01. 突然生まれた物語


 ジョギングがてら繰り出した街では、何やら祭りが催されていた。そういったものに一切興味がない牛島若利は、祭りの喧騒には目もくれず、大通りを足早に通り過ぎていく。
 家を出るときは、ついでに持ち数の少ない下着を買って帰ろうかと思っていたが、こんなに人が多いのでは道を歩くのさえ嫌になってくる。今日のところはもう帰ろう。買い物はまた今度だ。
 そう思い立って身を翻した瞬間、思いっきり人にぶつかった。牛島のほうはしっかりとした体格のおかげもあってかよろけもしなかったが、相手のほうはバランスを崩してしまったようだ。咄嗟に手を伸ばし、倒れかけた相手の肩を支える。

「大丈夫……っ」

 自分よりも十センチ以上下にあった相手の顔を目で捉えた瞬間、牛島は出かけた言葉を思わず途切れさせた。
 腕の中にいたのは、どこからどう見ても男だった。しかも決して華奢というわけではなく、身長は平均より高いし、掴んだ肩もしっかりしている。
 短く切りそろえられた髪の下の顔は、端正で男らしい。こちらを見上げる瞳は優しそうというよりも、すごく誠実でまっすぐな人柄を連想させる。その瞳と視線が交わった途端、牛島はなぜだか自分の顔が急速に熱くなっていくのを感じた。いや、熱くなったのは顔だけではない。バレーをしているとき以外はいつも静かな心の中が、急にぐつぐつと煮え出して、そこで生まれた熱が全身を駆け巡る。その熱は牛島の中に眠っていた花をパッと咲かせ、甘い香りのようなものを放つ。そんな感覚がした。
 掴んだ肩をこのまま引き寄せたい。牛島は漠然とそう思った。けれどそんなことをしては相手に不審者扱いされてしまうと、ぎりぎりのところで理性が牛島に言い聞かせる。

「ウシワカ!?」

 腕の中の彼が、慣れ親しんだ牛島の愛称を、驚いたような声音に乗せて呼んだ。珍しい生き物でも見つけたかのようにまじまじと見上げられ、牛島のほうが困惑してしまう。

「俺を知っているのか?」
「そりゃ、バレーしてるやつなら誰だって知ってるよ。それに俺は高校のとき対戦したことあるし。まあ、そっちは覚えてないかもしれないけどな」
「すまん……」
「いいって。それに俺は怪我してて試合には出られなかったから」

 バレーをするとき、牛島は極限の集中状態にある。よほど骨のあるやつでなければ顔などいちいち覚えていないし、試合に出ていないのなら尚更だ。

「ぶつかったとき、足捻ったりしなかったか?」
「ああ、大丈夫。ウシワカは……心配するまでもないか。びくともしなかったしな。やっぱり鍛え方が違うんだろうな〜」

 そう言って彼は苦笑する。

「でもまさか、こんなところでウシワカに出会うなんて思ってなかったよ。今日は練習休みなのか?」
「今日は午前中で終わった」
「へえ。実業団のチームって言ったら休みなしで一日中練習してるのかと思ってたよ」

 牛島自身もいまのチームに入るまで、休みを返上してのバレー漬けを想像していたのだが、蓋を開ければ実態は少し違っていた。限られた時間の中で練習を行う高校の部活とは違い、実業団――牛島が所属しているチームに関して――は基本的には平日も一日中練習に打ち込める。だから余裕がある程度生まれて、こうしてぽっとオフになる日が意外と多い。

「祭りに来た……ってわけじゃないよな。明らかに運動する格好だし」
「ジョギングついでに少し用事」
「そっか。俺も祭り目的じゃなくて、ちょっとした買い物。足止めして悪かったな。じゃあ、頑張れよ」

 向けられた笑顔は、とても爽やかで眩しかった。男に対して使う言葉としては間違っているのかもしれないが、可愛い、という言葉がぱっと頭の中に浮かんでくる。
 手を振って立ち去ろうとした彼の腕を、牛島は無意識のうちに掴んでいた。驚いたようにこちらを振り返る彼。どうかしたか、と戸惑うような視線で訊ねてくる。

