01. 俺の初恋はいったいいつ頃来るんだろうか?

 すすり泣くような声がした。

 引っ越してきたばかりの土地を歩いて散策していたときのことだ。橋を渡る直前になってそれは微かに聞こえてきた。立ち止まり、耳を澄ませる。――やっぱり聞き間違いじゃない。
 俺――澤村大地は、声のしたほうに向かって歩いていく。低い土手の斜面を下り、辺りを見回すと声の主はすぐに見つかった。橋を支える柱の出っ張り部分にその人は座り、顔を伏せてはいたけど肩が震えるのを見て泣いているのだとわかった。
 坊主に近い短い髪をしていた。どうやら男のようだ。鼻をすする音と嗚咽の音を絶え間なく零している。何か悲しいことでもあったんだろうか? それともどこか怪我でもしたのだろうか? 知らない人と、しかもこんなところで泣いているような人と関わりを持つのはどうかとも思ったけど、俺は放っておけなかった。気づけばその人がいる場所まで自分も上がっていて、なんの迷いもなく声をかけていた。

「あの、大丈夫ですか?」

 泣いていた人が、ゆっくりと俺のほうを振り返る。
 歳は俺と変わらないくらいだろうか。真面目そうな、それでいて優しそうな顔をした人だった。大きめの瞳は真っ赤に腫れ、いまもまだ頬っぺたを涙が流れ落ちている。その人は俺を見て一瞬だけ呆然としたあと、慌てたように手で涙を拭った。

「あ、いえ、これはちょっと辛いことがあっただけで……。すいません」
「いや、俺のほうこそ急に声かけてすいません。ひょっとしたら怪我でもしてるのかと思って」
「大丈夫です、本当に。そろそろ治まると思うので……。あれ? おかしいな。まだ出てくる……」

 ボロボロと涙を零すという表現があるが、まさにそんな泣き方だった。目を押さえた指の隙間を、受け止めきれなかった涙が伝ってまた落ちていく。彼の座ったコンクリートの上には大きな染みができていて、たくさん泣いていたことを知らせていた。
 俺は不躾にも彼が泣いている様子をじっと眺めていた。こんなに悲しそうに泣く人を、俺は生まれて初めて見たかもしれない。物珍しいのもあったし、やっぱり放っておけないという気持ちもあって、そばを離れることができなかった。
 それから少しして、俺はさっき道端でポケットティッシュをもらったことを思い出した。ジーパンのポケットにしまっていたそれを取り出して、もう一度声をかける。

「これ、使ってください。さっきそこで配られていたやつだけど」

 彼はちょっと驚いたような顔をした。

「あ、ありがとうございます。全然知らない人なのに、こんな親切にしてもらっちゃって……」
「こんなに泣いてる人を放っておく人はいないと思いますよ。あ、それともやっぱり一人にしたほうがいいですか? 邪魔なら退散しますけど」
「いえ……。もう少しだけ、そばにいてもらってもいいですか? 誰かがそばにいると少し気が紛れるから」
「わかりました。じゃあ隣座らせてもらいますね」

 俺は彼の隣に腰を下ろす。しばらくすすり泣く声は止まなかった。丸まった彼の背中を無性に擦ってやりたい気持ちに駆られたが、さすがに厚かましいかと思ってやめておいた。
 嗚咽が落ち着き始めたのは、それから五分くらい経った頃だろうか。ふと彼が顔を上げて、泣き腫らした目で俺のほうを見る。

「あの、話を聞いてもらってもいいでしょうか?」

 遠慮がちにそう訊ねてくる。

「いいですよ」

 もちろん俺は断らない。俺に話して彼が少しでも元気になるんだったら、それに越したことはなかった。

「小学校の頃からずっと仲のいい友達がいたんです。俺はそいつのことがずっと好きで、大学が別になるからと焦って、今日告白をしました。そしてフラれました」

 彼が泣いていた原因は、失恋だったようだ。ありがちなことだけど、でも失恋で人はこんなにも悲しみに暮れてしまうんだと少し驚いてしまう。そう思ってしまうのは、俺がいままで誰かを本気で好きになったことがなかったからだろう。

「告白をしたことに後悔はありません。でもやっぱりあとからどんどん悲しくなってきて……これから先も、俺がそいつの一番になることはないのかと思うと、とても切ない気持ちになりました。それで涙が止まらなくて……大の男が情けないですよね、こんなの」
「そんなことないと思いますよ。男だって悲しいときは泣いていいし、辛かったら辛いって言っても別にいいと思います。俺も悔しいときとかよく泣いてましたから」

 泣くことは決して間違いじゃないのだと、俺が好きな歌手がある曲の中で歌っていた。泣くことで前に進むことができることもあるし、涙と一緒に悲しみが流れて元気になれるのだと歌った歌詞が、とても印象に残っている。

