U. 守られてばっかじゃ嫌っすよ


 金田一は走っていた。迷路のような路地を迷いながら突き進み、迫り来る気配から必死に逃げている。
 少しは距離を稼げただろうか? 自分を追う足音が少し遠くなったのを感じ、内心でホッと息をつく。だが安心したのも束の間のことだった。油断をしている間に行き止まりに出くわしてしまい、来た道を戻ろうとしたところであの足音がすぐそこから聞こえた。そしてそれが曲がり角からぬっと姿を現す。
 それは人間の男の身体をしていた。しかしその顔には目や鼻といったパーツがなく、のっぺらぼうのように丸みを帯びた面がこちらに向けられている。しかも足音は一つしか聞こえなかったはずなのに、曲がり角から出てきたのは全部で五体。不気味さに拍車がかかっていて金田一は思わず身体を震わせる。
 足に力が入らなくなってその場にへたり込んだ金田一を、五体ののっぺらぼうが取り囲んだ。そしてそのうちの正面にいた一体が、拳を振りかぶって金田一に迫ってくる。
 殴られる! 予想される痛みに歯を食いしばった。顔を守るように両腕でガードしたけれど、しかし当に振り下ろされたはずの拳の感触は、どれだけ待っても金田一に襲いかかってこない。
 どうしたのだろうかと両腕を下ろそうとしたところで、金田一は誰かに抱きしめられていることに気がついた。自分の頭より少し下に短い金髪の頭がある。見覚えがある気がして一気に視線を下げると、それは同じバレー部の一つ上の先輩、京谷だった。

「京谷さん!」

 名前を呼んだが、返事が返ってくることはなかった。代わりに痛みに耐えるような呻き声が耳元で聞こえて、自分の代わりに京谷がのっぺらぼうの拳を受け止めてくれたのだと瞬時に理解した。
 殴られる衝撃が京谷の身体を通して何度も伝わってくる。京谷の顔に浮かんだ苦悶の表情を見て、相当な痛みを与えられているのだと想像がつく。どうして京谷さんが俺なんかを守るんだよ。心の中で問いながらその身体を引きはがそうとしたり、態勢を変えて逆に京谷を守ろうと試みるが、自分を抱きしめる彼の身体はびくともしなかった。その間にも京谷の背中に次々と拳が叩き込まれる。

「やめろー!!」

 叫んだ瞬間、身体がふわっと宙に浮いた。いや、浮いたのではなく落下を始めたのだ。暗い穴の中に自分と京谷の身体が落ちて行っている。

「京谷さんっ」

 金田一は自分を抱きしめてくれていた京谷の身体を抱きしめ返した。もう絶対に離すものかと腕に力を込めながら、どこまでも落ちていく浮遊感に身を任せる。やがて暗闇しか見えなかった穴の中に、強い光が射し込んだ。



 目を開いた瞬間に、自分はさっきまで夢の中にいたんだと金田一は理解した。同時に身体のあちらこちらにある鈍い痛みを自覚し、思わず呻き声を上げる。

「――金田一、大丈夫か?」

 聞き覚えのある声が呼ぶ。けれど痛みでそちらに顔を向けるのも辛くて、掠れる声で「はい」と返事だけすれば、声の主が顔を覗き込んでくる。
 バレー部のコーチ、溝口だ。いつもは眉間に皺を寄せて厳めしい顔をしているのに、今は心の底から心配しているような、優しい顔をしている。

「気分は悪くないか? 痛いところはないか?」

 滅多に聞けない溝口の優しい声に、金田一は泣きたくなるくらいの安堵を覚えた。

「気分は大丈夫っす。痛いところは……いっぱいあります」
「だろうな。顔もひどいことになってるし、寝てる間ずっと呻いてたからな。けど骨やら内臓は大丈夫だったらしいぞ」

 どうやら寝ている間に病院に運ばれ、一通りの処置や検査をしてもらったらしい。あれほど殴られたり、蹴られたにもかかわらず、骨や内臓に異常がなかったというのは自分でも驚きだ。

「あの、京谷さんは無事なんっすか?」

 自分を暴力から守ろうとしてくれた京谷。途中で金田一のほうが盾になって守ろうとしたけれど、自分が駆けつけるより前から彼はリンチされているようだった。きっと怪我の程度も彼のほうがひどいはずだ。

「あいつは無事だよ。お前と同じで骨や内臓は大丈夫だったらしいし、意識もはっきりしてる。まあ面構えは前より凶悪になったけどな」

 よかった、と金田一は心の中で安堵の息をつく。弱い自分でもちゃんと役に立てた。あの人を守ることができた。京谷が無事でいるなら、事の顛末も自分がいつ病院から帰れるかもどうでもよかった。

