T. 逢いてえな……


 心に穴が開く。まさにそんな感覚がしていた。

 開いた穴から京谷の大事なものがすべて抜け出ていく。それを堰き止める気力もなく、また、塞ぐ方法も知らなかった。知っていたとしても今の自分はきっと塞ごうとは思わなかっただろう。自分がどうなろうと、もうどうでもいい。そう思うほどに目の当たりにした現実に絶望していた。
 悲しいはずなのに、不思議と涙は出なかった。ただ息苦しいような感覚と、大事なものを永遠に失ってしまったという虚無感だけが、背中に伸しかかるようにして京谷を取り巻いている。
 インターホンの音が鳴ったのはそのときだ。居留守を使おうかと一瞬迷ったが、何か大事な用件を抱えた相手な気がして、重い身体をなんとか立ち上がらせる。

「京谷さん」

 玄関まで辿り着くと、ドアを開けるより先に向こうから聞き慣れた声がした。「今開ける」と返事をして、鍵とチェーンを外す。
 突然の来訪者は高校時代の部活の後輩であり、京谷が卒業してから五年が経った今でも時々会っている、金田一勇太郎だった。顔を合わせるといつも愛想よく笑ってくれるのに、今日の金田一は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「京谷さんっ……あの、詩織さんが、亡くなったって……」

 金田一の言葉は途中で途切れて、細められた瞳から瞬く間に涙が零れ始めた。京谷は彼の手を引いて部屋に入れ、靴を脱がせてリビングまで連れていく。
 金田一はその場に頽れるようにして膝をつき、嗚咽を零しながら子どものように泣き続けた。けれど慰める方法を京谷は知らなくて、ただおずおずとその丸まった背中を優しく撫でた。
 金田一がこうして号泣するのも、そして京谷が絶望に打ちひしがれているのも、どちらも理由は同じだ。京谷の幼馴染、森宮詩織の逝去――その冷たく暗い現実に二人は直面していた。
 詩織の胃癌が発覚したのは、半年くらい前のことだった。そのときにはすでに治すことが困難な状態にあり、しかも他の部位にも転移していて、ただ死を待つしかないという事実を京谷は彼女の母親から知らされた。
 それから京谷は仕事が終わると毎日のように詩織の見舞いに行った。徐々に弱っていく姿を見るのは辛かったけれど、一緒にいられる時間が限られていることを思うと、会わずにはいられなかった。
 今日も仕事を終えて病室に行った。するとベッドの上に詩織の姿はなく、それどころか飾られていた花やぬいぐるみ、詩織の物が何もかもなくなっていて、京谷は心臓が止まるような思いがした。もしかして――いや、でもただ単に病室を移っただけかもしれない。悪い予感が自分の早とちりであることを願いながら、ナースステーションに向かった。けれどその途中で自分の母親に出会い、そして詩織が亡くなったことを告げられた。
 一人で暮らすアパートの部屋にどうやって帰ったかは覚えていない。いつもならとっくに腹が減っているはずなのに、食欲はまったく湧いてこなかった。悲しみに暮れる心の中で時々詩織との思い出を振り返り、けれどそれは寂しさが余計に増すだけだった。金田一が訪れたのはそんなときだ。
 金田一も詩織とは親しく、京谷も合わせての三人で映画を観たり、いろんなところに出かけたりもした。そんな思い出を金田一も同じように持っている。だから悲しいのは当然のことだ。

「なんか飲むか? つっても麦茶しかねえけど」

 ここに来てから一時間くらいして、金田一はようやく落ち着いてきた。京谷の問いかけに鼻を啜りながら頷いて、ローテーブルのティッシュで鼻や目元を拭き始める。

「ほら」
「ありがとうございます……」

 淹れてきた麦茶のコップを差し出すと、金田一はそれを一気に飲み干した。空になったコップにもう一度麦茶を注ぎ、自分の分も用意して京谷は金田一の正面に座る。

「すいません、来て早々こんな泣いてしまって……。病院で詩織さんのこと聞いて、ずっと我慢してたけどもう限界でした」
「別にいい。そんなのしょうがねえだろ。こんなの……悲しくないわけがねえ」