「優しいんですね。見ず知らずの俺を慰めてくれるなんて」
「困ってる人を放っておけないんですよ。泣いてる人なら尚更です」
「それでもすごいと思います。そういうの、誰にでもできることじゃないから」

 直球で褒められて、ちょっとむず痒いような感覚に襲われる。普通に照れくさかった。

「実は、俺が告白した相手なんですけど……男なんです」

 言いにくそうに放たれた言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。え〜と、告白した相手が男? で、彼もどこからどう見ても男。男と男。あ、なるほど。そういうことなのか。

「やっぱり気持ち悪いですよね?」

 表情を曇らせた彼に、俺は慌てて首を横に振った。

「いや、そんなことないですよ。そういう偏見俺にはないんで。ただそういう人に出会うの初めてだから、ちょっとびっくりしました」
「まあ、普通はなかなか出会わないですよね……。俺もゲイであることを人に言ったの、さっきの友達を除けばあなたが初めてです」
「その友達は大丈夫だったんですか? ひどいことを言われたりしませんでしたか?」
「それは大丈夫でした。告白は断られたけど、いままでどおりの友達でいようって言ってくれて……。それはちょっと嬉しかったです」
「ならよかったですね」
「はい。あなたにも偏見されなくてよかったです。知らない人でも、やっぱり打ち明けるのは勇気が要りました。いまちょっとホッとしてます。やっぱりあなたは優しい人だと思います」
「こんなの普通ですよ」

 本気で優しいと言ってくれている顔に照れくささが増し、俺はそれを隠すように彼に背を向けた。

「名前、教えてもらっていいですか? あ、もちろん嫌だったらいいですけど……」
「名前くらい大丈夫ですよ。俺は澤村大地って言います」
「あ、なんか大地さんって感じの雰囲気ですよね。とても似合ってます」
「なんか照れますね、名前褒められるのって……。あなたはなんていうんですか?」
「奥岳誠治です。誠に治めるで、誠治」
「誠治さんも誠治さんって感じの雰囲気ですよ」

 見るからに誠実で真面目と言った雰囲気だし、名前負けしてないな〜。

「澤村さん、本当にありがとうございました。澤村さんが話を聞いてくれたおかげで、少し楽になったような気がします」
「こんな俺でも役に立てたなら、よかったです。一人で帰れますか?」
「はい、大丈夫です。澤村さんはきっと、これまでもたくさんの人を助けて来たんでしょうね。とても尊敬します」
「いや、尊敬されるほどのことはしてないと思うんですけど……」

 また褒められた。なんか恥ずかしくて死んでしまいそうだから、あまり褒めないでほしいな〜。しかもそんな純粋な瞳で見られても……俺はそんな尊敬されるようなやつじゃないと思うんだけど。

「じゃあ、そろそろ行きますね。さようなら」
「あ、はい。さようなら」

 奥岳さんは最後に少しだけ笑顔を見せて、土手をゆっくりと上がって行った。その背中が完全に見えなくなってから、俺も散策の続きを再開する。
 はあ、恋か。俺の初恋はいったいいつ頃来るんだろうか? もう大学生になるけど、未だにそれは訪れない。友達はあの子が好き、この子が好きって中学生になった頃にはみんな言ってたから、俺はやっぱり遅れてるんだろうな〜。
 そもそも人を好きになるってどんな感覚なんだ? すぐにわかるもんなのか? そういえば俺って男と女どっちを好きになるんだろう? いままでは普通に女の子を好きになるものだと思っていたけど、さっきの奥岳さんの話を聞いて、もしかしたらそうじゃないのかもしれないと気づいてしまった。
 と言うか、失恋してあんなに泣いていた奥岳さんを見ていると、恋なんかしなくてもいいと思ってしまう。叶わない恋だっていくらでもあるんだろう。俺だって誰かを好きになって、そして失恋をして、さっきの奥岳さんのようにボロボロを泣く日が来るのかもしれない。そうなるくらいなら、誰も好きにならないほうが幸せなんじゃないだろうか?
 以上、恋愛初心者――いや、それ未満の俺の独り言でした。



 近所のスーパーやコンビニの場所、それからアパートから大学までの道のりもしっかりと確認して、俺の散策は終了した。帰り際にさっき見つけたスーパーで晩飯の惣菜を適当に買って、今日住み始めたばかりのアパートに帰宅する。
 アパートは建ってから一年くらいしか経っていないらしくて、外観も中も結構綺麗だ。その割に家賃は安く、お金のない学生(とその親)にとってはかなり条件のいい物件だった。
 敷地に入ったところで、階段を上る人の姿を見つけた。身長は俺より少し低いくらいで、坊主が少し伸びたような地味な髪型をしている。……って、あれ? この後姿めちゃくちゃ見覚えあるんだけど……。

「奥岳さん!」

 声をかけると、丸くて形のいい頭がこっちを振り返った。




続く





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