05. 嫉妬がすべてを狂わせる


 よく晴れた日曜日だった。
 少し迷いながら辿り着いた試合会場に、人の姿はあまりない。人でごった返すVリーグの試合とは違い、やはり大学のサークルレベルの大会ではそれほど客は集まらないようだ。
 中に入ると観客席も空きが目立ち、一番前の列でさえ座っている人の姿は少ない。しかし、逆に人が少ないほうが落ち着いて試合――と言うよりも、澤村を観られるというものだ。牛島は堂々と最前列に腰を下ろす。
 澤村の指摘で、今日は軽く変装をして来た。と言っても、伊達メガネに帽子を被ってきただけの簡単な顔隠しだが、いまのところすれ違った人に声をかけられたりはしていない。
 澤村曰く、牛島は自分が思っている以上にバレー界では有名人らしい。確かに高校時代は様々なタイトルを獲得してきたし、いまのチームでも、入団一年目ながらレギュラーに定着しつつある。しかし、自分のことに点で興味がない牛島は、そんな自分がバレー界で噂される存在であることに、澤村に言われるまで欠片も気づかなかった。

『若利ってバレたら絶対騒ぎになると思うから、顔わからないようにしろよ。ただでさえデカいから目立つんだし』

 そう言われて、慌てて伊達メガネと普段被ることのない帽子を買ってきたわけである。
 フロアには三面ほどコートが立ち並び、大会に参加するチームがそれぞれ練習をしている。澤村はどこだろうかと隅々まで見渡すが、あの爽やかな男前はなかなか見つからない。

「――大地、組合せどうだった?」

 すっかり舌に馴染んだ名前が聞こえたのは、そのときだった。すぐ下に目を向けると、そこには黒いユニフォームを着た集団がたむろしている。その中に澤村の姿をようやく見つけることができた。
 澤村は手に取った紙を見ながら、試合のスケジュールを説明し始める。そう言えば、前にチームのキャプテンを務めていると聞いた覚えがある。まだ一年生ながらキャプテンを任されるなんて、よほどチームをまとめる才能に秀でているのかと感心したが、単にメンバーが一年生しかいないからと、澤村はバツが悪そうに話していた。

「大地」

 澤村の説明が一通り終わったらしいのを見計らって、牛島は迷わず声をかける。
 澤村はすぐにこちらを振り向いたが、怪訝そうな表情で首を傾げた。変装しているせいか、すぐには誰かわからなかったらしい。けれど数秒見つめ合っているうちに「あっ」という顔をして、笑顔で手を振ってくれる。

「お疲れ。場所すぐにわかった?」
「少し迷った」
「案内できなくて悪かったな」
「いい。試合頑張れ」
「おう!」

 今日も笑顔が可愛い。いますぐここから飛び降りて抱きしめに行きたい衝動を我慢しながら、牛島はじっと澤村を眺めていた。
 ユニフォーム姿を見るのは初めてだ。いや、正確には二度目で、高校時代に見たことがあるはずなのだが、残念ながら牛島はそのときのことを覚えていない。
 膝枕をしてもらうときにいつもたくましいと感じる太ももは、こうして見るとやはりしっかりと筋肉がついている。しかし太すぎず、ジャンプするのに重石にならない程度に収まっている。バレーをする上で理想的な脚のつくりだ。
 澤村はどうやらチームメイトたちにかなり慕われているらしく、みんなそばに寄っては彼に何か話しかけている。楽しそうに談笑する姿を見ながら、牛島は何かもやもやとしたものを感じていた。自分でもよくわからないが、少し息苦しいような、何か苛つくような感覚に捉われてしまう。
 澤村を見たかったはずなのに、それ以上彼が誰かと楽しそうに話す姿を見たくなくて、牛島はどっかと椅子に座った。彼に恋をしたときのように、自分の中に生まれた正体不明の感情に戸惑う。けれどあのときに感じた、温かさのようなものはない。むしろ煮えたぎるほどの熱が湧き上がっていて、それが心をめちゃくちゃに荒らしている。
 しばらくするとそれも落ち着いたが、完全に消えることはなかった。一人でもやもやしているうちに開会式が終わり、そして一回戦が始まる。さっそく澤村たちのチームの登場だ。
 
