終. 大地と変態


 仕事が終わると自転車に乗って帰る。このスタイルにももうすっかり慣れたけど、歩いて十五分しかかからなかった前のアパートがたまに恋しくなることもあった。まあ、自分で引っ越すって決めたから仕方ないけどな。
 俺はささやんのことを諦めるために、彼には何も言わず隣町のアパートに引っ越した。LINEもブロックして完全に連絡が取れない状態だ。幸いにも職場のことをささやんに話したことはなかったから、押しかけられるなんてことはなかったし、街中でばったり出会うなんてことも今のところない。本当に、完全に縁が切れていた。
 ささやんに逢えないのは寂しいけど、こうでもしないと俺の片想いは燻り続けたままどうにもならなかっただろう。それにやっぱり、いつかささやんに彼女ができてしまう日が来ることを考えると、いつだって胸が張り裂けそうだった。
 アパートに着き、とりあえず風呂に入ってから晩飯を作る。一人で食べる飯はどこか味気ないけど、まあ今はまだ恋人をつくる気にもなれないし仕方ない。むしろささやんがいてくれれば……いけない、またささやんのこと考えてるよ。
 ここに引っ越してもうすぐ一カ月だ。その間にアプリや掲示板でお仲間と会ってみたりしたけど、この人だという相手には出逢えていない。いっそ飲み屋にでも行ったら案外見つけられるような気がしないでもないが、どうにも気が乗らなかった。
 これで本当に、ささやんのことを忘れられる日なんて来るんだろうか? もちろんあのまま友達でいるよりはずっと忘れられる可能性が高いだろうけど……というかそうでないと困る。せっかく決意して引っ越したんだからな。
 晩飯を食い終わり、歯磨きを済ませたタイミングでインターホンが鳴った。そういえばネットで頼んだ本がそろそろ届く頃だっけ? これくらいの時間を指定していたはずだし、たぶんそれに違いない。
 急ぎ足に玄関に向かい、鍵を開ける。ドアを開けた先に待ち構えていたのは、ずいぶんな男前だった。けれど妙に色っぽい垂れ目は見覚えのあるそれだ。それに気づいて俺は心臓の委縮する音が聞こえるんじゃないかってくらい驚いた。

「さ、ささやん……」

 なんでささやんがここにいるんだ!? 親以外には誰にも引っ越し先を言わなかったのに、どうしてささやんがこの場所を知り得たんだろう? 驚きと疑問で頭がグルグルになっていると、ささやんが口を開いた。

「よう。やっと見つけたぜ」

 とても機嫌がいいようには思えない顔と声だ。こんなささやん初めて見る。

「こんなところにいやがったとはな。まったく心配させやがって」
「だ、誰にこの場所聞いたんだよ?」
「興信所に依頼した。そしたらすぐだったよ」

 ささやんは無遠慮に玄関に入ってくる。

「上がらせてもらっていいよな? 嫌は聞かねえけど」
「け、けど……」
「お前に拒否権があるとでも思ってんの? ちゃんと訳を聞かせろよ」

 止める間もなくささやんは靴を脱いで部屋に上がった。その踏み鳴らすような足音からして、結構怒ってるんだろう。まあ当然と言えば当然の態度なんだけど……。
 リビングに入るとささやんはソファーにどっかと腰を下ろし、まるで自分の家みたいに偉そうにふんぞり返った。俺はそのささやんの正面に遠慮がちに座る。まったくどっちが家主だよ……。

「さあ、キリキリ吐いてもらおうか。俺に黙って引っ越した上、LINEや電話をブロックした訳を」

 逃げることは許さない、とでも言いたげなきつい視線に俺は思わず息を飲んだ。さて、どうしたものか。本当の訳を話す……のはちょっと勇気がない。

「じ、実はあの部屋事故物件だったらしくて、怪奇現象に悩まされてたんだよ。ストレスで禿げそうだったから引っ越した」
「嘘つけ。四年住んでたくせに今更怪奇現象に気づくとかあり得ねえだろ。それにそれが本当だとしても俺に連絡しない理由にはならねえだろ?」

 やっぱりその場しのぎの嘘なんか通用しないよな……。

「俺、お前に嫌われるようなことなんかしたか?」
「いや、そういうんじゃないけど……」
「あ、もしかして彼氏ができたとか?」
「それも違う」
「じゃあなんだよ? 考えても考えても、全然理由が思い当たらねえんだけど」

 もう言うしかない。それ以外に俺に選択肢は残されていなかった。だけど胸の中に秘めたその言葉を、声に出して伝えることがとても恐い。一度はちゃんとささやんから離れられたのに、こうして再会した途端にまたそばにいたいと強く願う自分がいる。
 グルグル悩んでいる間も、ささやんの目はずっと俺を見ていた。そしてハの字に引き結ばれていた薄い唇が、堪えかねたようにそっと開かれる。

「お前が言わねえってなら、俺から先に言いたいこと言わせてもらう」

 罵倒されるんだろうか? それとも何か別のことだろうか? ささやんが何を言おうとしているのかまったく読めなくて、俺はにわかに緊張する。
 ささやんは視線を一瞬だけ明後日のほうに向けた。けれどすぐにまた俺のほうに戻ってきて、新しい言葉を紡ぎ始める。

「俺さ、どうも大地のこと好きみたいなんだよ。ライクじゃなくてラブな意味で」
「えっ……」

 まるで明日の天気の話でもするかのような軽い口調で放たれた言葉に、俺は自分の耳を疑った。ラブな意味で俺を好き? 聞き間違い……じゃないよな?

