Z. 俺はあなたが好きです


 相手のマッチポイント。味方のサーブは少しだけ相手のレシーブを乱すことができたが、セッターがそれをレフトオープンへの綺麗なトスに変える。高いトスだったから、こちらのレフトにいる京谷がブロックに間に合った。
京谷、金田一、国見の三枚ブロック。絶対に止めてやる、と強い思いを乗せて最大限に跳躍する。タイミングはばっちりのはずだ。ブロック同士の隙間もきっとない。確実に打ち落とせる。
 相手のスパイクが、金田一の指先に触れた。ブロックを上手く利用されてしまったようだ。そのままボールは大きく弾け跳び、着地して振り返った頃にはエンドラインよりも向こうに達していた。それをリベロの渡が懸命に追っている。

(頼むから、届いてくれ……)

 前衛にいた金田一たちも、繋ぎに備えてボールを追った。しかし、スライディングした渡の手は、あと数センチというところでボールに届かずに終わってしまう。
 無常に鳴り響くホイッスルの音。金田一たち青葉城西高校が、春高バレー準決勝で敗れた瞬間だった。
 悔しくて涙が出る。他のメンバーたちも整列しながら同じように泣いていた。特に三年生たちは最後の大会ということもあってか、一際激しく泣きじゃくっている。けれどその中でただ一人、京谷だけは涙を流さず、しっかりと前を向いていた。ただその顔にはやり場のない悔しさがはっきりと滲んでいる。

「京谷さんっ」

 呼びかけながら、金田一は京谷の身体に抱きついた。いや、体格的に金田一が抱きしめるような形になったが、気持ち的には甘えたつもりだった。
 今ならこんなことをしても周りの空気が誤魔化してくれる。京谷もやっぱり拒まないし、むしろ優しく抱きしめ返され、無骨な手が金田一の背中を優しく擦ってくれた。
 涙が余計に溢れる。悔し涙と、なんだかよくわからない涙。すべての感情がごちゃごちゃに混ざって、けれどその中でただ一つだけ、他の感情と混ざることなく強い光を放っているものがある。それは、この腕の中にいる人を愛しく想う気持ちだった。



 悔しい惜敗で終わった準決勝の翌日、金田一たちは決勝戦を観戦してから地元宮城に帰った。
 学校に着いたのはまだ夕刻に差し掛かったばかりだったが、体育館を他の部活が練習試合で使用していたため、その日は練習することもなくすぐに解散となった。けれど誰もすぐには帰ろうとせず、玄関前のロータリーで各々が雑談をしている。
 ポツポツと人が減り始めたのは、それから一時間くらい経ってからだ。辺りはいつの間にか暗くなっており、三日月がやや西の空に姿を現している。
 三年生はこれから残念会をやるらしい。だから今日は京谷と一緒に帰れない。でも二度と会えないわけじゃないし、引退しても部活に来てくれると言っていたから、今日くらい他の人に譲ってやってもいいと思った。

「金田一」

 そろそろ帰ろうぜ、と国見に言いかけたところで後ろから声をかけられる。振り返らずとも、毎日聞くその声を他の誰かと間違うはずがない。

「京谷さん、お疲れっす」

 ああ、と京谷は愛想のない返事をしてから、ふと視線を金田一の隣に向けた。

「こいつ、今から借りて行ってもいいか?」

 問われた国見は一瞬キョトンとしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。

「ご自由にどうぞ」
「つーことだから、お前ちょっと今から付き合えよ」
「え、京谷さん残念会はどうするんっすか?」
「あいつらには教室とかでも会えるし、今日じゃなくていい。それより俺はお前と話してえんだよ」

 話したいと言われて、心が弾む。そういえば京谷のほうからそういうふうに誘われるのは初めてな気がする。もしも自分に尻尾が付いていたら、きっと今ブンブンと振りまくっていることだろう。いや、今に限らず京谷と二人でいるときはいつもそうなっているに違いない。
 いつもと同じように二人並んで歩く。意識しているのかそうじゃないのか知らないが、京谷はいつも車道側を歩いていた。今日もそれは変わらない。
 途中でコンビニに寄って、京谷が好物のチキンを金田一の分も買ってくれた。それを頬張りながらまた帰路を歩き、今度は通りがかりの公園に寄ろうと誘われる。ここに公園があるのは知っていたけど、入るのは初めてだ。
 京谷はブランコに座った。金田一もその隣のブランコに座る。子どものときは何も違和感を覚えなかったけど、身体が大きくなった今はブランコもずいぶんと窮屈に感じる。

