V. 京谷さんが優しい人だって知れてよかった 予定どおり二日の入院を経て、金田一は日常生活に戻ることができた。退院した翌日がたまたま土曜日で学校は休みだったが、部活は曜日に関係なくこの日も朝からあることになっていた。身体を動かすのにはもうほとんど支障はないし、あまり休むと自らのレギュラーの座が誰かに奪われるのではないか。そう危惧して、金田一は今日から部活に出ることを決めていた。 バレーは好きだ。だから厳しい部活の練習にも耐えられるけど、時々面倒だなと思ってしまうこともある。けれど今日は違った。そんなネガティヴな気持ちは浮かんでこない。むしろ早く部活に出たくて朝起きてからずっとウズウズしていた。ただ、それは決して早くバレーをしたいからではなく、好意を寄せる京谷に早く会いたいという不純な理由によるものである。 「ひでえ面だな、金田一! 京谷さんと喧嘩して相打ちになったってマジ?」 部室に着いて早々、同級生の部員たちが待ってましたと言わんばかりの勢いで詰め寄ってくる。何やら噂に尾ひれが付いて事実とは異なる話になっているようだ。 「全然ちげえよ。京谷さんがリンチされてるの助けようとしたら、ちょっとミスって俺もリンチされただけ。京谷さんはむしろ俺のこと守ろうとしてくれたよ」 「え、京谷さんが!?」 皆一様に驚いた顔をする。気持ちはわからないでもない。金田一だって、あのときまでまさか京谷が自分のことを守ってくれるなんて思いもしなかった。 「なんかすげえ意外! 京谷さん、仲間意識とか全然なさそうなのに」 「入院してる間も、結構優しくしてくれたんだぜ。俺、最初身体痛くて動けなくて、そしたら京谷さんが俺の分の飲み物買って来てくれようとしたりさ。俺らが知らなかっただけで、たぶんいい人なんだよ」 「お前京谷さんをパシリにしたのか!?」 「パシリじゃねえよ! 京谷さんが自分から言い出したことだからな。それに結局一回も頼まなかったし。お前らも話してみたら京谷さんが優しい人だってわかると思うよ」 「まずその話しかけるところが難関なんだけど。やっぱ恐いし……」 そこを乗り越えさえすれば案外打ち解け合うのは早かったりするのだが、それは自分だけが知っていればいいかと、仄かな独占欲が言葉にすることを拒んだ。 金田一たち二年生が自分たちの準備を終えた頃になって、三年生が続々と体育館に姿を現し始める。それに対して挨拶をしながら、京谷はまだ来ないだろうかと、金田一はそわそわしながら入口に何度も目を向けた。 すっかり見慣れた金髪の頭が姿を現したのは、練習が始まる直前のことだった。ずっとドキドキしていた胸の内が、更に鼓動を速めて苦しくなる。苦しいのに、とても心地いい。その不思議な感覚をもっと求めるように、金田一は京谷に駆け寄った。 「おはようございます!」 京谷は最初驚いたような顔をしたが、すぐに表情を消して頷いた。 「うっす。相変わらずひでえ面だな」 「京谷さんだってそうでしょ! むしろ俺よりひどいっすよ」 「誰かさんが上手く助けてくれねえから」 「もうそれ言わないって約束でしょ!」 冗談、と京谷は意地悪そうな笑みを浮かべて部室に入っていく。 京谷の笑顔は貴重だ。会話の中で金田一が何か冗談を言っても、あまり笑ってくれることはない。そうかと思えば今みたいに、不意打ちのように笑う。たとえそれがどんなに意地悪そうだったとしても、金田一は自らの目をカメラにして、頭の中に保存した。 保存したのは笑顔だけじゃない。その日は京谷のいろんな姿を目に焼きつけた。スパイクを打つ瞬間の綺麗なフォームと鋭い目つき、インナースパイクが決まったときの少し得意げな顔、相手ブロックにどシャットされたときの心底悔しそうな顔――いつもこんな顔をしていたんだと、今までまったく意識していなかった京谷の仕草や表情の数々に、何度も見惚れてしまう。 (やっぱ京谷さんって、カッコいいな……) また京谷がスパイクを決めた。トスがやや乱れたように見えたが、それを上手く相手コートのコーナーに打ち切った。 