「いや、その……いまから少し時間あるか?」
「あるけど、どうかした?」
「祭り、一緒に回ってほしい」
「えっ」

 もっと話をしたいと思った。もっと一緒にいて、相手のことを知って……親しくなりたい。今まで他人にあまり感じたことのないそんな情動が、牛島に彼を引き留めさせていた。

「……嫌か?」
「いや、そんなことないって! ウシワカからそういうお誘いがあるとは思わなかったから、びっくりして……」
「そのウシワカって呼ぶの、いまから禁止だ。苗字でも下の名前でもいいから、ちゃんと呼べ」
「あ、ああ。悪い。牛……島?」

 彼は慣れない感じで牛島の苗字を口にした。

「お前の名前は?」
「俺は澤村大地」
「そうか、澤村……付き合わせて悪い」
「いいって。なんか食いもの買いたかったけど、一人であそこに入る勇気なかったし、ちょうどよかった」

 彼――澤村はまた笑う。今度はさっきのような爽やかな笑みではなく、少し子どもっぽい悪戯な笑みだった。笑顔にもいろんな種類があるのだと、澤村を見て気づかされた。



 澤村は烏野高校の出身だった。彼のことはやはり思い出せなかったが、烏野に変なクイック攻撃を使う背の小さなミドルブロッカーがいたのはよく覚えている。
 高校卒業後、澤村は大学に進み、そこでまたバレーをしているそうだ。バレー選手としては小柄なほうだから、てっきりレシーブ専門のリベロを務めているのかと思ったが、意外にも彼はレフトのウイングスパイカーとして起用されているという。
 露店で買った焼きそばやたこ焼きを摘まみながら、澤村は高校時代の部活の話もしてくれた。おもしろい後輩たちの話、合宿でいろんなチームと交流した話、教頭のカツラが澤村の頭に吹っ飛んできた話――どれも聞いていて飽きない。何より澤村の声が耳に心地よくて、この声をずっと聞いていたいと思った。

「なんか俺ばっか話してるな。牛島の話も聞かせてよ」
「俺の話?」
「そう。実業団の練習ってやっぱり大変か?」

 澤村はちゃんと人の目を見て話す。だから視線が交わることも頻繁で、そのたびに牛島は一人ドキリとしていた。

「練習自体は高校のときとそんなに変わらない。だが、ウエイトトレーニングが結構きついな」
「へえ。いま会社の寮とかに住んでんの?」
「いや。ここから一駅離れたところにアパートを借りてる」
「俺もいま大学の近くのアパートで一人暮らししてるんだ。一人って、結構大変だよな。飯作るのも楽しいけど、疲れたときは面倒だし」
「俺はほとんど外食で済ませてる」
「外食ばっかじゃ、身体によくないぞ〜」

 わかっているし、改善しなければとも思っているが、練習のあとはロードワークもしていて夜はあまり時間がない。身体もそれなりに疲れているし、結局自炊は今日みたいにオフの日しかやらなかった。
 ならいっそ会社の寮に入ればいいのに、とよく言われるが、牛島の性格はあまり集団生活には向いていない。新人はこき使われるという話も聞いているし、その選択肢は牛島の中には始めからなかった。
 それにしても澤村はさっきからよく食べる。焼きそばとたこ焼きの容器が空になると、今度はイカ焼き、フライドポテト、からあげ、クレープと、目についたものから順に買っては食べていく。外食が身体に悪いというなら、屋台の食べ物なんてもっと駄目だろうと牛島は思ったが、本人が実に美味しそうな顔をして食べるので、何も言わないでおいた。
 祭りのほうを一通り回ると、今度は買い物をしに店に入る。澤村のほうの用事はすぐに済んだので、牛島の下着選びにも付き合ってもらった。

「牛島って、いつもトランクスなのか?」

 牛島の買い物かごを覗きながら、澤村が訊ねてくる。

「ああ。特にこだわってるわけじゃないが」
「ボクサーパンツもいいぞ。身体にフィットして落ち着くっていうか」
「澤村はボクサーパンツなのか?」
「うん」

 このジーパンの下にボクサーパンツが……無遠慮に澤村の下半身を眺めながら、彼が下着一枚で立つ姿を想像して、牛島は顔がかっと熱くなるのを感じた。慌てて首を横に振り、邪な妄想を振り払う。

