T. 俺はあなたを守れましたか?


 部活が終わっても、朝から降り出した雨はまだ止んでいなかった。天気予報は当たるもんだなと、金田一勇太郎はうんざりとした気持ちで暗い空を見上げながら傘を差す。
 帰りはいつも同級生の国見と一緒だが、用事があるからと彼は親の車に乗って帰って行った。他に仲のいい友人も部内にいるけれど、皆金田一とは帰る方向が違うから今日は一人だ。
 まあ、たまには一人もいいか。そう心の中で呟きながら、金田一は雨の帰路を歩き始める。小腹が空いていたから途中のコンビニで買い食いをした。再び帰路に着く頃には、雨は傘の要らない程度の弱いものになっていた。金田一は傘に付いた雨粒を振るい落とし、歩きながら綺麗に畳む。
 住宅街を抜けると河川敷に出る。川は増水して茶色く濁り、飛び込めばあっという間に流されてしまいそうだった。それを横目に見ながら歩いていると、橋の下に何やら人だかりができているのを見つけた。五、六人はいるだろうか、男ばかりが何かを取り囲むようにして輪になっている。
 するとその輪の中から何かが飛び出した。いや、飛び出したと言うより飛ばされたように見えた。地面に転がったのはどうやら人のようで、それを追いかけるようにまた輪が移動する。

(げっ、リンチされてるっぽいな……)

 夕方とはいえまだ十分に明るい中、よくも堂々とあんなことができるものだ。とりあえず巻き込まれないように気を付けようと、歩くスピードを速める。喧嘩のスキルがあればカッコよく助けてあげたいところだが、残念ながら金田一には素手戦の心得などない。リンチされている可哀想な被害者には申し訳ないが、どうせ助けられないのなら関わらないのが一番だと、金田一は見て見ぬふりを決め込んだ。

 だが――

 リンチの現場から目を逸らす直前に金田一は気づいてしまった。そこで暴行を受けているのが、自分の知っている人間だということに。

(あれって……京谷さん!?)

 坊主に近い短い金髪に、鋭い目つきが印象的な男らしい顔立ち。ついさっきまでともに部活をしていた一つ上の先輩だと気づいて、金田一は思わず足を止めていた。
 これが知らない人間なら、多少良心は痛んでも素通りできただろう。けれど知っている顔で、しかも同じ部活の先輩ともなると話は別である。

(けど俺に何ができるんだ……)

 相手は五人。弱い自分があの場に飛び込んだところで、袋叩きに遭うのが落ちだろう。でもだからって放っておいていいわけがない。京谷とは仲がいいわけじゃない――むしろちょっと苦手意識を持っているくらいだけど、そんなのリンチを見逃す理由にならない。それにうちの大事なエースでもある。彼がバレーをできないなんてことになったら……。

(と、とりあえず警察っ)

 金田一は鞄からスマートフォンを取り出すと、110番をプッシュする。警察に電話するのなんて生まれて初めてだから緊張したけど、目の前で起きてることもその場所もちゃんと伝えられた。だが、これで一安心というわけにはいかない。警察がここに来るのには少し時間がかかる。それまで京谷はリンチされっ放しだ。
 どうすればいい? 自分に何ができる? 考えても、考えても、良案は浮かんで来なかった。こうなったら覚悟を決めるしかない。これもエースを守るためだ。金田一は震える足を叱咤して、リンチの現場に小走りで向かう。

「あ、あの!」

 声をかけると、その場にいた全員が金田一のほうを振り向いた。

「なんだてめえ!」

 ドスの効いた声に思わず身体が震え上がる。全員そろいもそろって柄の悪そうな風貌だ。同じ高校生には見えないが、それほど歳が上というわけでもないようだった。
 全員の鋭い目つきに晒されて金田一は失神してしまいそうなほど恐かった。だけど怯むことなんてない。警察はもう呼んである。それまでの時間稼ぎをすればいいだけだ。こいつらを追い払えたなら上出来だが、そこまで上手くいくかはあまり自信がない。

「そ、その人から離れてください! 警察呼びましたから! すぐに来るそうです!」

 声が裏返りそうだったが、大事な部分ははっきりと言えた。警察が来るなら彼らもここに留まったりはしないはずだ。さっさと退散して問題解決……

(ってわけにはいかないみたいだなぁ……)

