎朝耳にする、聞き慣れたあの音だ。

(なんだ、ここは夢の中だったのか……)

 自覚した途端に目の前の景色がグニャリと歪んだ。そしてけたたましく鳴り響く目覚まし時計の音に導かれ、澤村大地は覚醒を余儀なくされた。
 だるい身体をゆっくりと起こし、目覚まし時計のアラームのキャンセルスイッチを押す。ついでに時刻を確認するが、その瞬間に大地は目を見開くことになった。

「八時四十分!?」

 大地の通う高校は九時までに登校しなければならない。遅刻はもちろんマイナス点で、多ければ成績や進路に大きな悪影響を及ぼす。過去に幾度となく遅刻を重ねた大地にこれ以上のそれは赦されない。即刻即行俊足で身支度を済ませ、部屋を出てすぐの階段を駆け下りた。

「――あら。いま起こしに行こうと思ってたのに」

 一階の床に着地したと同時に、すぐそばから母の暢気な声がかかった。

「遅いよ!」
「ごめんね〜。私もうっかりしてて」

 そのうっかりしたところを大地が引き継いでしまったのは、こうして目覚ましのセットを間違えて遅刻のピンチに陥っている事実が、はっきりと証明している。
 いくら急いでいるとはいえ、さすがに顔も洗わずに出るのはいろいろと拙いだろう。大地は手早く洗顔を済ませ、一通り身なりにおかしいところがないかチェックしてから家を出ようとする。

「あ、大地! 文化祭って今日だったよね?」

 靴を履き終わったところで、母が思い出したようにリビングから顔を覗かせた。

「そうだよ!」
「大地、今日歌うんでしょ? 私観に行くから頑張ってね」
「わかった! じゃあ行ってきます!」

 ――八時五十分

 学校までの距離は約二キロだ。走ることが好きで、体力に自信がある大地でも、その距離を十分で完走するのはなかなか厳しいものがある。だからといって諦めて歩くわけにはいかない。それにまだ手がなくなったわけではないのだ。

「――おう、澤村。ひょっとしてお前も遅刻か?」

 このくそ忙しい場面におおよそぐわない暢気な声がかかったのは、大地が線路沿いの細い道に入ったときだった。

「烏養先生!」

 振り返ると大地のよく知る顔が、十メートルほど後ろを走っている。目つきには少し鋭さを感じるが、その顔は十分に男前と評価するに値するだろう。髪の毛は綺麗な金色をしていて――教師としてその色はどうかと思うが――、いまは寝癖らしき痕がいくつか付いている。

「先生も遅刻ですか?」

 ああ、と金髪の男前――大地のクラスの担任教師、烏養繋心は頷いた。

「一昨日ちょいと飲みすぎちまってな……まだ調子悪いんだよ」
「どうせいい出逢いはなかったんでしょ?」
「失礼だな。昨日は一人、向こうから声かけてくれたんだよ。そんで、付き合うってことになった」

 それは珍しいことではあるが、決しておかしなことではない。烏養はなかなか男前だし、中身だって面倒見がよくて優しい。密かに彼に想いを寄せる女子生徒も少なくなかった。

「ところで澤村。このままじゃ俺たち遅刻確定なんだが……やっぱりあの方法しかねえのか?」

 烏養の質問に、大地は苦笑しながら頷いた。

「そうですね。あれしかないと思います」

 低い汽笛の音が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。
 大地たちの左手、線路の上を貨物列車が汽笛を鳴らしながら通り過ぎようとしている。先頭車両が通り過ぎたと同時に、大地は線路内に侵入。烏養がそれに続く。

「やっぱ無茶苦茶だろ、これ!」
「でもこの間はこれで始業に間に合ったでしょ!」

 貨物列車は最寄駅を出たばかりでそれほどスピードは出ていない。飛び乗るのにはそれほど苦労もしないと、過去の経験から知っている。
 後ろに連なる数々の貨物車の中から一つを選び、大地は脇についた小さな梯子を掴んで一気に登り上がった。烏養も危なげなく梯子に捕まることができ、大地は彼の身体を引き上げてやる。

「ふう……」
「はあ……」

 二者二様に溜息をつき、空いたスペースにそろって座る。
 烏野高校まで、もうすぐだ。





 ひまわりの記憶 (Harmonia 最終部)




最終章 遠い世界がくれたもの


 始業のチャイムと同時に、大地は教室の自分の席に着くことができた。なんとか遅刻は免れたようだ。

「危なかったな、大地」

 大地の前の席のクラスメイトが、からかうような笑みを浮かべながら話しかけてくる。

「つーか、今日ステージで歌うっていうのに寝坊したのか? ホントは緊張してないでねーの?」
「めっちゃしてるわ! むしろ緊張してなかなか寝つけなかったんだけど」
「あ、そっち? けど大丈夫だべ。なんつっても海が一緒なんだから。な、海?」