「すまん、トス悪かった! ナイスフォロー!」 セッターの矢巾が京谷のそばに駆け寄る。差し出された手を京谷は一瞬だけ不思議そうな顔をして見つめていたが、その意図をすぐに理解したのか、ぶっきらぼうにタッチする。 チームスポーツの中ではごくありふれた光景のはずなのに、それを目にした金田一の心は一気に荒れた。嫉妬が激しい風を吹かせ、胸をギュッと締め付けられたように苦しくなる。その苦しさは、今日最初に京谷を見たときに感じたものと違って、とても心地悪かった。 矢巾に対して抱いたそのどす黒い感情を胸の奥に押し込み、金田一は京谷に歩み寄る。この心地の悪い苦しさを払拭するには、自分も矢巾と同じことをすればいい。積極的にチームの輪に加わろうとしない京谷とハイタッチを交わしたことなんてなかった気がするけど、矢巾がいいなら自分だって許されるはずだ。そう思って金田一も手を――片手だった矢巾と違って、両手を京谷に向ける。 「京谷さん、ナイスキー!」 声をかけると、京谷は矢巾のときと同じように一瞬だけ不思議そうな顔をした。けれどその表情を柔らかくすると、「ああ」と返事をしながら手を合わせてくれる。たったそれだけのことで、金田一の心は荒れた大地から色鮮やかな花畑に変化する。 触れ合った手が熱かった。一瞬の出来事だったのに、その熱は確かな感触として金田一に伝わってきた。それが消えてしまわないようにと手をギュッと握り込み、自分の定位置に戻る。 それから京谷が点を獲るたびに、金田一は彼に駆け寄ってハイタッチを交わした。京谷は別段嫌そうな顔をすることもなく、ごく普通に答えてくれた。手を重ねるたび、その男らしい手を握り締め、甲に口づけたいと思ってしまう。その衝動を必死に我慢しながら、金田一はその日の練習をやり過ごした。 「金田一」 バレー用具の片づけを終え、部室に着替えに行こうとしたところで金田一は京谷に声をかけられた。 「お疲れ様です」 「今日、用がねえなら帰りちょっと付き合え」 「大丈夫っすけど、どうしたんっすか?」 「ちょっと行きてえとこある」 「俺と一緒にですか?」 「でなきゃ声かけねえよ」 わかりました、と金田一は落ち着いた調子で返事をする。けれど内心では、飛び跳ねたくなるくらい舞い上がっていた。京谷に誘われた。それだけで驚きに近いような喜びが胸に満ちる。 着替えながら、一人でずっとウキウキしていた。まるで遠足前の子どものようだ。自分でそう思いながらも、それが恥ずかしいことだとは思わない。だって好きな人に誘われたんだ。それが嬉しくないやつなんていない。 金田一は素早く着替えを済ませると、走って体育館を出る。京谷は玄関の階段に座って待っていた。 「お待たせしました」 「別にそんな待ってねえよ。むしろ早くてビビった」 行くか、と言って歩き出した京谷の隣に並んで金田一も歩き出す。京谷は金田一よりも十センチくらい身長が低く、その分歩幅も短いはずだが、歩くペースが金田一よりも少し速い。 (ひょっとして俺って短足?) 心配になって京谷の脚と自分の脚の長さを目視で比べるが、やはり身長分金田一のほうが長いように見える。きっとテンポの差なのだろう。 金田一の目線の高さからだと、京谷のつむじがよく見えた。髪の毛が坊主に近いくらい短いおかげで頭の形のよさがよくわかる。綺麗な丸い形をしていて、まるで卵みたいだ。 「何ジロジロ見てんだよ?」 金田一の視線に気づいた京谷が、睨むような目を向けてくる。 「いや、あの……京谷さんってカッコいいなあと思って見惚れてました」 その言葉は九割くらい本音だが、残りの一割は京谷がどんな反応を示すのか見たいという好奇心によるものだ。 京谷は最初、豆鉄砲でも喰らったようにキョトンとしていたが、その顔が見る見るうちに赤くなっていく。最後には耳まで赤くして、怒ったようにズカズカと歩みを速める。 「す、すいません、怒らせるつもりはなかったんですが……」 「別に怒ってねえよっ。