 男たちは地面に転がった京谷から離れ、金田一のほうに近づいてくる。どうやら標的はこちらに移ったようだ。そうなってしまうことも一応考えてはいた。応戦するのは無理だから、ここからは全力で逃げる。ただしこの場から離れすぎると駆けつけてくれた警察の目が届かなくなるから、逃げ方も考えなければならない。
 とりあえず奴らとは三十メートルくらい離れている。短距離走は決して遅いほうではないし、このくらいの距離なら追いかけられても追いつかれることはないだろう。こちらが先に走り出せば尚更だ。
 よし逃げよう。そう思って身を翻した瞬間――金田一は小石か何かに躓いた。態勢を立て直すことができないまま勢いよく転ぶ。まるで漫画みたいだ。心の中でそんな自虐を呟いた。
 咄嗟に突き出した腕が痛かったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。すぐに逃げなければと急いで起き上がる。その瞬間に、尻に重い衝撃と痛みが走った。蹴られたんだと自覚するより先に再び地面に転がり、そして何か考えるより先に次の一撃が金田一の脇腹を襲った。

「がっ……」

 息とともに呻きが喉の奥から零れる。痛い。人に蹴られるのってこんなに痛かったのか。人生で初めて感じるタイプの痛みに悶えている金田一に、無慈悲な暴力は容赦なく襲いかかる。

 だが――

 リズミカルに繰り出されていた強力な蹴りが、何かがぶつかり合うような音がするとともに突然止まった。視線の端で柄の悪い男の一人が地面に転がるのが見える。何が起きたんだろう。現状を確認しようと顔を横に向けたところで、丸くなった金田一の身体に何かが――いや、誰かが守るような形で覆い被さってくる。

「馬鹿かお前は! 弱いくせにしゃしゃり出てきてんじゃねえよ!」

 背中から聞こえたのは京谷の声だった。その声に安堵を覚えたのも一瞬のこと、それは呻きに変わって金田一の鼓膜を震わせる。自分の代わりに彼が蹴られる音もした。これじゃ助けに入った意味がない。早く彼を押しのけて、彼一人が暴力の前に曝け出されるのを阻止しなければならない。そう思うのに、さっき蹴られたところが痛くてなかなか身体を動かせなかった。

「京谷さんっ……」

 名前を呼んでも返事はない。金田一に聞こえたのは、耳を塞ぎたくなるような鈍い音と京谷のくぐもった声だけだ。
 このまま暴力が続けばひどい怪我をするどころか、京谷が死んでしまうかもしれない。最悪の事態を想像して金田一はぞっとした。そんなのは絶対駄目だ。この人を守らないと……だから、頼むから動いてくれ。自分の身体に必死に懇願しながら、金田一は全身に力を入れる。
 脇腹と尻が叫びたくなるほどに痛い。けれど歯を食いしばってその痛みに耐え、腕を立てて身体を起き上がらせる。そしてようやく、自分の背中から京谷の身体が滑り落ちた。仰向けに転がった彼の上に咄嗟に覆い被さり、自分よりも少し小柄なその身体を強く抱きしめる。
 新たな痛みは同時に、あるいはバラバラに金田一の身体に襲いかかった。こんなのから身を挺して守ってくれていたのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。今度は俺が守ります。声にならない言葉を自分の胸に刻みつけ、金田一はただただ京谷の身体を抱きしめ続けた。
 けたたましいサイレンの音がしたのはそれからしばらくしてからのことだった。周囲にその音が鳴り響くと同時に、与えられ続けていた暴力が一瞬にしてピタリと止んだ。ついで聞こえたのは自分たちから離れていく足音。嫌と言うほど自己主張していた人の気配がさっと消え、あとには腕に抱きしめた京谷の体温だけが、確かなものとして金田一に伝わってくる。

「金田一……」

 京谷の声が自分を呼ぶ。けれど返事をしようとしても声が出なくて、身体のあちらこちらに点在する痛みが金田一の意識までも蝕み始めていた。
 俺はあなたを守れましたか? 心の声でそう訊ねながら、金田一は京谷を抱きしめたまま眠りの世界に落ちていった。







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