03. 切ないけど、でも幸せな時間


「なんかちょっと洒落たアパートだな」

 牛島が住むアパートを外から眺めながら、澤村がそう言った。

「現代的っていうか、ちょっと北欧っぽい感じだな」
「建って一年も過ぎてないらしい。住み心地はなかなかいいぞ」

 家賃が高くてなかなか満室にはならないアパートだが、牛島は広くてデザインもいいからかなり気に入っている。
 二階の廊下に続く階段を上っていると、上から人が下りてくる足音がした。踊り場に出ると、牛島よりも背の高い影が目の前にぬっと現れる。

「ああ、お帰り若利」

 下りてきたのは、牛島が所属する実業団チームのキャプテン、加持だった。

「加持さん!?」

 そしてその顔を見て驚いたような声を上げたのは、牛島の後ろを歩いていた澤村だ。

「えっと、若利のお友達?」
「あ、はい! 澤村と言います! 加持さんのこと、いつもテレビで見てます!」

 加持は牛島よりも十センチほど身長が高く、チームのキャプテンとしても、そしてミドルブロッカーとしてもかなり優秀な選手だ。日本代表にも選出されており、バレー好きであればその名を知らない者はいないだろう。

「若利のお友達なんて初めて見たな〜。白鳥沢の子?」
「いえ、俺は烏野高校出身です」
「ああ、知ってる、知ってる。昔“小さな巨人”って呼ばれてた子がいたところだよね? へえ、あそこの出身なんだ。じゃあ中学校か小学校が一緒だったの?」
「いえ、牛島とはずっと別々の学校だったし、仲良くなったのもついこの間の話なんで」
「へえ、そうなんだ。あんまり愛想のない子かもしれないけど、これからも仲良くしてあげてね」
「はい」

 じゃあ、と手を振って、加持は階段を下りていった。

「すっかり忘れてたけど、牛島ってあっちの人間なんだよな」
「あっち?」
「うん。バレーのプロってこと。テレビの向こう側でプレイしてて、いつかは代表メンバーとして国際大会に出たりなんかして……住む世界が全然違うんだって、改めて気づかされたよ」
「住む世界は一緒だろ? それにいまはテレビの向こう側じゃなくて、ちゃんと目の前にいる」
「……そうだよな。別に俺が牛島と仲良くしたっていいんだよな?」
「いいに決まってる。何も気にするようなことはない」

 牛島がそう言うと、澤村は嬉しそうに笑い、早く行こうと牛島の腕を引く。
 アパートは2LDKで、十二帖のLDKと六帖の洋室が二つで構成されている。一人で暮らすには十分すぎるほど広いアパートだ。おかげで牛島の思いどおりの家具配置が叶い、特に寝室にダブルベッドを置けたのは一番のポイントだ。シングルだとたまにベッドから落ちることがあるので助かっている。

「広いな〜。俺もリビングはこのくらい広いのがよかったな〜」
「適当に座ってろ。飲み物は……お茶でいいか?」
「おう」

 牛島が茶の準備をしている間、澤村は物珍しそうに室内を見回していた。
 思えばこの部屋に人を入れるのは、家族を除けばまだ二人目だ。一人目は隣に住む加持で、他は高校時代に親しかった友人さえも入れていない。別にわざと入れないわけではないが、わざわざ招こうとも思わなかった。
 けれど澤村には来てほしかった。そして実際に自分の生活空間に彼がいることを、ちょっと――いや、かなり嬉しく感じている。
 そういう点で、やはり彼は牛島にとって、他の誰よりも特別な存在なのだと言える。彼に対して抱いているこの淡い想いが、友人に対して持つようなそれとはまったく違うものだと改めて思い知った。

「ん」
「ありがと」

 しばらく部屋の中を立ち歩いていた澤村だが、結局ソファーに落ち着いたらしい。二人分の茶をテーブルに置くと、牛島もその隣に腰を下ろした。そしてなんとはなしにテレビを点ける。

「そうだ。今日は泊まらせてもらうわけだし、お礼に何かするよ。風呂掃除でもしようか?」
「別に、俺も来てほしかったから気にしなくていい」
「う〜ん……でも何もしないってのもなあ。何かしてほしいことってないのか?」

 何かしてほしいこと……澤村にしてほしいことなんて、たくさんありすぎて迷うくらいだ。しかし、そのどれもお願いすればドン引きされるどころか、彼がすぐに帰ってしまうようなものばかりだ。

(あ、でもあれなら……)

 せっかくのチャンスだからと、自分の欲望の中からハードルの低そうなものを探し出し、澤村に頼んでみることにする。

「膝枕」
「え?」
「膝枕してほしい」

 昨日の夜にたまたま見たテレビの中で、店員が客を膝枕して耳掃除をしてくれるという店の特集をやっていた。別に牛島は行きたいと思わなかったが、膝枕だけでも澤村がしてくれるなら、金をいくら積んでもいいと割と本気で思った。