 前の席のクラスメイト――友人の菅原が隣の席に話を振った。すると目立つ坊主頭がこちらを振り返り、目が合うと困ったように苦笑した。

「実は俺も大地くんと同じで、緊張してあんまり眠れなかったんだけど……。あ、遅くなったけどおはよう、大地くん」
「おはよう。むしろ遅くなったのは俺のほうなんだけどな……」
「海ってどっしり構えてる感じあるけど、普通に緊張するんだな。そういうところでも似た者同士なのかー、このバカップルは」
「誰がバカップルだ!」
「ああ、今日も朝からバカップルのイチャイチャに板挟みされる……」
「うるさいよ!」

 海と恋人として付き合い始めてそろそろ四ヵ月になる。菅原やもう一人の友人の東峰には、自身がゲイであることは以前から打ち明けていたし、隠す必要もないかと思って早々に海とのことは話している。
 二人とも祝福してくれたが、菅原にはやはりからかわれることが多かった。けれど大地も菅原の弱点はよく知っていて、お返しにそこを突いてやろうと思い立つ。

「スガだって、清水さんとはどうなんだよ? あんなにいつも見てるのに進展はないのか?」
「え、菅原くんって清水さんのことが好きなの?」

 周りには聞こえないくらいの小声で海に訊かれ、大地は首肯した。

「こら大地! なんで海にばらすんだよ!」
「俺たちのことはちゃんとお前に話したんだから、win-winってやつだろ? あとからかってばっかのお前が悪い」
「清水さんって美人だし、モテるみたいだから急がないとやばいんじゃないかな? あ、それとももう彼氏がいたりして……」
「海……仏みたいな顔してありそうな冷たい現実を言うのやめてよ。本当にありそうで恐いだろ」
「けど見てるだけじゃ何も始まらないだろ? ここは勇気を出して一歩踏み出してみたら?」
「リア充のその余裕が羨ましいやら憎たらしいやら……。もう爆発しちまえ」

 いつもの調子のよさが崩れた菅原は、烏養が来るまで海に詳しいことまで質問されて、更に調子を崩していった。
 平和だな、と何気ない会話の中で大地は思う。ここでは突然巨大竜巻が発生することもなければ、強大な兵器と世界の破壊を目論む騎士団を乗せた城が空の上に現れるようなこともない。
 平和すぎて退屈だと感じないことがないわけではないけれど、だからと言って何か特別な刺激は必要ないなと、恋人や友人の顔を見ながら思っていた。むしろこの日常がこれからも続いていくことこそが、大地にとっての一番の幸せなのだろう。そう自覚していた。



(観客はみんなかぼちゃだ……いや、ミートボールだ)

 謎の呪文を心中で唱えながら、大地は再度深呼吸する。
 目前に迫る自分の出番に緊張は高まるばかりだった。鼓動はバクバクと音が聞こえてきそうなほどに強く脈打ち、手足がわずかに震えているのがわかる。いつもは客席に座ってゆっくり楽しんでいた文化祭のフリータイム。しかし大地は今年、ステージに立つ側としていまこのときを迎えていた。
 きっかけは担任教師である烏養の一言だった。大地に作詞・作曲の趣味があると知った烏養は、自らがギターを趣味にしているのもあって、フリータイムで一緒に演奏しないかと持ちかけてきたのである。
 最初迷った大地だが、やはり曲を作る以上はそれを誰かに聴いてもらいたいという思いもあったから、悩みながらも烏養の提言を受け入れた。そのことをいまは死ぬほど後悔している。あまりの緊張に吐きそうだ。
 ボーカルは大地自身が担当し、バック演奏はギターを烏養、ドラムを烏養の友人の嶋田、ベースを菅原の兄、そしてピアノを海が務めてくれる。当初はなかなか呼吸が合わずに苦労した四人だが、練習を重ねていくうちにまとまりが生まれるようになり、いまは一つのバンドとして上手く噛み合っていると言えた。

「大地くん」

 聞き慣れた優しい声が大地を呼んだ。振り返れば、海がその声に見合った柔らかい微笑みを浮かべて立っていた。海は大地の両手を自らの両手で包み込むようにして握り、瞳を覗き込んでくる。

「大丈夫だよ。俺もそばにいるし、頼りになる先生たちもいるんだ。一人じゃないってことを忘れないで。それに大地くんはこれよりも大変なことをいっぱい乗り越えてきたじゃないか」

 大地と一緒にあちらに渡った海は、大地が苦しんだこと、辛かったこと、そして乗り越えてきたものを知っている。いつもそばで支えてくれた彼を、大地はあちらに渡る前よりも確実に、より深く愛しく感じるようになっていた。そんな海の言葉だからこそ、それは大地の胸に安堵にも似た温もりを生み、少しだけ緊張が和らいでいた。