「昨日からずっと考えてる」

 前触れもなく、京谷が静かな声でそう切り出した。

「あのとき俺がこうしてれば、点を取ってりゃ勝てたんじゃねえかって」

 昨日の準決勝のことを言っているのだとすぐにわかった。

「決められるチャンスを何度も逃した気がする。あんま頭使わずにスパイク打って、ブロックに捕まったりもした。そういうのもっとどうにかしてりゃ、勝てた気がする」
「そんなの、それぞれがみんな思ってることっすよ。もっとブロック詰めればよかったとか、もっと必死にボール追ってればどうにか繋がったんじゃないかとか、俺だって思いました。京谷さんだけが責任感じる必要なんてない」
「けど、俺は一応エースナンバーを託された。エースならチームの窮地どうにかしねえといけねえもんだろ? その役割をちゃんと果たせなかった気がする」
「そんなことないっす。エースがチームのすべてじゃない。六人で強いほうが勝つって昔誰かが言ってたじゃないっすか。だから昨日の負けは、俺たち全員の力が及ばなかったってことです。京谷さんのせいじゃないし、他の誰かのせいでもない。全員が全員、もっと頑張らないといけなかったんっすよ。それになんだかんだ言って一番点取ってたの、京谷さんじゃないっすか。もっと堂々としてていいと思うんすけど」
「……お前、いいやつだな」

 似合わないけど、でも京谷なりに何か思い詰めていた部分があったらしい。昨日からずっと険しかった表情が少しだけ和らいで、安堵したように息を吐いた。

「負けるってマジで悔しいな。一回くらい日本一になってみたかった。もう叶わねえ夢だけど」
「京谷さん、確か就職でしたよね? バレーはやめちゃうんっすか?」
「町内会のバレーチームで続けていくつもりだけど。でもそんなにレベル高いわけじゃねえから、今までほど必死になることはもうねえんだと思う」
「なんにせよ、俺的には京谷さんがバレー続けてくれるのは嬉しいっす。やめちゃったらやっぱもったいないっすよ」
「お前はたぶん、どっかの大学か実業団に引っ張られるんだろうな」
「え、いや、それはどうかな……」
「絶対そうなる。タッパもあるし、センスだってあるだろ。放っておかれるはずがねえ」
「京谷さんに褒められるなんて初めてな気が……」
「そうだっけ? 俺はずっとお前のことそういうふうに思ってたけど」

 褒められたことが嬉しくて、胸の中が温かくなる。いつも自分のプレイに必死なように見えて、ちゃんと金田一のことも見てくれていた。それも嬉しかった。

「でも、お前と一緒のチームでバレーすんのも最後になっちまったな」
「そうっすね。なんかすげえ寂しいな。結局一年ちょっとだけだったっすね」

 京谷と初めて出会ったのは一昨年の夏頃だった。突然練習に現れて、いきなり当時の三年生たちに向けて暴言を吐いていた。柄の悪そうな風貌をしているのと相まって金田一の中の第一印象はあまりよくなく、できることなら関わり合いになりたくないとさえ思った記憶がある。
 でも今は、あのときとはまったく違った感情が金田一の中にある。あの暴力事件を通じて、金田一はこの人の優しさや温かさを知った。笑った顔や拗ねた顔、いろんな表情をこの目で見た。そして、この人のことを知れば知るほどに好きになっていく自分を自覚していた。
 守りたい。支えになりたい。わかってあげたい。いろんなことを共有したい。好きだ。どうしようもないくらい好きだ。誰よりも何よりも好きだ。そんな感情が胸の奥から噴水のように溢れ出してくる。それは金田一の声帯を震わせて、確かな言葉として唇をすり抜けた。

「京谷さんが好きです」

 隣の京谷が、驚いたように顔を上げた。

「俺はあなたが好きです。カッコよくて、バレーが上手くて、優しくて照れ屋なあなたが大好きです」

 この気持ちをこれ以上胸の中に留めておくことはできなかった。元々伝えて終わりにしようと決めていたし、ならタイミングはもう今しかないと思った。

「京谷さんがあのとき俺のこと守ろうとしてくれたの、すげえ嬉しかったな。病院でも優しくしてくれて、それまでずっと恐いと思っていたのが嘘みたいに、京谷さんのこと好きになった。それから部活も毎日楽しくて、たまに京谷さんと会えないと寂しくて……。人として好きってだけじゃなくて、恋愛的な意味で京谷さんのことがずっと好きでした」

 気持ちが零れるように、言葉もまた零れ落ちる。けれどきっとどれだけ吐き出しても、胸の中の気持ちは薄まったりしないんだろう。
 金田一の告白を聞いた京谷は、難しい顔をしたまま固まっていた。何も言わなくても、その顔がすでに告白に対する答えを物語っている。いや、顔を見なくたって最初から駄目なことはわかっていた。

「……お前はいいやつだと思うし、デカいけどなんか可愛いとも思う」

 言葉を紡いだ京谷の声は、まだ驚きと戸惑いの気配を滲ませていた。

「たぶん、俺はお前のこと好きなんだと思う。けどそれはお前の言ってる好きとは違う。普通に、人として好きだ。だから悪い、お前の気持ちには答えらんねえ……」

 分かりきった答えが金田一に返ってくる。覚悟はしていたはずなのに、その言葉が胸に突き刺さって苦しくなる。言わなければよかったんだろうか? いや、違う。言っても言わなくてもきっと自分は苦しかった。京谷にだっていつか恋人ができる。それは詩織かもしれないし、他の誰かかもしれない。そうなってしまったとき、ここで踏ん切りをつけておくのとそうでないのとは、味わう辛さも違うのだろう。たぶん、ここで終わるよりも自分はずっと辛かったはずだ。