 澤村はその性格のとおり、堅実なバレーをする選手だった。派手なプレイはまったくないものの、レシーブがまったくと言っていいほど乱れない。攻撃面でも、高さはそれほどないが、それを速さとテクニックで補っている。
 予告されていたとおり、チーム自体のレベルは大したことなかったが、澤村個人のレベルはなかなかのものだ。守備と攻撃の両方を器用にこなせる選手は、昨今の日本のバレー界では重宝される。それこそ牛島のチームにもこういう人間が一人は欲しいくらいだ。

(同じチームでバレーをしてみたかったな……)

 澤村と一緒なら、牛島にとってバレーはいま以上に楽しいものになっていた気がする。残念ながらもう叶わない願いだが、だからこそいま彼と一緒にバレーをしているチームメイトたちが羨ましくて堪らない。
 点を決めた者と、澤村は必ずハイタッチを交わす。別にそれは普通のことのはずなのに、目にした牛島の中にさっきのよくわからない感情が激流のように流れてくる。
 試合は無事に澤村たちのチームが勝った。それをちゃんと見届けてから、牛島はポケットの中から携帯電話を引っ張り出して、インターネットの検索サイトを開いた。そして自分の中に生まれたこの感情の正体を調べてみる。
 自分が感じたこと、思ったことを言葉にするのは難しかったが、それでも文明の利器は牛島の曖昧な言葉をヒントに答えを導き出してくれる。

『嫉妬』

 答えはその短い単語だった。恋愛には付き物であり、それによって壊れてしまう愛もあるらしい。
 もちろん嫉妬がどんなものかは知っているが、自分自身が誰かに嫉妬するのは初めてのことだ。

(こんなに苦しくて、苛々するものなのか……)

 醜い感情だ。けれど澤村を好きでいる以上、きっと切っても切れないものなのだろう。ならばせめて澤村に悟られないように気をつけようと、牛島は触れると火傷しそうな嫉妬心を胸の中に押し込んだ。

「若利」

 聞き慣れた声が牛島を呼んだ。振り向けば、さっき試合を終えた澤村が、通路を下ってきている。

「今日は来てくれてありがとな。レベル低いからつまんないだろう?」
「いや、そんなことはない。一回戦勝ててよかったな」
「途中点差つけられてちょっと焦ったけどな」

 澤村はそのまま牛島の隣に座った。さっきまで試合をしていたせいか、ほんのりと汗の匂いがする。決して不快な匂いではなく、むしろちょっと興奮してしまうのを牛島は抑えられない。

「……お前は上手いな。俺のチームに来るべきだった」

 自分の意識を澤村の匂いから逸らすために、牛島はさっきの試合の話を切り出した。

「いやいや、それはないって。俺なんかがVリーグのチームに入ったって、使いものにならないと思うぞ」
「そんなことはない。大地みたいな攻守のバランスの取れた選手はそう多くないから」

 澤村は自分の頭を掻きながら、照れたようにはにかんだ。

「若利に言われるとなんか嬉しいな。でもまあ、いまのチームで俺は満足だよ。すごく楽しいから」

 彼の笑顔に見惚れたのも一瞬のこと、いまのチームで満足と言われて、押し込んだはずの嫉妬心が蓋をこじ開けて溢れ出す。最初はちょろちょろと、次第にそれは量を増してきて、ついには火山が噴火するかのごとく高く吹き上がる。