「担任の先生がさっきまで来てたぞ。お前の両親にも連絡がいってるみたいだけど、どっちも仕事中だったから来るのにもうちょい時間かかるらしい。それまで俺がここにいるから、なんかしてほしいことあったら言えよ」

 はい、と返事をして金田一は少し笑う。溝口の優しさがなんだか少し嬉しかった。
 京谷と金田一をリンチした五人組が現行犯で逮捕されたという話を、溝口は少ししてから話し始めた。とりあえず街中で同じ連中にひょっこり出くわすようなことはないようだ。
 金田一も事件の詳細を知っている範囲で溝口に話してやり、そうこうしているうちに医者が様子を診に来た。ごく簡単な診察を受け、その最後に様子見のため二日ほど入院しなければならないということを聞いた。
 それから両親が来て入れ替わりに溝口が帰り、両親もまた一時間ほどで病室を後にした。窓の外の景色は夜のそれに変わっている。さっき飲んだ痛み止めのおかげか、身体が少し楽になり、起き上がってテレビを観ることもできるようになった。

(京谷さん、今頃何してんだろうな……)

 彼もまた自分と同じように入院することになったのだと、溝口が帰り際に言っていた。もしかして隣の部屋だったりして、と壁の向こう側を少し意識しながら、あとで探してみようかと思いつく。
 入口のドアがゆっくりと開いたのはそのときだった。最初に目に映ったのは、照明の明かりを反射する短い金髪だ。その下の顔にはところどころ痣があり、眼光の鋭さと相まって人相を悪く見せている。面構えが前より凶悪になった、という溝口の言葉がしっくりくる様相だ。入ってきたのは金田一がたった今思い浮かべていた男――京谷だった。

「京谷さん、もう歩いて大丈夫なんっすか?」

 近づいてくる京谷に、金田一は問いかける。

「……ああ。いろいろいてえけど普通に動ける。お前はどうなんだ?」
「今は痛み止めのおかげで大丈夫です。でもさっきまで全身すげえ痛くて……こんな痛いの人生で初めてっす」

 京谷はベッドのそばまで来た。鋭い目がじっと金田一を見下ろす。何か怒ってるんだろうか。ひょっとして余計なことしやがって、とか言われるんだろうかと不安になりながら、金田一も言葉が出てこずに沈黙が続く。

「……ありがとな」

 ぼそりと呟かれた言葉を、金田一は聞き逃さなかった。まさか礼を言われるなんて思ってもみなくてつい驚いてしまう。同時に胸がパーッと温かくなり、嬉しい気持ちを抑えられずに顔が自然と綻んだ。

「何笑ってんだよ」
「す、すいません、ちょっと嬉しくって……。でも役に立ててよかったです」
「今度からはあんま無茶すんなよ。弱いやつが無茶したら、下手したら死ぬ」
「京谷さんだって無茶して俺のこと守ろうとしてくれたじゃないっすか」
「俺はいいんだよ。それに、結局お前に守られるような形になっちまった」
「俺だって男です。守られてばっかじゃ嫌っすよ」

 あのときは本当に必死だった。ただただこの人を守りたくて、自分よりも小柄なその身体を懸命に抱きしめていた。
 今思えば不思議だ。同じバレー部のチームメイトとはいえ、京谷とは仲がいいわけじゃない。かといって悪いわけでもないが、正直に言うと金田一は彼に対して苦手意識を持っていた。そんな相手をどうして守ろうと思えたのだろう? チームの大事なエースだから? 見捨てれば良心が痛むから? それらも理由の一つだったかもしれない。でももっと大きな何かがあのとき金田一を突き動かした気がする。

「京谷さんはどうして俺のこと守ろうとしてくれたんっすか?」

 京谷にこそ、金田一のために身体を張る理由なんてない。どんな感情が、あるいは衝動が働いてああいうことになったのか、気になって訊ねてみる。

「俺のこと助けようとしてくれたやつを見捨てるほど、俺は薄情じゃねえ」

 何を当たり前のことを訊いてるんだという声で、京谷はそう言った。

「けどまあ、もうちょっと上手く助けてほしかったけどな」
「その節は本当にすいません……」

 あのとき金田一がこけたりしなかったら、自分たちはもっと軽症で――金田一に至っては無症で済んでいただろう。けれど逆にあのときこけなければ、必死に自分を守ろうとした京谷の優しさを知ることなんてできなかった。それを口に出すと怒られる気がして言わないでおく。

「そういえば、京谷さんとこうやってちゃんと話すのって初めてっすね」

 京谷とまともに会話を交わした記憶など、どんなに思い返してみても出てこない。フォーメーションの練習中や試合中に何かしら声をかけ合ったような覚えはあるが、それはとても会話とは呼べないものだ。

