02. よくわからないけど、それは“恋”というものらしい


 約三キロの道のりをほぼ全力で駆け抜けるのは、いくら体力のある牛島にもなかなかきつかった。自分のアパートの部屋に入ると、肩で息をしながら、寝室のベッドにどっかと倒れ込む。
 胸のざわざわとした感じはまだ消えていない。心臓を直接掴まれたような感覚がするのは、決して走って疲れたのだけが理由ではないだろう。
 牛島の頭の中に、今日目にした澤村の笑顔が甦る。明るくて、優しくて、そして可愛い。人の笑顔にそんなものを感じたのは初めてだ。
 澤村との時間を思い出しながら、牛島は枕を抱きしめる。この枕が澤村だったら……

(あいつだったら、どうするんだ?)

 澤村を抱きしめて、それからどうするのだろう? そもそもどうしてこんなに澤村のことを抱きしめたいと思うのだろう? この胸のざわつきは、いったいなんなのだろうか?
 牛島は、投げ出されたリュックの中からスマートフォンを取り出し、自分の中に生まれた、このよくわからない感情の正体を調べてみる。文明の利器というのはこういうときに非常に役に立つが、普段あまり携帯を使う機会がないせいか、文字を打つのに少し手間取った。
 牛島の疑問は、驚くほどあっさり解決した。結論として、それは“恋”という、シンプルな漢字一文字で表せるものらしい。恋、恋愛……それがどういうものなのかは、牛島にもなんとなくわかる。人を好きになって、恋人になって、その終着点として結婚がある。ただそれは男女の恋愛の話であって、牛島が恋愛感情を抱いた相手は、どこからどう見ても男だ。
 もちろん、男同士の恋愛があることくらい、そちらの話には疎い牛島だって知っている。ただ、まさか自分がそれに当てはまるなんて思ってもみなくて、少しの間一人困惑していた。
 ネットで男同士の恋愛について調べてみると、理解は広がってきたけれど、それを嫌悪する人間も世の中には多いらしい。もし澤村が後者のほうだったら……考えると、途端に胸が苦しくなる。
 初めての恋で、いきなり大きな壁にぶつかった。その壁はデカくて有能なミドルブロッカーよりも厄介で、牛島は着実に追い込まれてしまうのだろう。
 自分の恋には夢も未来も、何もない。それがわかってしまって、牛島の心は沈んでしまう。――手に持っていた携帯が着信音を鳴り響かせたのは、そのときだった。

「うわっ!?」

 まったく予期していなかっただけに、牛島は飛び上がるような勢いで驚いてしまう。しかも変な声まで出てしまった。隣の部屋まで聞こえてしまったかもしれない。
 思わず落としてしまった携帯を拾い上げ、ディスプレイを確認すると、新着メールが一件届いている。もしや、と胸の中に大きな期待が生まれた。慌てて画面をタップして、届いたメールを開いてみる。――牛島の期待どおり、差出人の欄には“澤村大地”の文字があった。

『今日は祭り誘ってくれてありがとな! マジで楽しかったよ! 
 それと晩飯の件はごめん。暇な日教えてくれたら予定合わせるから、今度絶対行こうな!』

 短いメッセージだった。けれど牛島には、それだけで十分だった。楽しかったと書かれていて、素直に嬉しいと感じる。さっきまで泥沼に沈みかけていた心が、再び明るい陽射しに照らされたような気がした。
 何度もメールの本文を読み返しながら、なんと返信しようか考える。他の人なら無愛想な一言返信で終わらせるか、最悪返事をしないことさえあるというのに、相手が澤村だと返すのはもちろん、文章にこんなにも悩んでしまう。恋というやつは案外厄介なものだ。
 何文字か文字を入力し、それを消してはまた新しい文字を打ちこんでいく。しばらくそれを繰り返しながら、ようやく澤村への返信が完了した。

『俺も楽しかった。晩飯のことは気にするな。俺も急に思いついたから。オフの日のことは確認でき次第、連絡する。また会おう』



 今日という日が楽しみすぎて、昨日は寝つくのにだいぶ時間がかかってしまった。二週間ぶりの澤村との対面。彼に対する恋心を自覚しているだけに、楽しみな半面で牛島は少し緊張している。Vリーグでの初めての試合でさえ、こんなに緊張した覚えはない。
 待ち合わせ場所は、この間祭りが催されていた駅の広場だった。途中で何かあって遅れてはいけないと、用心して早めに家を出た牛島は、約束の時間の一時間前にはそこにたどり着いていた。澤村が改札口から姿を現したのは、それから三十分後のことだった。

