06. 一歩の距離 二戦目の澤村は、目に見えて調子を崩していた。サーブカットはあらぬ方向に飛んでいくし、スパイクもふかしてコートから大部はずれたところに打ったり、たやすくブロックにかかったりしている。どれもこれも、きっと自分がさっき辛辣な言葉を彼に投げかけてしまったせいだろう。牛島はそれをひどく申し訳なく思いながら、彼らが今日初黒星になるのを見届けるしかなかった。 試合が終わったのを見計らって、牛島は急いで一階に下りる。このまま澤村に嫌な思いをさせたまま試合を続けてほしくない。だから一刻も早く謝らなければと、このタイミングで彼と話をすることに決めていた。 アリーナの出入り口に着くと、ちょうど澤村たちのチームが中から出てきたところだった。最後に出てきた澤村はやはり元気がなく、チームメイトたちがしきりに声をかけているものの、その表情は冴えないままだ。 そうして二人の物理的な距離が近づいたとき、ふと顔を上げた澤村と目が合う。けれどそれはすぐに意図的に逸らされて、まるで牛島には気づかなかったように目の前を通り過ぎようとする。 たぶん牛島に声をかけられても無視をするつもりなのだろう。なんとなくそんな気がしたから、何も言わずに彼の腕を掴んで、自分のほうへ強く引き寄せる。澤村は驚いたような顔でこちらを振り返ったが、そんなものはもう知らない。牛島はそのまま彼の身体をひょいと持ち上げると、人攫いのごとくその場を走り去る。 「だ、大地が誘拐されたぞ!?」 背後から澤村のチームメイトのそんな叫び声が聞こえたが、いまの牛島にはどうでもよかった。 体育館のすぐそばには小さな公園があり、そこの東屋で牛島は澤村を下した。 怒っていると、その表情からはっきりとわかる。いきなりここに連れてきたことももちろんそうだろうが、やはりさっきの牛島の言葉が一番彼を怒らせているのだろう。自分の無神経さを思い出して自分で自分に腹が立った。 「……さっきは悪かった」 牛島の言葉に、澤村は静かに顔を上げた。 「お前を傷つけるようなことを言って悪かった。無神経だったと反省している」 澤村は目を伏せる。覚悟はしていたが、やはり謝れば済むというわけにはいかないらしい。だから牛島は、自分の感じたことのすべてを正直に話そうと、台詞を紡ぐ。 「俺は……嫉妬していたんだ」 「嫉妬? 誰に?」 「お前のチームメイトたちに」 「なんで若利が俺のチームメイトに嫉妬なんかするんだよ?」 「俺はお前と同じチームでバレーをしたかった。それは嘘偽りのない俺の本心だ。でも、もうそれは叶えることができない。けどあいつらはお前と楽しそうにバレーしてて、お前もお前で、俺とバレーしたいって言ってくれないし……だからなんか腹が立ってきて、あんなことを言ってしまった」 あのとき抱いた気持ちを牛島が素直に吐露すれば、澤村は軽く噴き出した。最初は小さく肩を震わせていたのが、何やら我慢できなくなったのか、最後には天真爛漫に大口を開けて笑い出す。 「若利ってホント、直球勝負しかしないのな」 まだ出会ったばかりの頃、澤村に同じことを言われた記憶がある。そしてそれに続く台詞は―― 「若利のそういうところ、やっぱり俺は可愛いと思うぞ」 澤村はことあるごとに牛島のことを“可愛い”と言う。牛島自身にはその感覚はさっぱり理解できなかったが、好きな人にそう言われることは素直に嬉しかった。 「でも、やっぱりお前にはああいうこと、言われたくなかったな。同じ目線で、同じものを見てるって思いたかったから」 「……背が違うから、目線も違うものなんじゃないのか?」 「そうじゃねえよ。まあ、もうなんでもいいや。俺のほうこそ、顔見たくないなんて言って悪かったな」 「いい。あれは言われて当然だった。……赦してくれるか?」 「可愛いから赦す」 そう言いながら、澤村はいつのも笑顔を見せてくれる。凍りかけていた心が、それを見てじんわりと溶け出した。二人を繋いだ細い糸が切れてしまう危機は去ったのだと、牛島は思わず安堵の息を零した。 「ああ、でも赦す代わりに俺の頼みを一つ聞いてくれよ」 「頼み?」 「そのまま立ってるだけでいいから。しばらくじっとしててくれ」 何をするつもりなのかわからず澤村の顔を見返すが、彼は何も言わずに牛島との距離を一歩詰めてきた。元々そんなに離れていたわけではないので、そのたった一歩で互いの顔がかなり近くなる。 大きな黒目が、まるで心の中まで覗き込むように牛島のことをじっと見つめてくる。胸に秘めた想いを悟られてしまうのではないかと、牛島は内心ドキドキしたが、それでも目を逸らすことはしなかった。 しばらく見つめ合ったあと、急に澤村が目を伏せたかと思うと、彼の形のいい頭がぽんと肩に寄りかかってくる。いきなりのことに牛島は驚いたが、飛び上がるのはなんとか堪えた。 「だ、大地……?」 名前を呼ぶと、はあ、と澤村は大きく息を吐いた。 「負けるのって悔しいな。しかも俺が足引っ張っちまった」 「あ……悪い、俺のせいで」 「いや……まあ、お前に言われたことは確かに気にしてたけどさ。そういう精神的なものをプレイに出しちゃ駄目だろ。しかも俺、キャプテンなわけだし」 情けねえな、と澤村は自嘲する。 