「つーか、そうじゃなきゃ興信所に頼ってまでお前のこと捜したりしねえし。お前がいなくなってから、毎日ずっとお前のことばっか考えてた。それこそ飯も喉を通らねえくらいにな」
「そんなの嘘だっ……」
「嘘じゃねえ。そりゃ、俺が言ったら冗談っぽく聞こえるのかもしんねえけど、マジだよ。大マジだ」

 そんなふうに言われたって、すぐに信じることなんかできるわけがない。だってささやんはノンケだ。女にしか興味ないはずだし、性的な意味で接触したときも、いつだって俺が一方的にしゃぶったり手でしごいたりしてあげるだけだった。たった一回のセックスのときも、キスの一つもしてくれなかったし、俺の体にはほとんど触ってくれなかった。それはやっぱりささやんが男に性的な興味がないからに他ならない。

「それにお前だって俺のこと好きだろ?」
「な、何言って……」
「お前さ、結構わかりやすいよ。態度とか表情とか言葉で全部わかった。それに一緒に寝てるとき、お前よく寝言で俺のこと呼んでたよ。甘えきった声でいつも呼んでた」

 確かに一緒に寝てるとき、ささやんの夢をよく見ていた気がする。それが全部声になって出てたとは思わなかったけど……。
 言わなくても全部ばれてたんだ。だけどささやんは俺を避けたりはしなかった。いつだって隣で笑っていてくれたし、俺を笑わせてもくれた。やっぱりすげえいいやつだ。

「この一カ月、お前に逢えなくて寂しかった。このままずっと逢えなかったらどうしようって不安だった。何も言わずに俺の前からいなくなったことにはすげえムカついてるけど、こうして逢えてやっぱすげえ嬉しい。お前のことマジで好きなんだってすげえ実感してる」

 何も嘘偽りはない。そう主張するかのように、ささやんの声は至極真剣だった。

「ずっと決心がつかなかったけど、こういうことになって自分の気持ちがはっきりわかった。俺はお前と付き合いたい。ちゃんと真剣に考えたことだ」

 ささやんが俺のことを好きだなんて考えもしなかった。だけどもちろんその言葉と気持ちは嬉しかったし、恋人同士になりたいとも思う。それは俺がずっと願っていたことだ。だけどすべてを受け入れるのには、またさっきまで感じていたものとは別の恐怖が付きまとう。

「……確かに俺はささやんのこと好きだよ。けど付き合うことはできない」
「なんで?」
「だってささやんはノンケじゃないか。今は本当に俺のこと好きなのかもしれないけど、そのうち女のほうがやっぱりいいって思うときが絶対来る」

 それはたぶん、告白して振られるよりもずっと辛いことに違いない。一度幸せを知ってしまったら、どん底に突き落とされたときの絶望感は半端なく大きくなるもんだ。

「そりゃ確かに、絶対にそういうことにならねえとは俺も言い切れねえよ。人の気持ちなんてどう変わるかわかんねえからな。だけどそんなもん恐がって、お互い好き合ってるのにそれをスルーしちまうなんておかしいだろ。駄目になったときは辛いかもしんねえ。それでも好き合ってるなら恋人になって、幸せになるべきだ」
「振られるのはどうせ俺じゃないかっ。ここが駄目になって辛いのは俺だけだ。そんな惨めな未来が見えてるのに、付き合おうなんて思えるわけないだろ」
「そんなのわかんねえだろ! 俺の気持ちはずっと変わんねえかもしんねえ。逆にお前が別の誰かを好きになって、駄目になる可能性だってあるだろうが! そんなのは男女のカップルでも同じだし、ゲイ同士だって変わんねえはずだ。なのになんで最初から全部諦めて、俺を否定するんだよっ」
「だってささやん、言ってたじゃないか。いつかは結婚したいって。俺にはそれ、叶えてやれないんだよ。子どもも生めないし、おいそれと人にも言えない。普通の男の幸せってやつを何一つささやんにあげられないんだ」

 あのときの言葉はずっと俺の胸に突き刺さったままだった。聞いた瞬間もショックだったけど、今思い返してみてもやっぱり胸がじくじくと痛む。ノンケを好きになるっていうのはこういうことだ。お互いが感じる幸せや思い描く未来、そういったものがまるで違うんだ。それは決して重なることはないし、俺はよくてもささやん側に無理や我慢をさせることが多くなるのは目に見えている。