 人が死ぬということは、もうその人と永遠に会うことができないということだ。話すことも、笑い合うことも、何もかもができなくなってしまう。それが悲しくないわけがない。

「京谷さんもやっぱり泣いたりしたんですか?」
「いや……すげえショックで悲しいのに、涙が出ねえんだ。なんでだろうな。俺ってそんな薄情なやつだったのか?」
「京谷さんは薄情なんかじゃないっすよ。きっと涙も出ないくらいにショックが大きかったってことだと思います。京谷さんが詩織さんのこと大事に想ってたのは俺も知ってるし、きっと詩織さんにも伝わってたと思いますよ。だから自分のこと薄情だなんて言わないでください」

 京谷が詩織を大事に想っているように、詩織もまた同じように京谷を想ってくれていただろうか? たとえ詩織からのそれが恋愛感情じゃなくても、ただの幼馴染としての気持ちだとしても、彼女の中で少しでも特別でいられたならそれでいい。

(でも結局、本当の気持ちは言えねえままだったな……)

 京谷が詩織に対して抱いていた気持ちは、純粋な恋慕の想いだった。小学六年生のときに自覚してからずっと胸の中にあり続けたその気持ちを、結局最後まで本人に伝えることができなかった。
 言えばよかったと、今更遅い後悔が身体の奥底から湧き上がってくる。言ったところで何も始まらなかった可能性もあるけれど、きっと言えずに終わった今よりもほんの少しだけ辛さが楽になっていたはずだ。

「逢いてえな……」

 零れるように、ポツンと呟いた。
 もう一度詩織に逢いたい。離れ離れになっても後悔しないくらいたくさん思い出をつくって、そしてずっと抱え続けてきたこの想いを伝えたい。でもたぶん、どれだけたくさん思い出をつくっても、この想いを伝えて恋人同士になれたとしても、彼女が死んでしまったら結局はとてつもなく悲しい。どれだけ覚悟を決めたところでこの息苦しさも、胸の痛みもなくなったりしないんだろう。
 じんわりと、目の奥が熱くなるような感覚がした。悲しみや寂しさとともに何かが溢れ出る。その感覚が何なのかを知るより早く、目の前の金田一の顔が濡れたガラス越しに見ているように滲んだ。

「京谷さん……」

 どんな顔をして金田一が自分を呼んだのかはわからない。けれどそのデカい図体が京谷のそばまで寄ってきたのはわかった。長い腕に身体を優しく引き寄せられ、抱きしめられるような形になる。
 年下に慰められたくなんかない。そう思うのに、抵抗できなかった。それは決して金田一の力が強かったからというわけではなく、触れ合った身体があまりにも温かくて、胸の中の寂しさが溶かされていくような気がしたからだ。

「詩織っ……」

 一度溢れ出した涙はなかなか止まらなかった。それはやがて嗚咽に変わって、肩を波打たせながらただただ泣き続けた。
この涙と一緒に悲しみも寂しさも、孤独も虚無感も全部流れ落ちていけばいいのに。そうしたらきっと楽になれる。だけどどれだけ泣いても、京谷の心に開いた穴は塞がる気配を見せなかった。


 ◆◆◆


「――賢ちゃん」

 ベッドの上の詩織が、京谷を真っ直ぐに見つめながら名前を呼んだ。その顔は昨日よりも更に痩せた気がする。日に日に弱っていく彼女の姿を目にするのは、いつだって胸が痛かった。それでも京谷は一度だって見舞いをサボったことなどない。

「なんだよ?」
「私、たぶんもうすぐ死ぬと思うの」

 はっきりとした口調で、彼女は自分の死について躊躇いもなく口にした。

「……そんなわけねえだろ」

 それしか台詞が出てこない、頭の回転が鈍い自分を京谷は恨む。

「自分の身体のことは自分がよくわかってる。最近、痛み止めが効かないことが多くなったの。それに昼間は平気だけど、夜になると気分悪くなったり、身体のあちこちが痛くなったりすることが毎日続いてる。だからたぶん、もう駄目なんだと思う」