「早いな〜、牛島。絶対俺のほうが早く着いたと思ってたのに」

 彼の顔を目にした瞬間に、胸の奥から温かな感情が溢れ出してくる。どう扱っていいかわからない恋心と、想いを寄せる相手に会えたことへの嬉しさだ。

「もしかして、待った?」
「いや、俺もさっき来たところだ」

 話し始めると、さっきまで牛島の身体を取り巻いていた緊張が解れていく。澤村の声は相変わらず耳に心地いい声をしていた。明るいトーンでとても聞き取りやすく、それでいて優しさを感じさせる。彼の人となりのすべてを知っているわけではないが、きっと彼の性格をそのままに表しているのだろう。

「じゃあ、行くか」
「ああ」

 二人並んで歩くなんて、友達同士なら普通のことなのだろう。けれど牛島にとって、澤村の隣に並ぶことは特別だった。そう思っているのが自分だけだというのは少し寂しいが、ただ一緒に並んで歩くというだけのことが、ひどく幸せに感じられる。
 この日、本当は夕食だけを澤村と過ごす予定だったが、牛島が丸一日オフになったと伝えると、彼は牛島を映画に誘ってくれた。映画に対してはいたって興味もなかったが、澤村と一緒にいられるならなんだってよかった。

「にしても、まさか牛島とこんなふうに遊ぶような日が来るなんて思わなかったな〜」

 隣の澤村がそう呟く。

「牛島って雲の上の存在だったからさ。俺みたいなごく普通のバレー馬鹿が気安く話しちゃいけないんだろうなって勝手に思ってた」
「別に、他の人間をそんなふうに思ったことはない。話しかけたければ話しかければいいし、俺だってちゃんと受け答えする」
「そうだよな。でも、やっぱ恐れ多いっていうか、一歩引いちゃうところってみんなあったと思うぞ。実際話してみたら、全然そんなことないけどな」

 確かに、高校時代は牛島に対する態度とそれ以外の先輩に対する態度の違う後輩もいたし、いまのチームにだって少し距離を感じる同期がいる。それで都合の悪いことなど何もなかったので、牛島は特に気にしなかったし、その気持ちもまったく理解できなかった。

「じゃあ、いまは俺のことどう思ってるんだ?」

 雲の上の存在から、少しは近い存在になれたのだろうか? 気になって訊ねてみる。

「いまは普通にいいやつだよ。この間も言ったけど、親しくなれて嬉しい」
「それってどのへんだ? 山の頂上か?」
「山の頂上?」
「雲の上からどのへんまで下りてきた?」
「ああ、そういうことか。いまは同じ地面の上だろ。こんなに近くにいるわけだし」

 思っていたよりも、互いの距離は近づいていたらしい。嬉しくてつい顔がにやけてしまったが、幸いにも澤村には見られなかった。



 映画について興味がなく、ろくに内容も調べずに来た牛島だったが、意外にもスクリーンの中で展開されるストーリーに心を引き込まれた。
 内容は簡単に言うと、オカマのバレーチームが大会で優勝を目指すというもので、迫力こそなかったものの、個々が背負う過去や周りの偏見を乗り越えながら、一致団結して頂点を目指す姿は感動すら覚えた。

(おもしろかった……。DVDが出たら買おう)

 などと心の中で呟いていた牛島に対し、映画館を出たときの澤村はあまり冴えない表情をしていた。どうしたのだろうかとしばらくその精悍な横顔を眺めていると、ふいにこちらを見上げて口を開いた。

「牛島、ひょっとして退屈だった?」

 心配そうな目で訊ねられ、牛島は慌てて首を横に振る。

「そういうふうに見えるか?」
「いや、無表情だから顔からは何もわかんないけどさ。何度か欠伸してただろ?」
「ああ……」

 確かに、思い返せば無遠慮に欠伸をしていた気がする。でもそれは決して退屈だったからじゃない。

「映画は普通におもしろかった。欠伸は、昨日あまり寝られなかったせいだ」
「そうなのか?」
「ああ。今日澤村と会うのが楽しみすぎて、なかなか寝つけなかった」

 事実をありのままに口にすると、澤村は心配そうな顔から一変、面食らったように目をぱちくりとさせたあと、つっかえ棒がはずれたように笑い始めた。

「なんだよ、それっ……くくっ……マジなのかっ?」
「マジだ」
「ふふっ、だ、駄目だっ……牛島面白すぎっ」

 行き交う人がちらりとこちらを見るのも気にせず、澤村は豪快に笑い続ける。しばらくすると落ち着いたが、笑いすぎたのか少し息を切らしていた。

「そんなにおかしいか?」
「いや、ごめん。別に牛島を馬鹿にしたとかじゃないんだ。ただ、あまりにも予想外だったから。でもちょっと安心したよ。牛島が退屈してたらどうしようって思ってたから。こういうのってやっぱ、お互いが楽しくないと駄目だろ?」
「俺は澤村と一緒なら何してたって楽しい」
「はは、そう言ってくれると助かるよ。にしても牛島って、結構可愛いところあるんだな。もっとクールなやつだと思ってたのに」
「俺が可愛い?」
「ああ、男に言われても嬉しくないか。でも本当にさっきの台詞は可愛かった」