「特に用もなかったから」
「ひ、ひどいっ……そんな言い方ってないっす」

 金田一が抗議すると、京谷は罰の悪そうな顔をして視線を逸らした。

「……悪い。今のはよくねえ言い方だった。別にお前と話したくねえとか、興味がねえとかって言ったわけじゃねえよ。話すきっかけとかなかったし、何話していいかわかんねえんだよ。つーかお前だって俺に話しかけてきたことねえだろうが」
「だって京谷さん恐いっすもん。いつも機嫌悪そうだし、俺嫌われてるのかなってずっと思ってました」
「別に嫌いだなんて思ったことねえよ。話したこともねえのになんで嫌うんだよ」

 もう部屋に戻る、と言って京谷は身を翻した。その服の裾を金田一は咄嗟に掴む。

「嫌いじゃないなら、もう少しここにいてください。一人だと退屈だし、せっかくだから京谷さんともっと話したい」

 この人は恐い人じゃない。きっとコミュニケーションがあまり得意じゃないだけで、本来は身を挺して後輩を守ってくれるような優しい人なのだ。それを今更ながら理解して、理解した途端に京谷のことをもっと知りたくなった。

「観たいテレビがあんだけど……」
「じゃあここで観たらいいじゃないっすか。一人より二人のほうが楽しいっすよ」
「俺は一人で観る派なんだよ。まあ、別にいいけど……」

 文句を言いながらも、結局京谷はテレビの前の椅子に座る。
 それから二人でいろんな話をした。バレーのことや趣味のこと、果ては好きな漫画の話で盛り上がる。
 観たいテレビがあると言っていたくせに、京谷は画面にほとんど目を向けることなく、金田一を真っ直ぐに見て話をする。その鋭い眼光に今までなら怯えていたところだが、その中に害意や敵意がなく、むしろ優しさが潜んでいるのだということを知った金田一は、真っ直ぐにその目を見返すことができた。
 消灯時間が間近に迫ってきたところで、京谷は今度こそ帰ると言って立ち上がる。

「お前、飲み物とかあるのか? もしねえなら俺買って来るけど」
「あ、大丈夫っす。親が買ってきてくれたんで、とりあえず明日中は足りると思います」
「もし必要なもんとかあったら言えよ。俺が買って来る。動くのまだ辛いんだろ?」
「そんな、京谷さんも怪我人でしょ!」
「俺は動けるからいいんだよ。なんかあったらいつでも呼べ。寝てなかったら来てやる」

 たぶん京谷の中には、金田一を事件に巻き込んでしまったという意識があるのだろう。実際は金田一が自ら飛び込んでいったわけだから、彼がそういった負い目のようなものを感じる必要なんてない。それを言おうとして、しかし寸前で思い留まる。彼の気持ちや言葉を無下にしたくなかった。向けられた優しさに、今は少し甘えていたいと思ってしまう。
 胸の奥のほうで、何かがじんわりと滲み出すような感覚がした。それは湯のように温かく、穏やかだった心の水面にさざ波を立てる。息苦しさを伴うその感情の変化を自覚した途端に、全身がカッと熱くなった。急に京谷と目を合わせることが辛くなって、テレビのほうに視線を移す。けれどどうしてかすぐに彼の顔を見たくなり、もう一度視線を戻して、自分の中の戸惑いを払拭してくれる何かを探そうと試みた。
 京谷の視線は寸分の狂いもなくさっきと同じように金田一を真っ直ぐに捉えている。その目の中にはきっと今、自分しか映っていない。彼の視線を独占しているんだという事実に嬉しくなり、そして嬉しくなった自分に更に戸惑った。

(これは絶対に、よくない……)

 何がどうよくないのか具体的にはわからない。けれどわからないなりに、それが自分にとって革命的な変化をもたらすものだと直感している。理解してしまえばそれが最後。きっと自分は深みにはまって抜けなくなるのだろう。

「じゃあ、帰る」

 そう言って京谷は金田一に背を向けた。その服の裾に手を伸ばしかけている自分に気がついて、金田一はハッとなる。二度もそんなことをするのは駄目だ。自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、伸ばしかけた手を引っ込める。
 離れていく背中を見ていると、なんだか寂しくなってきた。暖かい陽射しが雲の中に隠れてしまったような、そんな心細さを感じて思わず声が出る。

「京谷さん」

 ドアの前まで来ていた京谷が、ゆっくりと振り返った。そして再び目が合う。ドキッと高鳴る鼓動。寂しさは急速に温かな嬉しさに塗り替わり、金田一を包み込んだ。

「ま、また明日」
「ああ」

 答えながら京谷は、少しだけ柔らかい表情を浮かべた。
ああ、と何かに納得したような、あるいは感嘆の息に近い声が心の中に零れる。理解したくないと思っていた感情の正体を、この瞬間に嫌でも理解させられた。

(そっか。俺は……)

 この人を独占したい。この人に尽くしたい。この人を守りたい。そう思う気持ちの名前を知らないほど、金田一は子どもではなかった。







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