06. 俺の想いは決して行き場をなくしてはいなかった 「こんな時間にごめんな」 そう言って誠治は苦笑した。 「いいよ。こんな時間って言うほどの時間でもないしな。上がるか?」 俺は内心で舞い上がっていた。久しぶりに誠治とまともに会話ができる。そのことが嬉しくて顔がにやけてしまいそうだった。 「いや、すぐ済むからここでいいよ」 だけど誠治はそう言って俺を突き放す。いや、誠治にそういうつもりはなかったのかもしれないけど、俺は突き放されたような気がした。 「実は来週、別のアパートに移ることにしたんだ」 「えっ……」 その言葉はまるで死の宣告のようだった。思わず呆然となりながら、だけど理由はちゃんと聞いておかないといけないと思って声を出しかける。 「そ……」 だけど俺の口は、理由を訊くための台詞とは違う台詞を吐き出そうとした。だからすぐに出かけた声を飲み込んだけど、腹の奥底から湧き上がってくる激情は、そのまま黙ることを赦さなかった。 「そんなに鎌先がいいのかよっ」 俺が鎌先の名前を出すと、誠治は一瞬キョトンとする。 「そんなに鎌先のことが好きなのかよっ。俺と一緒にいてあいつに変な勘違いされるのがそんなに嫌か? 心配すんなよ。俺と誠治はそういう関係じゃないってあいつにははっきり言ってやったから」 「ちょっと待てよ。なんでここで鎌ちが出てくるんだよ?」 「だって、お前はあいつのことが好きなんだろ? 俺よりも大事なんだろ? だから俺のこと避けて、あいつと仲良くしたんじゃないかっ。アパート移って俺のこと遠ざけてまであいつとくっつきたいんじゃないのかよっ」 「俺は別に、鎌ちのことそういう意味で好きなわけじゃ……」 「そんなの嘘だっ。だってあいつといるときのお前、すげえ楽しそうだったじゃん。最近俺には全然笑いかけてくれなくなったし、それどころか話もしてくれねえのに……。部屋だってすぐ隣なのに会いに行けない。会いに行ったとしてもお前に困った顔されたり、あしらわれたりしたらたぶん俺は傷つくんだろう。いまだって部屋上がらないって言われて、すげえ寂しい気持ちになった。俺はそんくらいお前のこと意識してんのに、それでもお前は鎌先を選ぶんだろう? あいつのほうがいいんだろ?」 俺はきっと誠治の一番にはなれないんだ。どんな好きでも同じ気持ちが返ってくることはない。そのことを虚しく思うと同時に、無性に腹が立ってつい声を荒げてしまう。 「好きならさっさと告白すればいいだろ! そんで……そんで、フラれてしまえばいいんだっ」 言ってはいけないことだとはわかっていた。でも言わずにはいられなかった。俺のどす黒い本心。誠治には絶対見せたくなかったのに、もう上手く理性が働かなかった。 「だからこの件に鎌ちは全然関係ないんだって!」 怒りでグチャグチャに心を荒らしている俺に、誠治が冷や水をかける。 「確かに鎌ちとは最近一緒にいるけど、それは別に下心があるからじゃない。ただ他にあまり仲のいいやつがいないからだ」 「じゃあ他に好きな人がいるのか?」 「そうじゃなくて……わかったよ。全部話す。話すからその顔やめてくれよ。大地のその顔は普通に恐いから。やっぱり上がらせてもらってもいいか?」 俺は何も言わずに身体を引いて、誠治が中に入れるようにしてやった。 誠治が俺の部屋に上がるのは久しぶりだ。一緒に晩飯食ってたりしてたのなんてもうずいぶんと遠い昔の話に思えてしまう。冷蔵庫から取り出したオレンジジュースは、前に誠治のために買っておいたものだ。それをちゃぶ台の前にちょこんと座った本人に出してやる。 「鎌先じゃなかったら誰なんだよ、誠治の好きな人って」 単刀直入にそう訊ねると、誠治は困ったように苦笑した。 「……言うって決めたはいいけど、やっぱり緊張するな。少しだけ待ってくれる?」 「待つってどれくらい? 俺も緊張してるんだから早くしろよ。あ、やっぱり及川が好きなのか?」 「鎌ちはまだしも、及川は勘弁してくれよ! 前にも言ったけど、俺そんなに趣味悪くないぞ!」 「容赦ないな……及川泣くぞ」 「あいつはそんなにか弱くないだろ」 誠治は前に、俺の知っている人を好きになったと言っていた。及川と鎌先の線が消えたなら、あとはサークルの先輩か同じ学部・ゼミの人間ということになる。いや、案外教授だったりして? 早く聞きたいけど、でも少しだけ聞くのが恐い。知ってしまうと、その相手を見ている誠治に気づいてしまうと、また自分の心の中が荒れるような気がしたからだ。 「俺は……」 しばらくして、誠治が覚悟を決めたように顔を上げた。 「俺は……俺の好きな人は、とても優しい人なんだ」 「優しい人?」 「そう。俺はその人の優しさに救われた。その人がいてくれたから、辛いことを乗り越えられた。だからすごく感謝してるし、尊敬もしてる。最初はそれだけだったけど、一緒にいるうちにそれが恋愛感情に変わっちゃって……いまはその人のことが好きで堪らないんだ」 俺のほうを向いた瞳には、いま語った相手への好意が滲んでいるようだった。 「その人はいつも俺のことを心配してくれる。落ち込んでいると、すぐに気づいて励ましてくれた。