 可愛いなんて、小学校中学年以降は言われた記憶がない。いまなんて背も高いし、顔だって男臭いほうだから、そんな自分に可愛いなんて言う澤村はちょっと変わっている。

「……俺なんかより、お前の笑った顔のほうがよっぽど可愛いと思う」
「へっ?」
「俺はお前の笑った顔が好きだ。見ていて和む」

 澤村は迷うように視線を逡巡させたあと、少し俯いた。何か気に障っただろうかと牛島は内心焦りながら、こちらもまたどうしていいかわからず視線を彷徨わせる。

「悪い。変なこと言った」
「いや、別に牛島が謝ることじゃないって! むしろ普通に嬉しかったよ。ただそういうこと言われたことないから、ちょっと照れくさかっただけ」

 そう言いながらはにかんだ顔は、少しだけ赤くなっている。本当に可愛い。さっき和むと言ったのは、牛島の嘘偽りのない本心だ。

「牛島の笑った顔も見てみたいな」
「さっき映画見ながら普通に笑ってたぞ?」
「え、マジで!? 見逃しちゃったな〜」
「また見れる機会はいくらでもある」
「それもそうだな」



 それから少し買い物をして、街を適当にぶらついて、夕方になると混み合う前にレストランに入る。牛島も澤村もまるで競うようにたくさんメニューを注文したが、テーブルに並べられた料理の数々はあっという間に二人の腹の中に消えていき、満足して帰路に就いた。
 今日も楽しかった一日が終わってしまう。この間に感じたのと同じ、一抹の寂しさが牛島の心を覆い始めた。

「今日は映画に付き合ってくれてありがとな」
「礼を言うようなことじゃない。俺も楽しかったから」

 牛島がそう言うと、澤村は突然何かに気づいたように「あっ」という声を上げる。

「どうした?」
「いや、いま牛島が笑ってくれたから」
「笑ってたか?」
「うん。すごく優しそうに笑うんだな」
「自分じゃわからん」
「それもそっか。でも、それが見れてよかったよ。今日牛島が楽しんでくれるか心配だったから、ちょっと安心」
「俺はずっと楽しかったぞ?」
「そう言ってもらえると嬉しいな。俺も楽しかったぞ。これからもまたこうやって時々遊ぼうな」
「ああ」

 また会える。またたくさん話せる。これから先も自分の近くに澤村がいてくれるのなら、この恋が実らなくてもいいのかもしれない。親しい友人のままでいるのも、決して悪くない。

「名残惜しい……」

 けれど別れる瞬間は、やはり寂しさに押しつぶされそうになる。もっと一緒にいたいと、欲張りになってしまう。そんな本音が口から零れ出てしまった。

「澤村と一緒にいるのは俺にとってすごく楽しいことだ。だから別れるとき、名残惜しいと強く感じてしまう」

 澤村は苦笑する。

「牛島って、ホント直球勝負しかしないんだな。思ったこと正直に全部言ってしまうっていうか」
「駄目か?」
「駄目じゃないよ。牛島のそういうところ、俺は結構可愛いと思うぞ」
「可愛い……」
「そう、可愛い。今日の一番の発見」

 今度はにやりと意地悪げに笑って、澤村は牛島の肩を軽く叩いた。

「俺もこのまま別れるの名残惜しいから、いまから牛島のアパートに行ってもいいか?」
「えっ」
「牛島の都合がよければの話だけど。ついでに泊めてくれたりすると嬉しいな」
「俺は全然構わないが、お前は明日大学大丈夫なのか? あっちの駅まで一時間くらいかかるぞ」
「明日は昼前からだから大丈夫。なあ、行ってもいいだろ?」

 断る理由もなく、むしろ澤村に来てほしかったので、牛島はすぐに首肯した。

「そうと決まればとりあえずコンビニ寄って、パンツとか買ってかないとな。さすがに牛島と同じサイズってことはないだろうし……」
「俺んちの近くにあるから、そこで買えばいい」
「そっか。牛島の家、楽しみだな〜」
「別に、普通のアパートだぞ?」
「そうなんだろうけど、どんなところでどういうふうに生活してんのか、ちょっと興味ある」

 そう言いながら澤村は駅に向かって歩き出す。その後ろをついていきながら、牛島は内心かなりワクワクしていた。今日は朝まで澤村と一緒にいられる。しかも澤村のほうから牛島のアパートに来たいと言ってくれた。嬉しくて、嬉しくて、頬が緩んでしまうのを抑えることができなかった。



続く





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