お前がいきなり変なこと言うから……」 怒ってないのに顔を赤くするということは、照れているということだ。意外なほど可愛い反応になんだか胸がポカポカと温かくなる。急いで後ろをついていきながら、その背中を抱きしめたいと思った。でもそんなことをすると今度は本当に怒る気がする。 三分ほど歩いたところで、京谷はそこにあったコンビニに進行方向を変えた。ここは金田一もよく買い食いをしているコンビニだ。金田一だけじゃなくて、きっと多くの青城生が利用していることだろう。 「お前はちょっと待ってろ」 そう言って京谷は金田一を外に残し、一人でコンビニに入っていった。付き合ってほしいと言っていたのはここのことだったんだろうか? 何のために? そんなことを考えているうちに、京谷が袋を下げて出てくる。 「これ、食え」 袋の中から出てきたのは、小さな紙の包みだった。中身はレジ横のホットフードコーナーのどれかだと、このコンビニをよく利用する金田一にもわかる。 「ありがとうございます。あの、お金」 「いらねえよ。この間の礼だから」 この間、と言われて思いつくのは三日ほど前の暴力事件のことしかない。 「礼なんてそんな……。京谷さんだって俺のこと守ってくれたじゃないっすか。だから俺だってお礼しないと」 「お前はいいんだよ。それに俺はお前のこと守りきれなかったし」 「そんなことないっす! 京谷さんが守ってくれたから、この程度の怪我で済んだんですよ。それに俺、京谷さんが守ってくれてすげえ嬉しかった。京谷さんが優しい人だって知れてよかった」 「別に俺は、優しくなんか……」 ぶっきらぼうに目を逸らした顔が、また赤くなった。この人はきっと褒められ慣れていないんだろう。いちいち照れる様を可愛いと思ってしまう。 もう一度お礼を言ってから、金田一は京谷が差し出した包みを受け取った。切り取り線から上を切り取ると、美味しそうなチキンが顔を覗かせる。スパイシーな香りが鼻腔をくすぐり、京谷と話すことに夢中で忘れかけていた食欲を刺激する。 「ハミチキだー。そういえば京谷さん、これよく食べてますよね」 「好きだから」 京谷も包みを開けて、金田一より先に食べ始めた。豪快にかぶりつく様は男らしくワイルドで、金田一もそれを真似るようにかぶりついた。 サクサクとした食感が一瞬、あとには柔らかい肉の旨味とあっさり目だがコクのあるスパイスの味が口いっぱいにじんわりと広がる。何度でも食べたくなる、そんな癖になる味だ。 「美味いっす!」 「だろ?」 どこか得意げな様子の京谷に金田一はひっそりと笑みを零して、残りのチキンを頬張る。先に食べ終わっていた京谷は金田一が食べ終わるのを待ってから、帰路を再び歩き始めた。 「お前って駅から電車で帰ってんだっけ?」 「そうっすよ。京谷さんは家どのへんなんっすか?」 「俺んちはあと十分くらいで着く」 「結構近いんすね。そうだ、これから京谷さんちに行っちゃ駄目っすか?」 「別にいいけど」 「え、マジで!?」 駄目元で提言したことだったが、迷うそぶりもなく了承され、逆に金田一のほうが驚いてしまう。 「暇だし、なんもなくていいなら来ればいいだろ。どうする?」 「行かせていただきます! ぜひ!」 京谷の家に行けるチャンスなんて、これを逃せばもうないかもしれない。興奮を隠せないままに返事をすれば、京谷は「変なやつだな」と笑った。 家に行くことを了承してくれたということは、それなりに心を許してくれると思っていいんだろうか? そうなら嬉しい。好きな人と距離を縮まるというのは、どうしようもなく嬉しいことだ。 でもその距離がゼロになる可能性は、きっと限りなく低いだろう。ひょっとしたら今感じている、近いけどまだ離れている距離が、縮められる限界なのかもしれない。そうだったら寂しいけれど、そうなるかもしれないということは、ある程度覚悟していたことだ。でももし、この気持ちを京谷が受け入れてくれたら……そんなあるはずのない未来を想像することを、金田一はやめられなかった。 |