俺が笑えるようになるまでそばにいてくれた」 俺だってそうだ。誠治が落ち込んでたら心配するし、励ましもした。誠治に笑っていてほしいと、いつもそう思いながらそばにいた。……それでも誠治は俺を好きになってはくれなかった。 「大地」 ふいに名前を呼ばれて、勝手に一人で落ち込みつつあった俺は慌てて顔を上げた。そこには久しぶりに見る、誠治の優しい笑顔があった。俺はその笑顔が好きだった。見るたびにいつも癒されていたんだ。 「大地はいつも優しかった。いつも俺のことを気遣ってくれて、それがとても嬉しかったし、大地のおかげで嫌なことがあってもすぐに笑えるようになった。俺はそんな優しい大地がとても好きだよ。たぶんこの気持ちは他の誰にも負けない。俺が好きなのは鎌ちでも及川でも、他の誰でもない。――大地が好きなんだ」 一瞬、俺は自分の心臓が止まったかと思った。それくらい驚きながら、急に降ってきた言葉の真意を確かめようと誠治の顔を見る。目が合うと、誠治は照れたようにはにかんだ。それでいまの言葉が嘘じゃないのだと悟った。いや、もちろんそんな確認しなくったって、誠治はそんな嘘をついたりはしないけど。 「マ、マジ……なんだよな?」 「うん。ごめん……」 「なんで謝るの?」 「だって、やっぱり嫌だろ? 大地は俺のこと友達として仲良くしてくれてたのに、俺はその隣で邪なことばっかり考えてた。そういう目で見てたんだ。大地はゲイじゃないから、そういうのは気持ち悪いだろ?」 「俺の気持ち、勝手に決めんなよ。俺は一度だって誠治のこと気持ち悪いだなんて思ったことないし、誠治の気持ちを知ったいまだってそれは変わらない。それに……俺も好きなんだ、誠治のこと」 俺の想いは決して行き場をなくしてはいなかった。ちゃんと辿り着いてほしいところに辿り着くことができた。そのことが嬉しくて――誠治と気持ちが通じ合っていることがどうしようもなく嬉しくて、俺は泣きそうになってしまう。 「う、嘘じゃないよな?」 困惑したような顔で誠治はそう訊いた。 「嘘じゃないよ。紛れもない俺の本心」 「友達として好きってのを勘違いしてるわけじゃないんだよな?」 「勘違いなんかしてないよ。だって俺、誠治とキスしたいって思ったことあるし、いまも思ってる。さっき言ったじゃないか。俺はお前のことすごく意識してるって。だから鎌先にも嫉妬したし、お前が俺を避けてることが寂しかった」 「そっか……。気づかなくてごめんな」 「謝るなよ。俺だって誠治の気持ちに気づかなかったんだし」 「だって、いっぱい大地を傷つけただろ? 理由も言わずに避けたりして、嫌な思いをさせたんじゃないのか?」 「そりゃあ、辛いと思ったこともあったけど、だからこそ同じ想いだって知ってすごく嬉しい」 その人のそばにいるとドキドキして、一緒にいるとすごく楽しい気持ちになる。他の誰かと楽しそうにしてると嫉妬したり、寂しい気持ちになったりする。その人の行動や言動一つで心が動かされる。人を好きになるっていうのはそういうことだと、誠治が前に言っていた。 あのときはピンと来なかったけど、いまはその気持ちが痛いほどわかってしまう。これが恋をするという気持ちだ。俺が生まれて初めて誰かに抱いた、温かくて特別な感情。 「ずっと恐かったんだ。前みたいに告白して終わりにすることもできたけど、やっぱり辛いから。辛くても、今度はあのときみたいに慰めてくれる人はいない。だからきっと俺は落ちるところまで落ちていくんだろうと思って……。大地と距離を置いて、諦めようと思った」 誠治は一度失恋を経験した。失恋がとてつもなく辛いものなのだと、俺は橋の下で泣いていた誠治の姿を見て初めて知った。あんな思いを二度としたくないという気持ちもいまはわかる気がする。 「なあ、抱きしめてもいい?」 大好きな誠治といますぐ触れ合いたいと思った。訊ねると誠治は嬉しそうに頷いて、俺が抱きしめやすいようにちゃぶ台から少し離れた。俺は迷いなくその身体に腕を伸ばす。変に勢いがついてしまって、そのまま誠治を押し倒すような形になってしまった。咄嗟に誠治が頭を打たないよう後ろ頭に腕を差し入れながら、俺は抱きしめた身体の温もりを存分に味わう。 「恋人ってことでいいんだよな?」 「うん」 「アパート移ったりしない?」 「しないよ。明日キャンセルする」 「俺のこと好きか?」 「さっき好きだって言ったじゃないか」 「うん、そうだった。でも何度でも聞きたくなるよ」 「じゃあ大地も言って」 「誠治が好きだよ。鎌先にも及川にも、誰にも渡したくない」 「大地が俺のこと好きでいてくれるなら、俺は誰のものにもならないよ」 誠治を抱きしめるのは、初めて出会ったあの日以来のことだ。失恋して泣いていた誠治を背中からそっと抱きしめ、頭を撫でた。もしかしたらあのときにはすでに、俺の中には恋心が芽生えていたのかもしれない。だから誠治のことを抱きしめたいと思ったのかもしれない。 誠治が俺の背中を抱きしめ返してくれる。あのときにはなかった感触だ。温かくて、優しくて、強くて……その抱擁の中に、俺は幸せの片鱗を見つけたような気がした。 |