W. 京谷さん、あの人のこと好きなんだ…… 京谷の家は比較的新しそうな一軒家で、彼の部屋はその二階にあった。奥の窓際にベッド、ドアの横の壁際には九十センチ幅の本棚、反対側の壁際にはテレビ台を兼ねた棚と二十六Vくらいのテレビがあり、残った壁はクローゼットになっている。 「意外と綺麗っすね」 もっと乱雑な部屋を想像していたが、床には何も落ちてないし、部屋の真ん中にあるローテーブルにも漫画が一冊置かれてるだけだ。 「意外って失礼だな! 俺はまあまあ綺麗好きなんだよ」 「すいません、つい……」 正直、京谷が身の回りの整理整頓を心掛けているようにはとても見えなかった。想像していなかった光景に思わず本音を漏らしてしまったが、金田一の部屋より綺麗なことがなんとなく悔しい。 「適当に座ってろよ。茶持ってくる」 「あ、お構いなく。手伝いますよ」 「いいって。一応客なわけだし」 金田一は言われたとおりに大人しく待っていることにした。どこに座ろうか迷った末、ローテーブルの前にちょこんと座る。 本当に彼の部屋にいるんだと、しみじみと思う。一週間前には想像もできなかったことだ。近寄り難かったはずなのに、今は京谷のそばにいると心が満たされる。気持ちの変化というのは不思議なものだ。 (あ、そうだ。エロ本ないかな……) どこからどう見ても硬派の京谷だが、それでも男子高校生らしくそういった類のことにも興味はあるに違いない。いったいどんな本を読んでいるんだろうかと好奇心が湧いて、とりあえず隠し場所として一番ポピュラーなベッドの下を覗いてみる。 (お、段ボール発見!) 何やら怪しい箱を引っ張り出し、無遠慮に蓋を開いて中身を確認しようとしたそのとき―― 「何してんだよ」 冷たさを帯びた京谷の声が金田一の鼓膜を震わせた。どうやら茶を持って来たようだ。 「勝手に人の部屋漁ってんじゃねえ」 「すいません。部屋見回してたらこれが目に入って、で、たぶんエロい何かだろうなと思ったら我慢できませんでした」 「ったく……。ちゃんと俺の許可をとれよ。駄目とは言わねえから」 「え、そうなんっすか? 普通こういうの人に見られたくないもんじゃないっすか?」 「別に変な趣味してるわけじゃねえから、男だったら見られてもいい」 「じゃあ遠慮なく見させていただきます」 再び目を向けた箱の中身は、よく見れば本じゃなくてDVDばかりだった。金田一はそれを一本一本検分する。 当たり前だが、どれもこれもノンケ向けの男女もので、京谷本人が言ったように特別変わった趣向のものはない。でもこれを見ながら彼がオナニーしてるのかと思うと、どうしようもなく興奮してしまう。 「つーか京谷さん、DVDありすぎでしょ! どんだけ好きなんっすか」 「こんくらい普通だろ? お前だって持ってるんじゃねえのか?」 「確かに持ってるけどこんなにたくさんはないっすよ!」 数えてみれば全部で十一本もあった。DVDは意外に値を張るものだし、男子高校生がそれくらい買うのは金銭的に厳しいものがあるはずだ。それを指摘すると、京谷は「中古ならそんなにしねえよ」と答えた。 「それにしてもっすよ! 俺、京谷さんはもっと硬派な人で、こういうのは持ってないとばかり思ってました」 「勝手に俺のイメージ決めんなよ。俺だって普通にAV好きだし、普通にオナる」 「オ、オナるとか言わないでください!」 「なんでだよ! お前もしてることだろ!」 そりゃあ、まあ、普通にしてますけど。しかも昨日はあなたをオカズにしました。その台詞は心中で呟くに留める。 「あ、あの、ひょっとして京谷さんって本番もしたことあるんですか?」 京谷に彼女がいるなんて話は一度も聞いたことがないけれど、自分が知らないだけでいても不思議ではない。