「マジで?」
「駄目か?」
「いや、俺は別にいいけど……俺の膝枕でいいのか?」
「お前のでいい。どんな感じなのか試してみたい」

 正確には「お前の“が”いい」と言いたかったが、さすがに引かれそうなので適当に誤魔化した。

「じゃあ、どうぞ」

 ポンポンと自分の太ももを叩く澤村。今日は膝より少し短めのチノパンを穿いているせいで、太ももが少し顔を覗かせている。それに少し興奮しながら、牛島はソファーの上に横になると、躊躇いなく澤村のそこに自分の頭を預ける。
 顔が触れた瞬間、澤村の温かな体温がチノパン越しにじんわりと伝わってきた。感触は思っていたよりも柔らかく、このまま普通に眠れそうなほどに心地よい。

「どんな感じ?」
「いい感じ」
「え、いい感じなのか?」
「ああ」

 ついでに耳掃除もしてくれたら幸せだが、それはさすがにわがままが過ぎるだろう。
 バラエティー番組の賑やかな声がテレビから聞こえるが、いまの牛島にはどうでもよかった。頬に触れるこの澤村の温もりを、二度と忘れないようにしっかりと味わっておこう。こんな機会がまた巡ってくるとも限らない。
 そんなことを思っていると、ふいに髪の毛に何かが触れる感覚がした。――澤村に頭を撫でられたのだ。驚いて彼の顔を見上げると、その手はさっと引込められてしまう。

「悪い。柔らかそうな髪だな〜と思って、つい」

 そう言って澤村は苦笑する。

「謝る必要なんてない」

 遠慮もしなくていいのに。牛島は引込められた澤村の手を掴むと、自分の頭に押しつける。

「もっと撫でろ」

 牛島の台詞が予想外だったのか、澤村は一瞬目を丸くしたが、すぐにその精悍な顔立ちに笑みを浮かべる。

「なんか大きな子どもを相手にしてるみたいだ」
「俺のことか?」
「他に誰がいるんだよ。こんなに甘えてくるしさ。本当、いままでの俺の中の牛島のイメージが総崩れだよ。でも可愛いから許す」

 そろそろと、澤村の手が再び牛島の頭を撫で始めた。子どもをあやすというよりは、犬や猫を可愛がるような、わしゃわしゃとマッサージするような撫で方だった。けれどそんな扱いも悪くない、と牛島は思う。何より澤村が自分に触れてくれることが、死ぬほど幸せなことに感じられた。



 あまりの心地よさに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ソファーから落ちた衝撃で目を覚ました牛島は、澤村の姿がないことにすぐに気づいて、眠い目を擦りながら辺りをキョロキョロと見回した。するとすぐに出入り口のドアが開き、澤村が伸びをしながら入ってくる。

「悪い。寝てた」
「うん。すげえ気持ちよさそうだったな。起こすの申し訳なかったから、勝手にシャワー使わせてもらったぞ」
「……一緒に入るんじゃなかったか?」
「そんなこと言ってないけど!? ってかそれは恥ずかしいから嫌だ」

 少し残念な気もするが、逆にそれでよかったのかもしれないとも思う。澤村の裸を見てしまったら、胸の奥に押し込めている欲望を抑えられる自信がないからだ。
 時刻はいつの間にか深夜にさしかかろうとしていた。どうやら思っていたよりも眠ってしまっていたらしい。牛島もさっさとシャワーを浴びると、ベッドを整えていつでも寝られるようにしておく。
 リビングに戻ると、澤村もちょうどウトウトしているようだった。形のいい頭が前後に揺れている様子がちょっと可愛かった。

「澤村、寝るか?」
「ああ、うん。いま軽く寝てたわ。予備の掛布団か何かあれば貸してくれないか? このソファーで寝るから」
「駄目だ。ベッドで寝るぞ。ダブルベッドだから俺たち二人で寝ても問題ない」
「う〜ん……じゃあ、悪いけど一緒に寝させてもらおうかな」

 ダブルベッドにしておいてよかったと、今日ほどその選択に感謝した日はない。
 澤村はベッドに入るなり、ものの数分で穏やかな寝息を立て始めた。牛島はさっき寝ていたせいか、すぐには眠気が舞い降りて来ず、しばらく澤村の寝顔を眺めながら眠くなるのを待つ。
 誰かと同じベッドで寝るなんて、初めてだ。しかもそれが自分の想い人だなんて、本当に今日は最後まで幸せな日だったなと思い返す。
 澤村が眠っているのをいいことに、牛島は彼の短い髪に触れてみた。一本一本が細く、柔らかい。それにシャンプーのいい匂いがする。自分の使っているのと同じもののはずなのに、なぜだか少し興奮した。
 ツルツルの頬、品のいい形をした鼻、そして半開きになった柔らかい唇。どこもかしこも愛おしい。これを自分だけのものにできたなら、どれだけ嬉しいことだろう。
 首から下も触りたかったが、それはなんだか卑怯な気がして手を引っ込める。いつか遠慮なく触れられる日は――想いが通じ合うような日は来るのだろうか? それとも永遠に友人のままなのだろうか?
 どうなるかわからない未来を想像するのはやめだ。いまはただ、この温もりがすぐそばにあることの幸せに浸っていよう。

「おやすみ、大地」



続く





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