「大地は上手い、けど……痩せた土壌じゃ作物は育たない。優秀な苗にはそれに見合った土壌があるべきだ」

 自分でひどいことを言っている自覚はあった。けれど一度溢れ出した真っ黒なそれは、理性や他の感情をすべて飲み込み、冷たい言葉を牛島に吐かせる。

「それは、俺のチームが痩せた土壌だって言いたいのか?」

 問いかけてきた声は硬く、静かな怒りを滲ませていた。しかし、嫉妬心に心のすべてを支配された牛島は、そんなことでは怯まない。

「そうだ。大地は強いが、他は弱い」

 そう言い切った瞬間に、胸倉を掴まれた。刃を思わせる鋭い眼光を向けられ、初めて見る澤村のそれに牛島は一瞬たじろいだ。心を覆っていた嫉妬が一気に引いていき、いつもの冷静さを取り戻す。けれどそのときにはもう、何もかもが遅かった。

「そりゃあ、強いとこでばっかやってきた若利には、うちのチームはさぞ弱く見えるだろうよ。確かに痩せた土壌なのかもしれないな。でも、俺もみんなも頑張ってんだよ! お前の目には滑稽に映るのかもしれないけど、勝ちたいって思いで今日まで練習してきたんだ! その努力が否定されるのがどんな気分か、お前にわかるか!?」
「大地……」
「俺は……お前にだけはそういうこと言われたくなかった。実力や立場は違うけど、同じようにバレーが好きで、上を目指して努力してて、だから同じ土俵に立っているつもりでいたんだ。でもやっぱ、俺らは違うんだな……」

 静かに立ち上がった澤村の顔に、怒りの表情はない。どこか悲しそうに目を伏せると、牛島のそばからゆっくりと離れていく。

「今日はもう帰れよ。どうせ試合観てたってつまんないだろ? それに俺は、お前の顔なんか見たくない」
「大地、俺は……」

 澤村へと伸ばした手は、彼にわずかに届かなかった。澤村はその手に気づかないまま、一度も振り返ることなく通路を駆け上がっていく。
 追いかけて、ちゃんと謝らなければ。そう思うのに、牛島の身体は動かなかった。追いかけて謝ったとして、果たして赦してもらえるかどうか、自信がない。それにもしこれ以上拒絶されたら、自分の心がどうにかなってしまいそうで恐かった。
 ベンチに一人取り残され、牛島は頭を抱えた。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。どうしてもっと、理性的になれなかったのだろう。あんなことを言えば澤村が傷つくと、少し考えればわかることだ。それなのにどうして……。
 空っぽになった心に、今度は後悔ばかりが湧き上がる。けれど起きてしまったことはどうすることもできず、牛島はただただ項垂れた。

 こんなふうに人と衝突するのは、決して初めてではない。むしろ牛島の性格上対立することは多かったし、いまのチームでだって同期とトラブルを起こしたことがある。しかし、結果的に相手を傷つけたのだとあとになってわかっても、牛島の心は何一つ痛まなかった。
 けれど澤村が相手となれば別だ。もしこのまま縁が切れてしまったらどうしようと、牛島は焦りと不安に苛まれていた。このままなんでもない赤の他人になってしまうなんて嫌だ。澤村が近くにいないなんて、それはもう彼が世界に存在しないのと同じだ。彼と出会ってせっかく色鮮やかになった世界は、また元のモノクロへと戻ってしまうのだろう。
 謝らなければ、と改めて思う。切れてしまいそうな細い糸を修復しなければ、きっと自分は一生後悔することになる。けれど、どうすれば赦してもらえるのだろうか? さっきの澤村の怒り具合からして、そう簡単に赦してもらえるとは思えない。
 考えに考えて、そうして牛島は、自分が正直な性格だということを思い出す。その性格のせいで招いた衝突でもあるが、それを解決できるのもその性格だと思い至ったのだ。
 試合を見ながら感じたもの――チームメイトたちにどうしようもなく嫉妬してしまったことを、素直に伝えよう。その上で傷つけてしまったことをちゃんと謝りたい。それで赦されるのかどうかはわからないが、もし赦されなかったとしても、自分に澤村を傷つける意図がなかったことをわかってほしかった。

 ただ、澤村に対する恋心を打ち明ける勇気は、やはり牛島にはまだ湧いてこなかった。



続く





inserted by FC2 system