そういった経験もあるんじゃないかと思い至って、おそるおそる訊ねてみる。 「……ねえよ」 京谷はバツが悪そうに視線を逸らす。否定されたことにひっそりと安堵した。 「お前はどうなんだよ?」 「俺もないっすよ。もちろんしたいっすけど」 男と。むしろあなたと。 「それ、観たいのあったら貸してやるよ」 「え、マジっすか? じゃあ借ります!」 DVDの内容には正直これっぽっちも興味はない。ただ自慰をした手で京谷がこれに触れたかもしれないと思うと、パッケージに触れるだけで興奮するし、それだけで抜ける気がする。十一本の内から五本を適当に選んで、自分のバッグに詰め込んだ。 それから本棚の漫画を読ませてもらった。金田一が漫画を読んでいる間、京谷はベッドに横になっていた。そのうち規則正しい寝息が聞こえ始め、ベッドを覗くと無防備な寝顔がそこにある。 「京谷さん?」 小声で呼びかける。起きる気配がないことを確認して、金田一は京谷の髪にそっと触れた。チクチクするくらい短い髪。それを何度か撫でたあと、頬を優しくつつく。プニプニして柔らかい。それにスベスベだ。厳つい顔をしているくせに、子どもみたいな肌質をしているなんておもしろいギャップだ。 無防備に開いた口。その薄い唇にキスしたい衝動に駆られる。身体の奥底から湧き上がるそれをグッと押し戻して、金田一はベッドから離れた。寝ている間にそういうことをするのは卑怯だ。この人はそういった卑怯を絶対に赦さない気がする。ちゃんと手順を守ってからじゃないと、嫌われてしまうだろう。 (でも、そんなこと言ってたらこの人とキスなんか一生できないんだろうな……) 同性を好きになるのはこれが初めてのことじゃない。金田一は生まれつきのゲイで、恋する相手はいつも男だった。だからいつも想いを相手に告げられずにその恋が終わってしまう。京谷にだって、自分の想いを告白することなんてきっとできないんだろう。 それでも寝ている隙に唇を奪うなんて、そんな卑怯なことはしない。それをしたところできっと気持ちが満たされるのは一瞬のことだ。むしろもっとしたいと思ってしまったら、余計に苦しくなってしまうのだろう。 泣きたいような気持ちを掻き消すように、漫画の続きを読むことに集中する。ドアをノックする音がしたのはそのときだった。 「賢ちゃん? 入ってもいい?」 ドア越しに聞こえたのは女性の声だった。母親の声にしてはずいぶんと若いように聞こえる。一体誰だろうかと疑問に思っているうちに、再び声が呼びかけてくる。 「ひょっとして寝てる? 賢ちゃんホント寝るの好きだなー」 睡眠の邪魔にならないよう気を遣うように、ゆっくりとドアが開かれる。 入ってきたのは金田一たちと歳が近そうな、十分に“女子”と呼んでも差し支えないであろう女だった。髪は肩より短く、さらさらしてそうな艶のある黒髪だ。顔立ちは美女と言うよりは可愛らしいという形容詞のほうが合いそうな感じで、クリッとした目がよりいっそうそう印象付けている。 女は金田一と目が合うと、大きな目を更に大きく開いて「えっ」と戸惑うような声を上げた。 「ごめんなさい。お友達が一緒だなんて思ってなくて……。玄関の靴、賢ちゃんのにしては大きいと思ってたら、あなたのだったのね」 「え、あ、はい……。友達っていうか、部活の後輩の金田一って言います」 「そうなんだ。あ、私は森宮詩織って言います。賢ちゃんの幼馴染なの。というか賢ちゃん、後輩くんを放って寝ちゃ駄目でしょ! ほら、起きて!」 詩織は乱暴に京谷の肩を揺すった。「うるせえ」と文句を垂れながら京谷が目を開ける。 「……なんでお前がここにいんだよ?」 