「やっぱり信行くんはすごいな。いつも言葉一つで俺を安心させてくれる」
「それは俺が大地くんのことを大切に想ってるからだよ。いつどんなときだって、大地くんの支えになりたいって思ってる。だからそういう言葉をかけられるんだと思う」

 本当にすごく好きなんだよ、と海は照れたようにはみかみながら口にした。

「信行くん、ハグしてもいい?」
「うん、いいよ。俺もいましたいなって思ってた」

 見つめ合い、笑い合ったあとにどちらともなく抱き合う。恋人として付き合い始めてからキスもしたし、それ以上のことだってしたけれど、こうして抱き合うときが一番幸せを感じる。このまま時間が止まってしまえばいいのにと願いかけたけれど、無情にも自分たちの出番がアナウンスされた。

「行くぞ、そこのリア充ども」
「はーい」

 烏養の呼びかけに二人そろって返事をして、ステージに続く小さな階段を上る。
 観客の温かい拍手に出迎えられ、それぞれの位置に着いた。ボーカルの大地はもちろん最前のセンターだ。
 客席は多くの人で埋め尽くされている。しかしそちら側には照明が当たっていないので、彼らの顔まではよく見えなかった。おかげで緊張が少しだけ緩和する。

「――今年の夏は少し変わった夏でした」

 大地がマイクに向かって声を出すと、鳴り響いていた拍手が一斉に止み、静かな空気が会場に舞い降りた。

「ここじゃないどっか遠いところに行って、そこでいろんな人たちに出逢いました」

 ハルモニアで体験した出来事は、時々すべてが夢だったのではないかと疑いたくなるほどに、不可思議で現実離れしていたものだった。けれど海もちゃんと同じ記憶を持っているし、こちらの世界では実際に大地たち二人は行方不明になっていた。何よりの証拠として大地は二枚の写真を持っている。虎宇都島のバレーボールチーム“モッツァリーナ”のチームメイトたちと撮った写真と、こちらに戻ってくる直前に聖彼の皆と撮った写真だ。

「そこで出逢った人たちは、俺に大切なことを教えてくれました。大事な人を失っても強く生きていくこと。夢に向かって諦めずに努力し続けること。そして、大切な人やものを守るために必死に戦うこと」

 異世界に迷い込んだ大地を助けてくれた狼。
 大地を危険から守ろうとしてくれた召喚士。
 両親を失くしながらも強く生きようとしていた少女。
 自分の夢を追いかけながら、大地を好きだと言ってくれたバレーボール青年。そしてそのチームメイトたち。
 大地を家族と言ってくれた教会の司祭と姉弟。
 一緒に戦ってくれた聖彼城の人たち。
 そして――
 世界を滅ぼそうとしながらも、最後には自分の愛するものを思い出してくれた破壊の王――いや、優しい父。

 あの世界にはいろんな人たちがいて、そしてそれぞれにいろんな人生があった。大地は彼らから多くのことを学び、たくさんの思い出をもらった。いい思い出ばかりというわけではないけれど、それでもやはり彼らに出逢えてよかったと、心の底から思っている。
 きっともう逢うことは叶わない。だからこそ一生彼らのことを忘れないと、大地は固く誓っていた。

「家族とか友達とか恋人とか、いまは当たり前のようにそばにいるかもしれないけど、いつ何が起こるかわかりません。だからその人たちと一緒にいられる時間を……いや、その人たちそのものを大切にしてください。できればその人たちだけじゃなくて、身の回りの人やもの、全部。この世界に大切じゃないものなんかないから」

 ――そうだよな、父さん?


 あなたはそこで囁く
 ひまわりに囲まれた思い出の場所で僕に笑いかけながら

 だけどその言葉は風に吹き飛ばされて
 暗い海の中に沈んでいった

 もしもあのときあなたの言葉を聞けたなら
 僕はあなたを止めることができたかな

 空の上から見下ろす世界
 星のように輝いて見えるのはすべて大切だから
 あなたにそれを伝えてあげたなら
 僕たちは幸せになれたかもしれない


 あなたはそこで微笑む
 青空が広がる記憶の場所で僕をじっと見つめたまま

 だけどその微笑みはどこか悲しそうで
 僕はとても不安になった

 もしもあのときあなたに理由を訊ねていたなら
 あなたに心から笑ってもらうことできたかな

 風に乗って見下ろす世界
 隙間もなく輝いて見えるのはすべて大切だから
 あなたもきっとあのどこかに
 大切なものの中にいる

 あなたが世界をいらないと言うなら
 僕は翼を羽ばたかせてあなたの元に行く
 そしてあのとき聞けなかった言葉を
 今度はちゃんと聞くよ

 今度こそあなたを笑わせて
 僕らは幸せに向かって歩き出す

 繋いだ手は温もりを生んで
 愛を現実にしてくれる



Harmonia End




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