「そんなもんは別になくても困らない程度の憧れだ」

 けれどささやんはそれをきっぱりと否定した。

「家に帰ったら迎えてくれる女房がいて、可愛い子どもがいて……そういうごく普通の家庭に憧れがねえわけじゃねえよ。けど俺はそんなもんよりお前が欲しい。子どもなんていらねえから、家に帰ったらお前に迎えてもらいてえんだよっ」
「今はそうでも、もう少し歳をとったら変わるかもしれない。周りが結婚して家庭を持ち始めたら、きっと考え方もまた変わるよ」
「そんなのお前が勝手に決めんな! じゃあ今この場で誓ってやるよ。俺の気持ちは永遠に変わらない。何があってもお前だけだって」
「言葉ではなんとでも言えるよ。けど結婚式でそう誓っても、離婚する夫婦はいくらでもいる」
「さっきも言ったけど、そんなのゲイ同士のカップルだって同じだろうが! 別れるときはどんなカップルも別れる」
「けど少なくともゲイ同士なら、いつか一方的に捨てられるかもしれないって恐がることはない。相手に何もあげられないって卑屈になることもない」
「じゃあ、俺の気持ちはどうなるんだよっ。このお前を好きで堪んねえって気持ちはどうすりゃいいんだよっ……」

 俺だってささやんが好きだよ。どうしようもないくらい好きだ。だけど俺はゲイでささやんはノンケ。俺たちの人生の間には高い壁があって、それはきっと壊すことも乗り越えることもできない。だからここで終わりにして、それぞれの人生を生きていくべきなんだ。

「ごめん、ささやん。俺にはやっぱり無理だ……」
「本当に駄目なのか? 俺ら、ここで終わっちまうのかよ……?」

 頷きたくなかったけれど、俺はこの恋に終止符を打つために無理矢理頷いた。

「……わかった。じゃあもうこれで本当に最後だ。二度とお前とは会わない」

 怒ったような、それでいてどこか寂しそうな声でささやんはそう言ってから、静かに立ち上がる。そのまま身を翻してリビングを出て行こうとしたのだが、ドアの前まで行くとまた踵を返し、こっちに早足に歩いてきた。そして座ったままぼうっとささやんを眺めていた俺を、いきなり強く抱きしめた。

「マジで好きだった。じゃあな」

 十秒にも満たない短い抱擁だった。だけどその短い間に、ささやんの俺を想う気持ちや優しさが、彼の体温と一緒に俺の中に流れ込んでくるみたいだった。そっと体が離れると同時に、それも途切れて急に寒くなったような気がした。
 ささやんは今度こそ俺を振り返らずにリビングから出て行く。そして玄関のドアが閉まる音が、寂しげに部屋の中に響き渡った。途端に俺の中にあった、膨らみすぎて弾けそうになっていたささやんへの気持ちが、涙になってドバドバと溢れ出した。今ちゃんと諦めたはずなのに、どうしようもないくらいにささやんが欲しくなる。最後にくれた温もりや優しさが、どうしようもなく欲しくて心が震えた。
 ささやんが好きだ。露出趣味の変態だけど、カッコよくて優しくて、おもしろくてエロいささやんが大好きだ。その独特の声も逆立てた髪も逞しい背中も全部好きだ。そんなささやんの恋人になりたかった。恋人になって、同じものを見ながら歩き出したかった。辛いときは励まし合って、楽しいことは分かち合って、そうやってささやかだけど確かな幸せを感じながら、二人で生きていきたかった。
 気づけば俺は走り出していた。リビングを出ると裸足のまま土間に降り、勢いよくドアを開ける。外に出ると、今にも階段を下りようとしていたささやんが見えた。俺が出てきたことに気がついてこっちを振り返る。
 迷いも不安も、俺はその場に投げ捨てて走った。ただささやんが欲しい。ただささやんが好きなんだ。その好きな人を手に入れるために、冷たいコンクリートの廊下を全力で走る。
 もう少しでささやんに手が届きそうだ。俺がこの世界で一番好きな人に、もうすぐ触れられる。そして俺は人目も何も気にせず、自分の気持ちに素直に従って、ささやんの胸に飛び込んだ。

「ささやんっ」

 ささやんはそんな俺をしっかりと受け止めてくれた。さっきくれた温かくて優しい抱擁がもう一度俺を包んで、泣きたくなるくらいの安らぎを与えてくれる。

「好きだから、どこにも行かないでくれ。ずっと俺のそばにいて」

 さっきは言えなかったその言葉を、今度は何も偽らずに声に出して伝えた。

「……最初からそう言えよ、バーカ」

 そう言ったささやんの声は、今にも泣き出しそうに震えていた。



おしまい




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