「あいつらにはこういう自分の弱い部分、見せたくないんだ。伝染して他のやつまで調子狂ったら困るしな。だからちょっとだけ若利に甘えさせてくれ」 「いい。好きなだけ甘えろ。元々は俺のせいだし」 チームをまとめるキャプテンの精神状態は、確かに他の選手たちに影響を与えやすい。だから誰もが弱い部分を押し殺し、強くあろうとする。その気持ちはキャプテン経験のある牛島もよくわかっていた。わかっていたからこそ、自分の言葉で澤村の調子が崩れることになってしまったのが、改めて申し訳ないと思った。 謝る代わりに、項垂れる澤村を優しく抱きしめる。一瞬だけ肩がびくりと震えたが、抵抗は一切なかった。むしろ彼の手がそろそろと牛島の背中に伸びてきて、互いに抱き合う形となる。 「今日、お前の部屋に泊まっていいか?」 「俺はいいけど、若利はいいのか? 明日朝から練習だろ? それに俺はまだ試合があるし、終わってから打ち上げもあるんだけど」 「俺のことは心配するな。試合はちゃんと最後まで観る。打ち上げは……大地の部屋で待ってる。今日はそばにいさせてくれ」 「そこまで言うならいいけど……。まあ、俺も今日はお前と一緒にいたい気分だしな」 上目づかいに笑った顔は、少しだけ赤くなっていた。それが可愛くて思わず抱きしめる腕の力を強くすれば、澤村は「苦しい」ともがいた。 「そろそろ戻らないと……。何も言わずに出てきちゃったからな。いや、出てきたっていうか、攫われた?」 「すまん……」 「いいよ。ちゃんとお前と和解できたわけだし、なんかすっきりした。これで心置きなく試合に臨める。あと、胸貸してくれてありがとな」 「いい。俺の胸でよければいつでも貸す。だからまた甘えたくなったら、俺のところに来い」 「そうする。逆に若利が甘えたくなったら、俺のところに来るんだぞ?」 「わかった」 牛島はいつだって澤村に甘えたいし、甘えてほしい。言葉にはせず目でそう訴えてみるけれど、やはり澤村には通じていないようだった。 「そういえばその眼鏡、似合ってるな」 「そうか? 俺は邪魔で仕方ないんだが」 「ちゃんと最後まで着けてろよ。はずして騒ぎ起こしたりしたら、今度こそ赦さないからな」 「……大地がそう言うなら、我慢する」 予選リーグと順位決定戦のニパートに分けて行われた試合は、夕方に全行程を終えて幕を閉じた。 あの後の澤村は、二試合目の不調が嘘のような大活躍を見せ、結果としてチームは三位という好成績を収めることができた。チームメイトたちと嬉しそうに話している澤村の姿を見ながら、やはり同じチームでバレーをしたかったという思いが込み上げてくる。けれど、浅ましい嫉妬心はもう顔を出してはこなかった。澤村は牛島にしか弱い部分を見せない。自分だけが特別なんだと、優越感にも似たものが牛島の中に生まれたからだ。 閉会式が終わってからはすぐに打ち上げだった。牛島はその間澤村のアパートで待っているつもりだったが、それはやっぱり申し訳ないという澤村に連れられ、部外者ながら宴の席に参加させてもらった。 正体はさすがに隠し切れないだろうと、早々に顔と名前を晒した。途端にその場は大騒ぎとなり、試合の反省会のはずが牛島の歓迎会のようなムードになってしまっていた。 握手を求められるのは慣れっこだったが、Tシャツにサインを書いてくれと懇願されたときは少し戸惑った。何せ、牛島はいままでサインを書いたことがない。ただ名前を書くだけでは芸がないし、どうしたものかと大地に相談すると、全員で牛島のサインを考えることになった。 結局、それっぽい文字体の「牛若」の隣に牛の頭っぽい簡単な絵を添えた、シンプルな形のサインに決まった。それを全員分のTシャツに書き入れるのはなかなか骨の折れる作業だった。 「打ち上げ、付き合わせて悪かったな」 部屋に上がると、澤村は冷たい茶を出してくれる。 「別にいい。疲れたけど……少し楽しかった」 「そっか。ならよかった」 ソファーに二人並んで座り、テレビを観ながら今日の試合について話した。そうしているうちに隣の澤村が船を漕ぎ出して、牛島も釣られるように微睡んでくる。 「ベッドに行くか?」 「まだいい。それよりさ、今日は若利が膝枕してくれよ」 牛島が返事をするより先に、澤村はその頭を牛島の太腿に乗せてきた。ジーンズ越しに彼の短い髪の毛の感触がする。後頭部は触るとジョリジョリしていて気持ちいい。 いつもは牛島が膝枕してもらう側だが、してあげる側も悪くないと思った。甘えてくる澤村は可愛かったし、自分ばかりがしてほしいものだと思っていたので、彼に同じ意思があったことが素直に嬉しい。 澤村は何も喋らなくなった。てっきり眠ったのかと思ったが、片方の手がそっと牛島の膝頭を撫でている。少しだけくすぐったかったが、触っていてほしかったので我慢した。 牛島にとっての、平和で幸せな時間。こんなにも心満たされる時間は、人生においてそう多くない。貴重だから、というわけではないが、牛島は心の底からこの二人の時間を大事にしたいと思った。 だが―― 次の澤村の言葉が、そんな幸せな時間に大きな亀裂を走らせる。 「あのさ、もしかしたらこれって、俺がただ自意識過剰なだけなのかもしんないけどさ。若利って、そのさ……俺のこと好きだよな?」 |