「京谷さんが謝ることなんか何もないっすよ。俺が勝手に好きになって、勝手に失恋しただけっすから。それに京谷さんが男駄目なのは最初からわかってたことっす。ただちゃんと言って、それですっきりしたかったから……。明日からはただの、京谷さんを慕う後輩の一人です。だから今までどおりに接してくれたら助かります。気持ち悪かったら無視してくれてもいいっすけど」
「……別に、お前が男を好きだからって気持ち悪いとか思ったりしねえよ。そんなの仕方ねえことだろ。だから言われたとおり、今までどおりに接する。なんも心配すんな」
「……やっぱり京谷さんは優しいっすね。すげえありがたいっす。あーあ、でもホントすっきりしたなー。やっともやもやしたのがなくなった気がします」

 胸の痛みを察せられたくなくて、無理やり明るい声を出しながらブランコを立ち上がる。

「俺、今日はもう帰ります。昨日の疲れも残ってて、今すぐ寝ちゃいたい気分っす」
「……そっか。俺に付き合せちまって悪かったな」
「悪いとか思わないでください。俺は京谷さんと話すの好きだし、一緒にいるといつも楽しいっす。だから誘われたらいつでも付き合いますよ。この恋愛感情がなくなったとしても、それはきっと変わりません」

 京谷は戸惑う表情を見せながら何かを言いかけた。けれど何も言わずに口を閉じ、金田一から目を逸らす。

「じゃあ、お疲れ様でした。明日も部活に来てくれるんっすよね?」
「ああ……」
「じゃあ、また明日っす」
「そこまで送ってく」
「いいっすよ。どうせ分かれ道まであと百メートルくらいっすから。女子じゃないから一人で大丈夫っす」
「けど――」
「おやすみなさい!」

 京谷の声を遮って、金田一は走って公園を後にした。
 住宅街を抜け、河川敷に出る。走りながら頭の中に浮かんでくるのは、たった今終わってしまった片想いのことばかりだ。気持ちの大きさは、きっと自分の両腕でも抱えきれないほどのものだった。けれど恋はあっさりと、あまりにも味気なく幕を閉じてしまった。
 京谷はこの先本当に誰かと付き合ったりするんだろうか? その相手が詩織なら、今の金田一でも仕方ないと諦められる気がする。詩織は文句のつけようのない女性だ。自分がノンケだったら絶対に惚れていたとさえ思う。
 いつか二人は結婚して、幸せになる。結婚式には自分も呼ばれるだろうか? きっとその頃にはこの失恋の痛みや未練もなくなっていて、心の底から二人を祝ってやれるだろう。
 少し先にいつもの橋が見えてくる。そういえばあの日ここで、橋の下でリンチされている京谷に気づいて、覚悟を決めて助けに向かったのだった。懐かしい、というほど月日は流れていないが、なんだかずいぶんと昔の出来事のように思う。
 金田一は京谷を助けるのに失敗して、蹴る殴られるの暴行を受けていると京谷が身体を張って守ってくれて、そして最後には自分が再び彼を守ろうとした。あのとき彼に包まれた感触も、そして彼を必死に自分の腕の中に抱き込んだ感触も、一瞬だって忘れたことはない。けれどたぶん、それは徐々に薄れていって、いつかはっきりと思い出せない曖昧なものになってしまうのだろう。それがなんだか寂しくて、忘れてなるものかと何度も何度も思い出す。
 厚着していて寒くなかったはずなのに、なぜだか手足が震えた。唇も震え出したと思ったら、それを自覚した途端にポロッと涙が零れた。それが頬を伝い落ちていく感触を意識しているうちに、それは泉が湧くような激しさとなって次々と溢れ出す。

「京谷さんっ……嫌だ、京谷さんっ……」

 瞼が焼けるように熱い。けれど涙は空気に触れた途端に冷たいそれに変わって、金田一の頬にだらだらと広がった。
 一つの片想いが本当に終わってしまう。京谷に対する何もかも諦めなければならない瞬間がすでに訪れている。寂しさが全身に広がり、足に力が入らなくなって思わずその場に頽れた。
 金田一の守りたかった人。大好きな人。どれだけそばにいても、同じ気持ちが返ってくることはない。デートすることもできなければ、キスもハグも、セックスも何もかも、これから先の人生の中で京谷とすることは叶わない。
 今はたくさん泣いておこう。明日普通の後輩として彼に会うために、寂しい気持ちも悔しい気持ちも全部涙にして身体の中から出しておこう。
 けれど金田一は知っている。たった一晩泣いただけで、簡単に気持ちがなくなってしまうわけじゃないということを。痛みがそう簡単に消えたりしないということを。



続く




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