「私が勝手にお家に上がるのはいつものことでしょ。うちのおばあちゃんが野菜たくさん送ってくれたから、それをおすそ分けに来たの。キッチンに置いておいたから、おばさんによろしく言っておいてね。じゃあ私は帰るから。もう寝ちゃ駄目よ。後輩くん、すごく寂しそうだったんだから」 「うっせえな。用が済んだならさっさと帰れよ。お前の声耳に響く」 「おかげで目が覚めたでしょ? 男の子ならしゃきっとしなさいよね。金田一くん……だったよね? いきなり入って来てごめんね。賢ちゃん無愛想でつまんないかもしれないけど、仲良くしてあげてね」 「余計なこと言ってんじゃねえよ! 早く出てけ!」 はいはい、と詩織は京谷の剣幕など意に反した様子もなく、最後に金田一に手を振って部屋を出て行った。 階段を駆け下りる音が聞こえなくなってから、金田一はベッドの上の京谷に視線を移す。京谷は閉まったドアを静かに見つめていた。その目はどこか優しげで、それでいて寂しそうな色を浮かべている。さっき詩織を邪険に扱ったときとは別人のような、熱っぽい感情を感じさせる目だ。 「今の、ひょっとして京谷さんの彼女っすか?」 違うとわかっていながら、金田一は彼の気持ちを探るためにその質問を投げかけた。 「ちげえよ」 間髪入れず、否定の言葉が返ってきた。けれど京谷の耳はそれとわかるくらい赤く染まっていて、熱っぽい視線の意味を嫌でも理解させられる。 (そっか……。京谷さん、あの人のこと好きなんだ……) 恋愛に興味がなさそうに見えても、この人だって誰かを好きになる。そんな当たり前のことをどうして想像できなかったのだろう。いや、想像できなかったんじゃない。しようとしなかっただけだ。好きな人がいないなら、ひょっとしたら同性の自分にも何かしらのチャンスがあるかもしれないと、心の片隅で思っていた。何かのきっかけで自分を好きになってくれるんじゃないかと期待した。 諦めかけた心の裏に、いつもそんな気持ちがくっついている。何度同じ目を見ても変わらない。馬鹿だな俺、と思いながらも捨てきれない希望に、結局は自分自身が傷つけられる。 「俺そろそろ帰りますね」 辛いのは嫌だ。もっと深く京谷にのめり込んでしまう前に、この恋を諦めよう。金田一はそう決意しながら立ち上がる。 「途中寝ちまって悪かったな。なんか疲れてた」 「退院明け最初の部活でしたからね。俺もいつも以上に疲れたっすよ。じゃあ、また明日部活で」 「ああ」 金田一を見送る京谷の目に、詩織のときのような熱はない。それを虚しく感じながらドアをそっと閉めた。 帰り道を歩きながら、どんよりとした気持ちが金田一の胸の中に渦巻いて、時々苦しくなって立ち止る。 (つーか失恋確定かよ……。世の中どんだけ俺に優しくないんだ) 涙が出そうになって、慌てて歯を食いしばった。失恋なんて今まで何度もあったことだ。いずれにしてもいつかはこうなっていた。それが少し早まっただけだ。 もう京谷とはあまり親しくしないほうがいいだろう。一緒にいればいるほどこの気持ちは膨らんでしまう。だから少し距離を置いて、誰か別の人を好きになるまで京谷とは離れていよう。 だけど金田一はわかっている。その決意が、明日になるともろく希薄なものになっているということを。気持ちはそう簡単に切り替えられるものじゃない。京谷を好きでいることを、簡単にやめられるほど軽い気持ちでもなかった。今日と同じように顔を見れば胸が弾んで、そして自分から積極的に話しかけたり、またハイタッチしようとしたりするんだろう。 絶望的な気分を抱えたまま、電車を使わずに歩いて家まで帰った。無性に泣きたかったけれど、それでも最後まで泣くことだけは我慢した。 |