「どうした?」
「な、なんでもない。俺も今日からボクサーにする」
「そっか。あ、でもどうせならこっちのほうがいいかもな」

 そう言って澤村が指差したのは、ボクサーパンツよりも腿の丈の短い、ビキニタイプのものだった。あまり人が穿いているのを見たことはないはないし、履き心地もどんなものかわからないが、澤村に勧められると欲しくなる。

「じゃあ、それにする」
「え、マジで? 冗談のつもりだったんだけどな……。でも、牛島が気に入ったんならいっか。実際似合いそうだし」
「そうか?」
「ああ。そういうのってやっぱり筋肉質なやつが似合うもんだからな。牛島って足にも結構筋肉ついてるだろう?」
「まあ、それなりに」
「じゃあやっぱり似合うと思うぞ」

 彼が似合うと言ってくれるなら、やっぱりこれにするべきだろう。というか、もうこれに決めた。牛島は手に取ったそれと、同じ型の色違いのパンツを何枚かかごに入れ、レジに赴く。澤村も澤村で自分のものを何枚か買ったようだ。
 外に出ると、祭りの喧騒はずいぶんと落ち着いていた。店じまいをした露店もいくつかあり、終わりの雰囲気を俄かに漂わせている。

「そろそろ帰るか」

 そして澤村と二人きりの時間も、同じように終わりを迎えてしまうようだ。まだ一緒にいたい。牛島はこの楽しい時間を終わりにしたくなかった。

「澤村、今日夕飯一緒に食いに行かないか?」
「悪い、今日は大学のやつらと食べに行く約束してんだ」

 思い切って誘ってみたが、一瞬にして玉砕してしまう。ちょっと寂しかった。

「だからまた今度、絶対行こうな」
「また会ってくれるのか?」
「当たり前だろ? せっかく親しくなれたわけだし……って思ってるのはひょっとして俺だけだったりして」
「俺も親しくなれたと思ってるし、もっと澤村と親しくなりたい。だからまた会う」
「へへ、なんかそう言われると照れるな。じゃあ連絡先交換しとくか」

 澤村がポケットから携帯を出すのを見て、牛島も慌ててリュックから自分の携帯を取り出した。けれどあまり連絡先を交換し合うような機会がないせいか、どうすればいいのかわからずあたふたしてしまう。結局見兼ねた澤村が全部やってくれて、無事に互いの連絡先を交換することができた。

「俺のアドと番号登録しといたから、暇なときに連絡してくれよな。たぶん俺より牛島のほうが忙しいだろうから、そっちが暇な日を教えてくれたほうがスケジュール合わせやすいと思う」
「わかった。……ありがとう?」
「なんで疑問形なんだよ」

 澤村はおもしろそうに笑う。やっぱり彼の笑顔は可愛い。

「今日牛島と一緒に遊んでみて、俺はすげえ楽しかったよ。だから絶対また遊ぼうな」
「ああ、絶対だ。約束だぞ」
「おう。じゃあ、またな」

 澤村の気配が、牛島のそばからふっと離れる。真夏で暑いはずなのに、その瞬間、なぜだか急に寒くなった気がした。試合が終わった瞬間によく似たような感覚に襲われるが、それよりもずっと空虚な感じで、心がざわざわと落ち着かない。
 遠くなっていく澤村の姿を見つめていると、彼はふいにこちらを振り返り、満面の笑みで手を振ってくれた。だから牛島も大きく手を振り返す。
 彼の姿が完全に見えなくなった途端、今度は急に走りたくなった。大通りから人の少ない道に出ると、全力疾走で夕刻を迎えた街を駆け抜ける。
 いつにないくらい、心がウキウキしていた。嬉しいような、楽しいような――よくわからない感情が混ざり合い、そしてその中心に、今日初めて澤村を見たときに湧き上がった熱い想いが存在している。

 さっき別れたばかりなのに、牛島はもう澤村に会いたくなっていた。




続く





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