04. 片想いと先輩 あれから澤村は、何度も牛島の家に遊びに来てくれたし、逆に牛島が澤村の家に行くこともあった。別に何をするわけでもなく、二人でただだらだらと休日を過ごすことのほうが多かったが、牛島は彼と一緒にいられればなんでもよかった。 だが、何度遊んでも満たされない部分というのはあるもので、牛島は自分の手で自分の欲望を慰める日々を送っている。手に付いた白い液体を拭き取りながら、罪悪感にも似た気持ちが胸を取り巻いた。でもきっと、明日も同じことをするのだろう。――澤村の乱れる姿を想像しながら。 「なあ、若利」 澤村の声が、牛島の名前を呼んだ。下の名前で呼ばれるのも、そして彼を下の名前で呼ぶのもすっかり慣れたもので、最初の頃に感じていた舌と耳に馴染みのない感覚は、いまはもう微塵もなくなっていた。 「何?」 「来週の日曜って確か練習休みだったよな?」 「ああ。どうかしたか?」 「その日俺ら試合があるんだ。サークル同然のチームだし、大会に参加する他のチームもそんなに強いところじゃないから、観ててもつまらないかもしれないけど、もし暇なら観に来ないか?」 「行く」 牛島は即答する。 正直に言えば、その大会自体に興味はない。けれど澤村がどんなバレーをするのかは一度でいいから観てみたいと思っていた。この機会にそれを叶えておこう。 「え、マジで来てくれるのか? 結構ダメ元で言ったんだけど……」 「お前がバレーしてるの、まだ見たことないから」 「別に特別上手くはないぞ?」 「期待はしてない」 「それはそれでなんか寂しいな……」 澤村のことをなんでも知りたいと思うのは、やはり彼を想うゆえの感情なのだろう。誰よりも澤村のことを理解していて、誰よりも澤村のそばにいたい。自分が彼の中で一番の存在になれたなら、どれだけ嬉しいだろうか。 ――インターホンの音がしたのは、そのときだった。 澤村との時間を邪魔するのはいったい誰だろうか? 内心で少し腹を立てながら、けれど出ないわけにもいかないだろうと、牛島は仕方なく玄関へと向かう。 ドアを開け、最初に牛島の目に飛び込んできたのは両手に抱えられた大きな鍋だった。そこから視線を徐々に引き上げていくと、馴染みのある顔が優しげな笑みを浮かべている。 「やあ若利。カレー作ったんだけど、一緒に食べる?」 突然の来訪者は、隣の部屋に住む加持だった。 微かに吹いている風に乗って、カレーのいい匂いが漂ってくる。そういえばそろそろ夕食時だ。今日は澤村と外食しようと思っていたが、その匂いを嗅いで、どうしようもなく加持の鍋の中身を食べたくなる。 「そのカレー、三人分ありますか?」 「さあ、じゃんじゃんお食べ。澤村くんも遠慮しないでね」 「はい! いただきます!」 「いただきます」 加持はいい人だ。こうして時々食べ物を分け与えてくれるし、チームに入団したばかりの頃、なかなかチームメイトと打ち解け合えなかった牛島の手を引いてくれたのも彼だった。 料理の腕はなかなかのもので、いままで食べさせてくれたものの中にはずれはなかった。むしろ当たりしかなかったような気がする。面倒見がいいのも相まって、牛島にとってなんだか父親――というより、母親のような温かい存在になっている。と言っても歳はまだ二十九、牛島と十歳しか変わらないのだから、そう思われているのは加持としては嬉しくないかもしれないが。 (この人になら、大地のことを相談してもいいのかもしれない……) 牛島が澤村のことを好きだと言っても、加持は引かない気がする。それに加持くらいの歳ならそれなりの恋愛経験があるだろうし、ならば牛島がこの恋をどうするべきなのか、道を示してくれるかもしれない。 澤村は明日朝早いらしく、夕食を食べるとそそくさと帰って行った。一方の加持はというと、リビングのソファーにでんと座って、まるで自分の家のようにくつろいでいる。 「澤村くん、優しそうな子だね」 「そうっすね」 隣で相槌を打ちながら、牛島は相談を切り出すタイミングを探していた。こういうのはどう切り出すべきなのか、よくわからない。思えば誰かに相談事を持ちかけたことなど、いままで一度もなかったような気がする。そんな自分が人に頼るということは、思っていた以上に悩んでいたのかもしれない。 「でも意外だな。若利のほうから仲良くなろうとしたなんて」 「まあ、そういうこともあります」 「全然イメージにないんだけど……。一目惚れでもしちゃった?」 「……そんなところです」 素直に認めるのが恥ずかしくてぶっきらぼうに返事をすると、加持は声を上げて笑った。 「ちなみにいまの、冗談じゃないんだよな?」 「……そうっすね」 「あ〜、やっぱり? そうだと思った」 「えっ」 「だって若利、オレが澤村くんと楽しくお喋りしてたら、すっごく恐い顔してたから」 確かに、二人が楽しそうに話しているのを見ながら、ちょっと苛ついたような感覚はあったが、まさかそれが顔に出ているなんて思わなかった。 「やっぱり気持ち悪いですか?」 「いや、全然? 恋愛に性別は関係ないとオレは思うよ。むしろオレにも思い当たる経験が多々あるしね」 「男を好きになったことがあるってことですか?」 「そう。というかオレはそっち専門なのかなー。最近女じゃ勃つ気がしないから」 二十九歳といえば、結婚をしていても不思議ではない年齢だ。チーム内でも加持と同世代以上の人は皆結婚しているし、加持だって顔は男前だから、女が寄ってこないはずがない。よく考えれば、彼が同性愛者だと疑える条件は十分に整っている。 