 詩織の母親が教えてくれた彼女の余命も、確かに近づいてきている。きっと詩織が自分で感じている死の気配は、勘違いなんかじゃないんだろう。だけどそんなネガティヴな台詞を彼女の口からは聞きたくなかった。

「死ぬのって恐いな……」

 いつも強気で恐いものなんかなさそうだった詩織が、初めて弱音を漏らした。痩せた顔は寂しそうに目を眇め、そこに別の景色を見出しているように、どこか遠くを見つめている。

「死ぬのが恐いっていうか、みんなに忘れられちゃうのが恐いな。忘れられると、本当に私の存在がなくなっちゃう気がして嫌」
「お前は死なねえよ。もしそうなったとしても……俺は絶対お前のこと忘れねえ。毎日でも思い出して、あいついつも口うるさかったなって思ってやる」
「口うるさいってひどい! 賢ちゃんのためを思って言ってあげてるのに!」

 詩織は可愛らしく頬を膨らませる。その瞳が泣き出しそうにじわっと潤んだのを、京谷は見逃さなかった。

「……悪い。口うるせえだなんて思ってねえよ。冗談だ」
「ううん。そうじゃないの。こういうやり取り、あと何回できるのかなって思って……」
「そういうこと言うのやめろよ」
「ごめん。賢ちゃんを困らせるだけってわかってるんだけど、つい……。よし、今ので弱音吐くのは終わり! こっからはいつもの口うるさい私だから」
「口うるさいは訂正しただろ」
「私、結構根に持つほうだから」

 いつもの明るさが詩織に戻ってくる。ひょっとしたらそれは無理をしているのかもしれない。そうだとしても、寂しそうな顔をしながら弱音を吐く彼女を見るよりはずっとよかった。

「そういえば賢ちゃん、最近金田一くんに会った?」
「先週会ったけど。つーかお前の見舞いに行った帰りだったぞ」
「そうだったんだ。なんか金田一くん、また長くなったような気がしたよ」
「せめてデカくなったって言えよ」
「う〜ん……金田一くんってなんだかよくわからないけど、デカいって言うより長いって感じするんだよね。まあそれはいいよ。それよりも賢ちゃん、金田一くんのことちゃんと大事にしてあげなよ?」
「大事にするってなんだよ?」
「賢ちゃんの友達って言ったら金田一くんくらいしかいないんだから、もっと丁寧に扱ってあげてってこと」
「雑に扱った覚えなんてねえよ」
「でも連絡はいつも金田一くんからなんでしょ? たまには賢ちゃんからもLINEとかしてあげたほうがいいよ。この間、金田一くん賢ちゃんから連絡してくれなくて寂しいって言ってたんだから」

 確かに連絡はいつも金田一から来る気がする。一緒に御飯を食べに行きたいとか、ちょっと買い物に付き合ってほしいとか。京谷だって彼に会いたいと思ってないわけじゃないけれど、今の金田一には恋人だっているし、実業団のバレー選手として忙しい身だ。だからこちらからはなんとなく連絡をし辛かった。

「今度からは俺からも連絡取ってみる。それでいいだろ?」
「よろしい!」

 詩織は満足げに笑った。

「でも本当に、大事にしないと駄目だよ。一人になるって寂しいことなんだから」
「……わかってる」

 認めるのは少し悔しいけど、詩織の言うとおり、京谷の親しい友人といえば金田一くらいしかいない。だからこそ今までだって彼を無下に扱ったことなどなかった。高校を卒業してからも、彼の試合には応援に行ってあげていたし、実業団チームに入った今だって近場で試合があれば必ず駆けつける。詩織とは少し違った意味で、京谷は金田一のことを特別だと思っていた。



続く




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