「もしかして、二人は付き合ってたりする?」 「いえ、俺の一方的な片想いです。澤村はたぶん、ノーマルだと思うんで」 「そっか〜。でも若利が絶賛片想い中ってびっくりだな〜。話振っても全然乗ってくれないから、そういうのにはまったく興味がない人種なのかと思ってたよ。まさか初恋だったりしないよな?」 「……そのまさかです」 「うっそ、マジで!?」 「マジです。だから、どうすればいいのかわからなくて……」 自分には恐いものなどないと思っていたのに、澤村とのいまの関係が崩れてしまうことが、牛島はとてつもなく恐かった。澤村は優しいから、牛島に偏見の目を向けてくることはないかもしれないが、きっといままでどおりの友人ではいられないと思う。きっと彼の中に一歩引いた部分ができると思うし、牛島だって彼に自分の気持ちを知られたまま友情を貫くことができるかどうか、自信がない。 「オレも初めて男を好きになったときは死ぬほど悩んだなー」 「それって結局どうなったんですか?」 「残念ながら実りはしなかったけどね。でもフラれるにしてもちゃんと自分の気持ちは伝えとかないと、先に進めないって思ったから告白はした。そいつとはいまでも健全な友達だなー」 「告白した後、二人の関係がギクシャクしたりはしなかったんですか?」 「しなかったなー。俺って本当に告白したんだっけ、って思っちゃうくらいやつはいつもどおりだったよ」 それはある意味、実らない片想いの理想的な終わり方だ。本当にそんなに綺麗な結末が待っているなら、牛島だって告白する勇気が出てくるのに、やはり恋心の周囲に取り巻く不安はなかなか拭えない。 「俺はどうするべきだと思いますか?」 「オレは、ちゃんと澤村くんに想いを伝えるべきだと思うよ。今日話した感じだと、もし若利の気持ちを受け入れられなくても、彼はきっといままでどおりの友達でいてくれるんじゃないかな? それに必ずしも失恋するって決まったわけじゃないだろう?」 もちろん牛島の恋が実る可能性がまったくないわけではないが、限りなくゼロに近いのは間違いないだろう。 「俺は……やっぱり恐いです」 「若利……」 ふいに加持が身を寄せてきたかと思うと、彼の大きな手が牛島の頭に触れてきた。加持は困ったように笑いながら、そのまま優しく撫でてくれる。 「まさか若利の口から“恐い”って単語が出てくるとはね〜。相当本気なんだな」 「はい」 「じゃあ、尚更その気持ちはちゃんと口に出して伝えたほうがいいと思うよ。言わないで終わった恋は、結構引きずるからね。それにさっきも言ったけど、仮に澤村くんが若利の気持ちを受け入れてくれなかったとしても、たぶんいいお友達ではいてくれると思うよ。それとも若利には彼が、ゲイだからって理由で冷たく接してくるように見えるのか?」 「いえ……」 「だろ? だからいっちょ勇気出してみろって。ああ、それとも――」 加持が不自然に言葉を途切れさせたかと思うと、次の瞬間、牛島の身体はソファーに押し倒されていた。いきなりのことに牛島は混乱し、状況の説明を乞おうと加持の顔を見るが、そこにいつもの穏やかな表情はない。男らしく端正な顔立ちには、情欲を露わにした雄のそれが浮かんでおり、まるで別人のような加持の気配に牛島はぞくりと背中を震わせる。 「いっそいまからオレに乗り換えてみる? オレなら若利のこと、いっぱい愛してあげられると思うよ? セックスだってそれなりに上手いから任せなさい」 初めて他人に情欲をぶつけられる。けれど牛島は加持に押し倒されても、何も感じなかった。 加持の顔は、系統でいえば澤村と同じそれに属するだろう。男らしくて、誠実そうで、好青年といった雰囲気だ。でもそれはあくまで雰囲気が似ているだけのことで、いま自分を押し倒しているのは澤村ではない。きっと澤村以外の人間に情欲をぶつけられても、それが誰であれ自分は何も感じないのだろう。 「俺、加持さんじゃ勃ちません」 素直にはっきりとそう告げた瞬間、容赦のない頭突きをくらった。 「痛いです……」 「痛くしたからな。まったく、その正直すぎるところはどうにかしたほうがいいと思うぞ。オレは赦せるけど、中には傷つく人だっているからね。澤村くんだってわかんないよ?」 「……気をつけます」 そっと牛島から離れていった加持は、もういつもの優しい先輩の顔に戻っている。どうやらただの冗談だったようだ。 「まあでも、もし本当にフラれちゃったらオレのところに来いよ。たくさん慰めてあげるから」 「はい」 もう一度だけ頭を撫でられて、その話はそこで終わった。 加持に話したことで、牛島は少しだけすっきりした。胸の中に渦巻いていた不安も少しだけ薄らいだ気がする。告白する勇気はまだ出ないが、でもいつかこの想いを澤村にちゃんと伝えたい。そう思えるようになっていた。 ふと横を見ると、加持はテレビを観ながら笑っていた。もしこの人を好きになっていたら、こんなに思い悩むこともなく、恋を実らせることができたのかもしれない。けれど、自分が好きになったのは澤村大地という男なのだ。どんな結末を迎えることになるのか、想像もできない恋をしてしまった。 でも、好きになったことを後悔したことは一度もない。彼のことを想って切なくなる瞬間も幾度となくあったけれど、彼がいることで、牛島には世界が色鮮やかに映った。 会えても、会えなくても、毎日が楽しい。同じ世界で生きているということが、すごく幸せなことに思えた。 頑張ってみよう。不安は完全には消えないが、それでも前に進みたい。だからもう少しだけ――。 |